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#77

#77



慣れないドライジンが喉を灼く。あおるように口に放り込めば、じきに足腰など立たなくなるだろう。もともと酒にはめっぽう弱い。それでも…飲まずにはいられなかった。


昼間は閑散として、物音一つしないアーネストの店。主はどこをほっつき歩いていることやら。

カークランドは、勝手知ったる親友の店のカウンターから青く透き通るボンベイサファイアを取り出していた。まるでどこぞの誰かの瞳のような、文字通りサファイアの輝き。



…意識はあり、会話も正常だった。致命傷になり得ることもないだろう。ハミルトンに何の容疑も掛かってはいない現在、彼が自宅に戻ることに何の支障もないはずだ…


それでも行方の掴めぬ子爵、いや-ブラック。何と呼んだらいいのだ、彼のことを。



『アンノーン-unknown-と』



彼の言葉が耳に残る。名を持たぬ辛さなど考えたこともなかった。私は常にダリルであり、カークランド家の三男であり、両親もその係累もすべて調べることなど容易だ。


アーネストはスクールを放逐され、家を出てからもシャーウッドの名は捨てることはなかった。

もちろん、偽名も俗称もステージネームを持つものも多いだろう。しかしそれらの殆どは、自らが選んだもの。

ブラックは…キースは、どれだけの名を与えられ、周りに翻弄され続けてきたのだろうか。

そして、クリスティアナの名前を残したオフィリアの胸中はいかばかりのものだったのか。



名とは、それほどまでに人を縛り付けるものなのか。



「人を法で救えるなどと、思い上がるのも大概にしろ。ダリル・カークランド」


己に言い聞かせるように呟くと、彼はなみなみとついだ酒を流し込んだ。






ライムの詰まった紙袋を手にアニーが店に帰ってきたときには、カークランドは磨かれたカウンターの板に突っ伏していた。


「あらら、弱いくせに。ちょっと大丈夫?おまわりさんが急性アルコール中毒で運ばれるなんて、洒落にもならないんですからね!?」


そっと袋をテーブルに置くと、アニーは彼の腕をとった。水でも飲ませて奥のベッドで休ませなければ。ダリルが酒にとことん弱いのを知り尽くしているのは、このアニーなのだから。


回した腕を逆手にとり、ダリルはアーネストの顔を引き寄せた。節ばった大きな掌が頸の後ろに回り込み、彼の息がアニーへと掛かるほど近づく。


酔っているのか。しかし思わぬほどその強い意志を持つ瞳は、アーネストをしっかりと捉えていた。


「ダル…」


開き掛けた唇をふさぐように、ダリルは己のそれを彼に重ねた。強いジンの香り。それは優しくふれあうと言うよりもすべてを奪い去るかのような激しさで。





恍惚さに溺れるのではと思われたアーネストは、腕を伸ばすと「彼」の身体を押しやった。ダリルの息が荒い。酒に溺れているような目ではなく、哀しげにアニーを見つめる。


「素面でもないノンケに襲われたって、嬉しくも何ともないわ」


視線を外してアニーが囁く。何かをこらえるように。それは涙ではないことだけは確かなようで…。



「みっともなくもだらしない俺など、必要ないということか。誰も彼も力を欲する。俺自身などではない。国家権力の一端を担うダリル・カークランドという男の力だけがな」


バカじゃないの!?一刀両断に斬り捨てる。アーネストは、習性のように唇を腕でぬぐうダリルを痛ましげに見やった。


「あんたが誰だって関係ないわよ。スミスだろうがマックスだろうがタローオカモトだろうが。どんなあんたでもアタシはいつだって一番の味方だもの。それを疑われるとは思ってもみなかったわ」


肩を落としてうなだれるダリルに、わざと明るい声を掛けた。






「いつまでも俺にまとわりつくのは…おまえの兄貴と同じ名だからではないのか。アンドリュー・シャーウッドという名のな」


暗い…暗い瞳。ふだんのカークランドなら決して口には出さぬ名。さすがのアニーも表情を凍らせた。


「あんた、アタシを本気で怒らせたいの?」


「叶わぬ恋。俺はただの代償、身代わり。からかって遊ぶ為だけの」


アニーはカウンターに出されたままだった淡い青の瓶を掴むと、さっさと片付けようとした。酔っぱらいの戯れ言を本気にするほど、世間を知らぬ彼ではない。しかし今日のダリルは、その手にさえ触れた。


「実の兄貴に恋した弟ってのは、どういう気分だ?えっ?」


アーネストは唇を固く結び、何も言わない。言えるはずもない。口を開けば想いが溢れる。それは決して美しいものだけではない。


「あんたが本当に訊きたいのは、キャリック=アンダーソン兄妹のことなんでしょう?当てこすりにアタシの話題なんか出さないでよ」


気丈にもそう応えた。低くドスの利いた声で。


「俺はあくまでもおまえの話をしているのだ、アーネスト。俺では相手に不足か?」


笑顔さえ浮かべず、まっすぐにダリルは彼を見つめた。アニーも負けじと睨み返す。視線が激しくぶつかる。





「男と寝たこともないくせに。あんたにわかってたまるかってのよ、エリートの王子にはね。自分の身体なんか、全部引きちぎってしまいたいくらい嫌いなのに、パーツはイヤでも反応する。そのおぞましさと求める心と、葛藤がどれほどのものかわかる!?わかりっこないのよ!!ノンケなんかに!!」


「…アーネスト…」


「男として男を求める、心は女として男に抱かれる、女がイヤだから男に走る。いろんなヤツがいるわ。でもね!あんたたちがノーマルだと信じ切ってる異性間の恋愛感情と何が違うのよ!!」


いったんはしまいかけたドライジンのボトルを、アーネストの手がさりげなく開ける。そのまま口をつけて中身を飲み込む。まるで水を飲み干すかのように。


「わかる!?人を好きになるのに、性別も兄弟も何にも関係ない。なのに、すべてはアブノーマルだと誰かが決める。決められたらアタシたちはその日から罪悪感にとらわれる。この身も心も引き裂かれる。好きでこんな身体に生まれたんじゃないわ!!ふざけんじゃないわよ!!そんじょそこいらの若い子みたいに、ファッションで男が好きだなんて、言っていいことと悪いことがあるんじゃないの!?その苦しみも知らないくせに。好きだから…抱きたい、抱かれたい。それのどこが…いけないのよ…」



すべてを飲み下した彼は、瓶をカウンターに叩きつけた。粉々に舞い散る、不揃いなサファイア。



「アタシが好きでゲイバーなんてやってると思ってるわけ?誰かが言ってたわ。心は女のゲイの人だったかしら。本来ならきちんと女性として認められて一般の仕事がしたい。でもマイノリティの私たちには行き場がない。パスポートには否応なしにMと書かれる。だから、おもしろおかしく笑われながら、私たちは夜の世界で生きるしかないとね。現代ではようやく世界がマイノリティを認め出した。性は変えられることができる。いいえ違うわね。本来の精神的ジェンダーに戻すことができる。それでもなお、アタシはこの身体を持つしかない。そして愛した人は、血のつながった兄。文化人類学なんか持ち出さなくたってタブーなことはわかってる。でもね、人の心にどんな壁が打ち建てられるというの?誰が建てるの!?悪いとわかっているからこそ!アタシはあの家を離れたんじゃないの!?」



もはやダリルは何も言い返せなかった。未だ癒えぬ生々しい傷口に、うっすらと張ったかさぶたをこじ開けたのは己だという想いからか。


ほんの、ほんの少しばかり冷静さを取り戻したアーネストは、そばのスツールにそっと腰掛けた。




「時折ね、わからなくなるの。男って女って何だろうと。血のつながりって何なのかと。それほどまでに血縁とは、何かを引き合うものなのかとね。逆に言えば、血さえつながっていれば心もつながるの?そうではないことは、いくら世間知らずのアンドリュー王子でも知ってるわよね」


「マジョリティとは…時に不自由なものだな」


酔いも醒めたのか。あれほどアルコールに弱いというのに。それでもダリルの声には、哀しいまでも想いが込められていた。


「俺は男で、普通に女を求める。生活にも不自由しないし、代々続いた家もある。記憶は途切れることなく、その他大勢と同じように毎日を何の疑問も持たぬまま生きる。それは…時にマイノリティを酷く傷つけるのか」


わかって欲しいとは、理解して欲しいとなんか言わないわ。囁くアーネストの声にゆっくりと視線を向ける。


「知っていて欲しい。この世には男でも女でもない人間がいることを。両性を持つ者も判断がつきかねる者さえもいる。それでも自分の身体を持ったまま生き続けていることを。ジェンダーだけじゃないわ。この世には幾多の生き方をしている人間がいる。何が正しくてどれがダメなのだと決めつけることはできない。倫理に反していようと、道義的でなくとも、法に触れようが何しようが、そうでしか生きられない人間もいるということを。ましてや、血のつながりだけがすべてだと信じ切れるほどの鈍感な人間にだけはなって欲しくない。せめてあんただけでも」


「知る…だけでいいのか?理解して欲しいとは望まぬのか?」


先ほどのガラス片は、未だ空を舞い、きらびやかな光を受けて輝いていた。



「知っていてくれれば、この世のどこか片隅で生きていることが許される。そうでしょう?キースも同じよ。名を持たぬ辛さを知る人がいれば、彼は生き続けられる。アタシがこの生き方を選んだように、彼は自分で自分の生き方を選ぶことができる」



選ぶ…生き方を。



「彼はまだ知らない。自分が選べることを。アンノーンはね、これから何にでもなれるという意味でもあるのよ。じゃない?」


それを彼にちゃんと伝えたいの。その為には、この絡まり合ったすべての時を、解きほぐしてゆかなくてはならない。違う?



「組織に刃向かえと、俺に言うのか」


「逆よ」


ダリルの目がいぶかしげにひそめられる。


「本当に裁かれなければならないのは、果たしてケイ・ハミルトン子爵なのか。ダルの大好きな…失礼、信じる正義はどこにあるかを、あんたなりの方法で探してよって。まあ無責任にたきつけてるんだけどね」


そこでようやく、アーネストはいつものようにカラカラと笑い声を上げた。



正義…なんとまあ、青くさい。



ダリル・アンドリュー・カークランド警部は、一つ大きく息を吐き出すと長い指をぎゅうと組み、空をじっと見つめた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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