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#75

#75



「アンディ・パーカーの身柄はSISに移された。あとはフランス当局との交渉になるだろう」


ヤードの一室で、カークランド警部は部長の説明を聞かされ続けていた。

無言を貫き通す。ミミは出し抜いたつもりでも、やはりイギリス情報部が黙ってはいなかったという訳か。


「大がかりな捜査など必要なかった。完全な君の方針ミスだな」


すうっと息を吸い込むと、カークランドはできるだけ冷静に言葉を返した。いつものように冷たい仮面をかぶれ。彼がそう己に命じたのは、もしかすると初めてのことだったかも知れぬ。


「お言葉を返すようで申し訳ありませんが、ザヴィアー部長。彼は少なくともAOKIの研究所に侵入し、令嬢を誘拐し、人を一人…傷つけた。傷害罪もしくは殺人未遂の罪に問われてもおかしくはないでしょう」


「事件は、なかった」



カークランドの目が見開かれる。この期に及んで何を言い出すのか!?



「偶発的な事故でテクニカル研究所に停電が起こった。新車のデザインについて会議を持っていた重役らが、エレベーターの電源供給がストップされたが為にしばらく閉じこめられた。しかしそれも、警察各部署の連携によって速やかに救助された。以上だ」


「すべてを…闇に葬り去るおつもり…です…か…」


彼ほどの男の声が震える。ことは重大だ。軍事機密が盗まれたのだぞ!?


「君が、あまりにも疑心暗鬼に取り憑かれ、大々的な捜査体制を取ってしまった。開けてみれば何もなかった。それだけの話だろう」


ザヴィアーの薄笑い。ダリルはギリリと奥歯を噛みしめた。


「では、なぜアンディ・パーカーが身柄を拘束されなければならぬのですか!?」


落ち着きたまえ。二人の他には誰もいない会議室で、部長は余裕めいた声で戒める。


「彼は偶然起こった停電事故に乗じて、新型floraのデザインを盗み出そうとした産業スパイの容疑が掛かっている。我が国にとってもフランスにとっても、アジア製の自動車に対抗できうるだけの技術開発は最重要課題だ。もっとも、未遂で終わったということで国内法では不起訴が妥当だろうと」


「新車の色など機密の訳がないでしょう!!エマーソンを追うようにと、私は特命を受けている!!」




ゆっくりと警部に向き合ったザヴィアーは、その瞳に少しばかりの哀れみを浮かべ呟いた。


「カークランド君。その副総監からの伝言だ。連日の激務で疲れていることだろう、君は少々休みたまえ、とね」


情報部との…馴れ合い、か。何らかの駆け引きがあったとしか思えぬ。しかし、官僚にとって上司の命令は絶対だ。


すべてはなかったこと。次世代リチウムイオン一次電池の試作品が盗まれたことも。それを奪ったのがおそらくブラックであり、さらに彼と令嬢を狙うのがアンディ、いうなればエマーソンであるということも。


そして、酷い負傷を追いながら姿を消したブラックことケイ・ハミルトンの行方も。


一警察官僚に過ぎぬカークランドに、これ以上何ができる?


彼は感情を精一杯抑え込むと静かに立ち上がり、ザヴィアーに目礼した。



「それでは、私はこれで失礼します」


「よい休暇を。ダリル・アンドリュー・カークランド警部」


どこか勝ち誇ったかのような部長の声に反応することなく、カークランドは廊下へと出た。





救えなかった。かつての少年を。

不意に彼は拳を作ると、廊下の壁に思い切り殴りつけた。薄っぺらいクロスの下は堅いコンクリート壁。鈍い音を響かせるだけ。それでも会議室の動向をそっと伺っていた、パーテーション裏の部下らは、ハッと息を飲んだ。


「ちっきしょう。ふざけるな!!では、警察はなんの為にある!?社会正義などあるわけがないと!?」


冷静沈着、何ごとにも動じず時に冷酷。そんなコンセンサスさえ形成されていたカークランドが初めて見せる激しい感情。


彼は何度も何度も壁を打ち付けた。救えなかった己の無力さに。事なかれ主義のこの組織に。どこにぶつけていいものかもわからぬこの想いを。



「明日から私は休暇だ!!携帯も電源を切っておくからな!!私への連絡は無用だ!!」


け、警部…。とまどい顔の部下らに言い捨てると、カークランドは足早に庁舎を出て行った。


二度と、二度とこんなところになど来るものか!!


おそらくアニー辺りに言わせれば、青いとバカにされることだろう。あれほど情報部には渡さないと言い張っていたはずの上層部が、掌を返すようにあっけなく俺を切る。国家の安全の名の元には、何を持ってしても無力なのか!?



ジャガーに乗り込んだ彼は、しばらくハンドルに頭をつけて動くことができなかった。








清潔で明るい陽射しが柔らかく差し込む病室で、耀司は静かに指を組んでいた。まるであの日、ひたすら祈り続けたように。

こんなシチュエーションなど、慣れたくも何ともない。事故当時のあの頃を思い出すから。数え切れない管に囲まれ、耳障りな機械音に苛立たされ、眠ることもできず、神経をとがらせ続けていた日々。

サラ・ハミルトン夫人を永遠に失ってしまうという現実を、どうしても受け入れられずにいた若い若い二人の野良猫。


その一人は今、同じようにベッドに横たわっている。救いは巻かれた包帯が顔半分で済んだこと。管は、本来の回復の為に刺された最低限のものであること。


違うのは、動かぬように固定された彼の身体。


あの事件から一週間は経っただろうか。時の感覚さえわからなくなっていた。けがの治癒は順調だった。しかし、夜な夜なうなされ続ける彼を抑える為に、何本もの鎮静剤が打たれなければならなかった。




「視神経損傷?どういう…こと…ですか?」


狩猟の準備中に起きた暴発事故。地位も名誉も金もある連中相手には、あからさまなでまかせさえ信じて、治療を行ってくれる病院など限られている。政治家や有力財界人などもお忍びで入院をするというトタス・パディフィールド総合病院。裏事情に詳しいヤツなら大抵は知っている。


医師も医療環境も一流。それなりの相手なら受け入れる。逆に言えば、その辺のヤツらには近寄ることもできない。


耀司は迷わず、ケイをここに運び込んだ。救急処置室からそのまま手術室へ。同意書も署名も、すべて本名で。ここでは俺たちは不幸な偶発事故によるけが人としてのケイ・ハミルトン子爵と、保証人である著名な写真家・山下耀司。


担当執刀医であると名乗った年かさの医師は、入射角度が少しでもずれていれば生命に関わる事態であってもおかしくはなかった、と強調した。



「出血量は多いですが、けがの状態としては治癒も早いでしょう。しかし、右眼の視神経を損傷していますので」


いったんそこで言葉を切ると、執刀医は真っ直ぐに耀司を見た。彼が思わず怯むほどに。


「右側の視力回復は望めません。現時点では精密に計ることはできかねますが、光を感じることも難しいと思われます」


ベッド脇で、眠り続けるケイを見下ろす耀司は、執刀医の言葉を人知れず反芻していた。漆黒の闇のような黒い瞳。それは真の闇となり、何をも映し出さぬと言う。なぜ…。


角膜移植という手があるのではと食い下がる耀司に、傷を受けたのは眼球の表面ではないのですと痛ましげに告げる医者の声。それ以上、何をどう言えばよかったのか。


「幸い、左側には損傷が見られません。この後の経過観察を慎重に行うことで残された機能の保全を…」


大きく残るであろう傷。義眼を必要とするほどではないが、整ったケイの顔立ちにそれは影を落とすのだろう。


もっと早く、助けに向かっていれば。車などうち捨てていれば。いやそれよりも、もっと早く…クリスティアナが妹であると彼に知らせていれば。





あの晩、荒い運転でラングラーが揺れるたび、ケイは耐えきれず苦痛の声をあげた。すぐに病院に連れて行ってやる!耀司の声も耳に入っていたかどうか。


「…知って…た…んだ…ろ…?」


何をだ!?うめくように声を絞り出すケイに耀司は怒鳴り返した。早く、早く!気は焦るばかり。


「クリスの…」


「知ってたさ!!ようやくおまえの名を見つけ出したときにな!!恨みたきゃ俺を恨め!頼むから恨んでくれ!!」


そう、それはほんの少しばかり前のこと。それまでは誰も知らなかった、わかりようがなかった。耀司でさえも。


おれは…。声にならぬ声。気丈にも意識を保っていたケイは、そっと呟いた。爆音の中、聞こえるはずもないのに耀司へとはっきり伝わる想い。



「おれは、実の妹を…抱いた…の…か…」



耀司は何も言えずアクセルを踏み込んだ。その動揺でハンドルが僅かにぶれる。ケイの顔から押さえていた手が外れ、彼は意識を失った。


…ケイ、もっと早くおまえの過去を探ってさえいれば…


今さら嘆いてもどうにもならぬ。時は動き、二人は出逢ってしまった。






目の前のケイが身体を震わせる。意識が戻ったのか。いや違う。あの日からヤツは、別の時間を生きている。


「うわあああああ!」


叫び声と痙攣。医師と看護師が飛んでくる。手慣れた様子でケイを押さえ付け、鎮静剤を打ち込もうとする。


「いやだ!来ないで、来ないで!!母様助けて!!」


手術の痛みから来る術後せん妄の時期は過ぎた。彼のおびえは過去の事件の想起。クローゼットから外をうかがうケイの顔を染め抜いた母親の血は、今、彼自身の血となって半身を染めた。


日に何度も起こす発作。このままではケイが…壊れてしまう。


何人ものスタッフが彼の身体に乗りかかり、体重を掛ける。そうでもしなければ針を刺すこともできないほどの力で暴れるのだから。




耐えきれずに立ち上がった耀司は、不意に聞こえたノック音にびくりとした。

主治医か、応援のスタッフか。



どうぞという耀司のいらえに、音もなく入ってきたのは、しかし…アーネスト・シャーウッドだった。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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