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#78

#78



顔の周りにまとわりつく白い包帯を少しずつ取り去る。そこに現れるのは、蒼白い頬と地を転げた際についたいくつもの擦過傷の跡。そして…。


…白濁した、かつて漆黒と呼ばれた闇のような瞳…


ケイは、そっと自分の右眼辺りに触れてみた。傷は細かく縫われ、もう既に痛みも殆どない。しかし、手を何度もかざそうと何一つ映し出そうとはしないブラック・アイ。


病室の鏡の前で、長い時間ケイはそのままでいた。言葉もなく、表情もなく。




まず大まかに標的を捉えるとき、彼は癖で片眼をつぶった。その方が細かな動きまでもを追うことができたからだ。

しかし、狙撃の基本は両眼による目視。確実な距離感と無駄な筋肉、特に表情筋の中の眼瞼筋が緊張を伴わないように。僅かなブレは遠距離の標的を正確に撃ち抜くことを難しくする。

遠近感すら掴めない。何よりも広い範囲の視野を失った。スナイパーとしてだけでなくソルジャーとしても、働くことは難しいだろう。



戻りたかったのか、戦場へ。



あの場所なら、何も聞かずに受け入れてくれると信じていた。中でのいざこざなど俗世間に比べればなんてことはない。常に死と隣り合わせ。そう…人はいつか死ぬ。それがあの場では日常であっただけ。





部屋へ入り込む陽射しが、ゆっくりと赤みを帯びてくる。今日もまた一日が終わる。その繰り返しの中で、おれは何をすればよいのだろう。


まぶたを閉じたくとも、筋肉の動きまでもが制限されている。生命があっただけ幸運だと、担当医は何度も繰り返した。ラッキーなのかアンラッキーなのか。いっそその場で…。



不意に鏡に現れた影に、ケイはうつろな視線を向けた。奥行き認知の苦手な人間に生まれついたことは、確かに幸運だったのだろう。彼は鏡越しにその人物を見ることができたのだから。


片方の機能が失われたままでも。


そこにいたのは…カークランド警部であった。




「僕を逮捕しにいらしたのですか。警察官が単独行動を許されるというのは、あなたがそれだけの特権を持っているからと解釈してよろしいのでしょうか」


ふっ。ミラーの向こうで彼が笑う。それも苦々しく。


「逮捕状など持ち合わせてもおりませんし、そもそもあなたには何一つ犯罪容疑など掛かってはおられないのですよ。ハミルトン子爵。それに…」


言葉を切るとカークランドは、つと視線を僅かに逸らした。特権など私には、と。


「僕はハミルトン子爵ではありません。もう、とうにご存じなのでしょう?」


掠れたいらえ。すべては終わったのだ。デッドロック。どう動くこともできぬ。


「いえ」


ゆっくりと視線を戻しつつ、カークランドははっきりと答えた。ケイの身体が微かに反応する。


「あなたは法的に、今でもザ・ヴァイカウント・オブ・ハミルトンには違いない」


本物は別にいる。痛いほどのケイの呟き。碧い瞳を精いっぱい堅くつむる。



「では、キースと。キース・キャリック=アンダーソンの名を取り戻したいとお考えなのですか?」


「そんな名など知らない!」


全く覚えてもいない名前。確かに兄様は憎しみを込めてキースと呼んだ。でも違う!それはおれの名じゃない!!


「ブラック…それがふさわしいとでも?」


低く静かなカークランドの声に、しかしケイは振り向きざま叫んだ。





「もうブラックなんかじゃない!!これを見ればわかるだろう!?」


崩れかける彼を、警部が素早く支える。その腕の中でケイは叫び続けた。


「おれはブラックじゃない!!黒い瞳などない!!あるのはただ、白く濁った光さえ通さぬ歪んだガラスだ!!」


どの名で呼べばよいのか。伝わるカークランドの逡巡。その間もケイは叫ぶのを止めなかった。


「じゃあなぜ!!なぜおれにオッド・アイなど与えたんだ!?何の為に?こうやって一生苦しむ為か。目立つからと避けられ、隠され、最後にはむしり取られ!!ならどうして最初から、神はおれに、平凡という名の瞳と生き方をくれなかったんだ!?」



ケイ…ハミルトン。警部にはそう呼ぶしかなかった。目の前の男が、鮮やかな手口で重要機密の窃盗を繰り返し、凄腕のスナイパーと恐れられたブラックとは到底思えなかったから。





「ケイ!」


騒ぎを聞きつけて耀司が病室に飛び込んでくる。カークランドの姿に一瞬怯むが、すぐさまケイのそばに駆け寄る。


「何を言った!?ケイに何をした!?」


私は別に…。言いかけた警部はなぜか言葉を切った。耀司にすがり、崩れ落ちるように床にうずくまる彼は、涙も流せぬまま嗚咽を繰り返すばかりだった。




「いつまでも-そこに留まるつもりか。ケイ・ハミルトン」


それまでの杓子定規な冷たさを感じさせる問いではなく、初めてダリルはケイへと肉声で話したような気がした。

捜査する側と追われる側。今は違う。そんな想いさえ伝わるかのように。


ケイは必死に声を抑えると、ただ肩を上下させ荒い息を繰り返した。


「と…どま…る?」


「泣き喚いていれさえすれば、おまえは満足か?本当に戦うべき敵は誰だ?その戦いすらも放棄するというのなら、致し方ないがな」



本当の……敵。



「このままあんたたちが、黙って泣き寝入りするというのなら止めはしない。確かにもう、十分だろう。だが、俺は違う」


今度はケイが苦笑する番だった。


「あんたが最初に、気弱な貧乏子爵を犯罪者だと勝手に疑って、勝手に追いかけ回したんだろうが」


そうだったな。警部の口元が緩む。ついこの間のような気さえするのに、な。




「クリスティアナ嬢のことだがな」


言いかけた警部に、耀司は「ミスター!!」と鋭く牽制した。これ以上ケイを傷つけるな!必死の想いを込める。

ケイは身体を硬くして何も言わない。拳だけがぐっと握りしめられる。


「彼女の父親を知っているか?」


意外な言葉に、ケイのみならず耀司までもが思わず顔を上げた。何を言い出すのだ、この警部は。


「…リチャード…キャリック=アンダーソン…では?おれや兄と同じ…」


裏が取れているわけではなく、あくまでもオフィリアの証言に過ぎぬがと前置きして、カークランドが口を開いた。



「彼女の生物学上の父親は…デリック・エマーソンだそうだよ」



がたん。


外の風に、ベッド脇の一輪挿しが倒れた。花もなく、少しばかり入っていた水が、床にしみを作ってゆく。




「過去を丹念にほぐし、並び替え、きちんと収まるべきところにパーツを押し込めろ。パズルが完成しないことには、誰も救われない」


「救われない?」


クリスティアナも君も…。それだけじゃない。君に関わるすべての糸と、AOKIの事故。無関係だと思うか?



ケイはゆらりと立ち上がった。



「もう止めろ!ケイ!!終わったことなんだ!せっかく助かったおまえのこれからを考えろ!!」


耀司の悲痛な叫びに、選ぶのは君だ…ハミルトン子爵、と声をかぶせたのはカークランドだった。


「ケイ!」


「耀司…おれはケイじゃない。キースでもない。もう…ブラックにも戻れない」




「ついでに、アーネストの伝言だ」


今までにないほど柔らかなダリルの声。二人のかつての少年は、黙ってそちらを向く。




「アンノーンとはな、これから何にでもなれるそうだ。君が決めたまえ。どちらにゆくかを」





そこまで言うと、ダリル・カークランド警部は病室を出て行こうとした。堅い靴音が響く。ドアの前でいったん立ち止まった彼は、意味ありげに口元を歪めた。


「君を犯罪者として追うことはないがな、ケイ・ハミルトン。アーネストを傷つけた件に関しては、すべてが終わったらきっちり落とし前をつけてやるからそのつもりでいろ」


そう言い残すと、彼は足早に去っていった。





残された二人に訪れる静寂。陽はすっかり落ち、灯りもつけぬままケイと耀司は床から動けずにいた。


「ケイ…。ボスをこの件に巻き込んだのは、俺の落ち度だ。やるなら俺が一人でやる」


そっと頭を振りながらケイは耀司を、その碧い瞳で見つめた。


「イヤ、そうじゃない。たぶんこれはもっと前から、ずっと前から、連綿と用意周到に仕組まれた…罠のような気がする。おれたちは、ボスにいいようにつかわれていただけだ。おれたちだけでなく、おそらくアンディも他の連中も…もしかしたらオフィリアたちでさえも」


「その眼で何ができる!?おまえは死にかけたんだぞ!?」


真剣なまなざしの耀司に、今度こそケイは笑い声を上げた。今さら?死線など何度もくぐってきてるというのに?



耀司は「この王子様は、言い出したら聞かねえからなあ。罪なことしてくれるよ、警部さんもよ」と嘆く。


ケイはケイで、もう一度、薄闇の中で鏡をのぞき込む。




アンノーンは、何にでも…なれる。ケイはその言葉を何度も何度も呟いていた。






「正気か、君は!?我々は敵対関係にあるのだよ!?」


退院してスーツに着替えたケイが向かった先は、ウィリアムズ・パークスが弁護士として勤務する事務所であった。


「こちらは民事を専門とすると伺ったのでね。弁護士の知人など、そういるものでもないし、僕としては心強いかと思ってね。それとも何?ここは同窓の後輩からの依頼を断るとでも言うのかい?」


グラデーションの入ったサングラスに、ひっつめたプラチナブロンド。いつぞやの凄惨な事件を忘れてはいないぞと言う牽制からなのか、これ見よがしに光る両耳の品の良いピアス。


微笑みさえ浮かべ、ケイはウィリーと対峙していた。



「それはそれ、これはこれだ。僕はこちらの事務所に、民事裁判としてAOKIの引き起こした事故の遺族会を組織し、弁護団を引き受けていただきたいと願い入れた。その窓口には同窓で頼れる、知人のパークス氏を是が非にでも、とね。君の上司は快諾してくれたよ」


「断る。私情を挟みたくない」


「ほう。では誰よりも公正であらねばならないジュニア・バリスター(普通弁護士)パークス氏は、ご自分が弁護士業務よりも私憤を晴らしかねない人物だと言って廻りたいと」


脅す気か。声をひそめてというより彼なりに精いっぱいドスを利かせて、ウィリーはケイを睨め付けた。


涼しい顔でそれを受け流したケイは「お引き受けいただきありがとうございます、先輩」と快活に笑った。






さあ、やられっぱなしはこっちだって願い下げた。けりをつけるのはおれの過去だけじゃない。複雑で絡まり合った過去という名のString Figures-あやとり-を解きほぐし、関わったすべての人間たちを解放してやる。



そして、常にその中心にいるのは……デリック・エマーソン……



ケイたちの反撃は、こうして静かに幕を開けた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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