#73
#73
車が動き出す。しばらくオフィリアも無言だった。
言いあぐねているというよりも、己の深い想いにとらわれているのか。心ここにあらず、か。
カークランドの手が無意識に内ポケットへと伸びる。タバコを取り出そうとして持ち合わせていないことにようやく気づく。捜査中に吸えるわけもない。このご時世だ。
何もかもに生じるずれ。それが彼の気持ちにささくれを作り出していた。
女性捜査官に持たれるようにして肩を震わせていたオフィリアは、娘の安否を心から心配する母親にしか見えぬ。実際そうなのだろう。しかし彼女は大きな何かを抱えている。大きな…。
こうしていても、と決意したのか。夫人は手に持ったレース生地をぎゅうと握りしめるとおもむろに口を開いた。
「ご存じのように、クリスティアナは青木の実子ではありません」
オフィリアが後妻で、クリスがその連れ子であることは有名な話だ。その先の話は、彼女の言葉を黙って聞く。
「そして、私の実子でさえもありません。そこまでも警部様はお調べになったのでしょうか」
探る気か、この私を。カークランドは無言を通した。
アーネストの調査により、娘であるクリスティアナが、殺害されたコンフィギュア研究所員夫妻の遺児であることはわかっている。リチャードとその妻であるスザンナ、間にもうけた三人の子どもたち。クインシーとキース、そしてクリスティアナ。
養護施設からクリスだけを引き取って育てたのが、スザンナの親友であったという…オフィリア・オルブライト。
キースという名のオッド・アイの次兄から引き離すように、クリスだけをな。
淡々と事実を語る彼女の様子を観察する。確かに実の兄妹と知らずに婚約までさせてしまったとなれば、さぞ母親の胸中はいかばかりか、だろう。キース・キャリック=アンダーソンはケイ・ハミルトンと名を変え、今われわれの前にオッド・アイの悪魔ブラックとして姿を現している。
ブラックがこの事実を知っているのかどうかまではわからぬ。クリスが知らぬのは明らか。そして、彼のあまりの変貌に、オフィリアですら彼女の兄だとは見抜くことができなかった。
「私は、キースのことを何も見てはいなかったのですね。あの子がどんな思いでキャリック=アンダーソンの家で育ち、何を考えていたのか。もっと簡単なこと、あの子の目鼻立ちも表情も、私には何一つ記憶に残ってはいなかった」
オフィリア…。力なくうなだれるように話す彼女は、ここで懺悔の一つでもしたいというのだろうか。
「それほど強い魔性を持つオッド・アイ。私はそれしか覚えてはいなかったのです。絹のようなプラチナブロンドの髪も優しげな風貌も、ケイとキースを結びつけることがどうしてもできなかった」
ケイがブラックだとご存じだったのですか。静かに問いかける。
「なぜ彼が子爵を名乗っているのかまでは…。けれどブラックのオッド・アイを見たとき、ああ彼はキースなのだと、妹を取り返しに来たのだとわかりました。兄妹として強く結びついていた二人を引き離してしまったのは私です。私を恨んでいるのでしょう」
「当時のあなたは、オルブライト夫人として経済的にも裕福だったはずです。なぜ…二人を引き取ることができなかったのです?」
取り返すことのできぬ過去に対し、きつい問いだとはカークランドにもわかってはいた。しかし、孤児院のシスターらも調べ上げたアニーでさえも、やりきれぬ想いを持ったことは確かだ。この…俺ですらな。
唇を噛みしめ、一瞬言葉を失ったオフィリアは、それでも意を決して言葉を続けた。
「それはあの娘が、クリスティアナが……リチャードの子ではなかったから」
初めて耳にする情報に、警部の眼が鋭く光る。どういう、ことだ?
「婚姻関係は続いていたはずです。実の母親であるスザンナの不義の子、とでも?」
「リチャードは自分の子どもではないと感じていたようです。しかし本当の父親が誰かは、彼女は私にだけ話してくれました」
ここにも一つ、出生の秘密という名の手垢の付いたソープオペラか。どこにでもあるありふれた話だ。彼女たちにとっては一大事なのだろう。これだけ俺たちを振り回した事件は、結局のところ…ただのお家騒動か。
不意に興味をそがれたカークランドは、無意識に無線へと手を伸ばした。現金なものだ。オフィリアの背負う秘密で何かが判明すると、過剰な期待を抱いたのは自分自身だというのに。
気のそれた警部に気づいてもいないような悲劇の母親は、ゆっくりとその秘密を口にした。
「クリスティアナの実父は、リチャードのパブリックスクール時代の親友であったデリック・エマーソンという…」
思わずカークランドが力任せに掛け戻した無線機は、金属の擦れるイヤな音を車中に響かせた。
…あともう少し、時間を稼いでくれ。頼むケイ…
タイヤの修繕は思うようにいかず、耀司の顔に焦りが浮かぶ。大方の敵は倒したようだが、ここからは様子がうかがえぬ。こちらで作業をしていることに気づかれるわけには行かない。文字通りこの車だけが、こっちの切り札でありライフラインであるのだから。
大切な証拠物件である試作品は、俺たちが持っている。むやみに敵を倒す必要などない。追っ手は警察でも正規軍でもないのなら、振り切るまで。その先のことなど、今は何も考えられない。
車中に積み込んだ、耀司本人の武器とガソリンタンク。後方支援と言えば聞こえはいいが、要は後始末屋だ。証拠を残さず、いざとなればすべてを処分する。そこには人間の生命をも含める。俺だとて、この手はすでに血まみれなのだ。
耀司らしからぬ感傷が心をよぎる。はん、法に触れる真似など物心ついた頃からの習性だというのに。コックニーの孤児として生まれついてしまった者が生き抜く為には、他にどんな手があったというのか。綺麗事では飯は食えない。フォトグラファーが聞いて呆れる。
俺の生きる場所もまた、このきな臭い現代の戦場であることには違いなのに。
想いを振り切るかのように、耀司は再び作業へと没頭した。
「…デリック・エマーソン」
声の震えは気づかれなかったか。カークランドは慎重に言葉を選ぼうとした。しかし、彼ほどの男が事実を受け止めきれずにいる。なぜ?なぜここでこの名前が出なければならぬのか!?
「スザンナは、彼女はあの事件が起こることを知っていました。だからこそあの晩、私にクインシーとクリスを預けたのです。ただならぬ表情から、私にもわかっていました。その時点で止めなかった。だってデリックは、狙われているのはリチャードだけだと!スザンナまでもが命を落とすとは思わなかった!二人を見殺しにしたのは、子どもたちを不幸にしたのはこの私なのだから!」
両の掌で顔を覆うと、オフィリアは嗚咽をもらした。捜査官が肩を引き寄せ、小さなタオルを差し出す。
エマーソンがコンフィギュアの事件に深く関わっていた。その事実がカークランドを打ちのめした。ただのソープオペラではないのか。どういう…ことなのだ?
「パブリック時代の親友だとおっしゃいませんでしたか?リチャードとその、エマーソン氏とは」
ええ。涙をぬぐいながら気丈にもオフィリアは頷く。親友だったと私には話していました。と同時に深く憎んでいたとも。
「なぜあなたが、そのようなことまでご存じなのですか?」
当然浮かぶ疑惑。しかし彼女は、すべてを話そうと心に決めたのだろう。視線を空に向けながらも言葉を続ける。
「愛のない結婚でした。私もスザンナも。けれどそのことに何ら不満もなかった。そういうものだとあきらめていましたから。でも、デリックは違った。私たちは不意に現れた彼に惹かれ、夫ある身という同じ条件であったのに、彼は最後にはスザンナを選んだ」
不義の子を産み、リチャードから責め立てられ続け…彼女は育児に関心を持てなくなっていました。それにつけ込むよう、クリスティアナを我が子同様に可愛がって育てたのは私です。
オフィリアの声が途切れ途切れになる。これがあの、美しくも快活な青木夫人なのか。どれだけの闇を彼女自身が抱えていたのか。
「キースという少年を引き取れなかったのは、あなたが愛したエマーソンの血を継いでいなかったから、ですか」
少年には何ら関係のないことだのに。誰に対して持てばいいのかわからぬ理不尽な怒り。
オフィリアはそっと首を縦に振った。
「リチャードによく似ている、とは言えません。けれどあの、透き通るほど美しい青い光と漆黒の闇を持つオッド・アイ。すべてを見すかされているようで、リチャードとスザンナに責められているようで、とても一緒には連れて帰れませんでした。当時の夫であるオルブライトも、女の子だけならと快諾した事情もあります」
いかな親友の子どもとはいえ、あっさりと引き取ることを承知できるわけもないだろう。オルブライト自身は、妻とエマーソンとの関係を知らなかったのか。
「前夫がクリスを受け入れた本当の理由がわかったのは、彼女が思春期を迎える頃です。オルブライトのクリスティアナへ向ける視線に気づいた私は、あの娘を連れて家を出ました」
血のつながらぬ娘を守る為に、彼女はそこまでしたのか。
「それから、私は激しく後悔しました。強く思い合っていた兄妹を引き離すのではなかったと。でももう、いくら探してもオッド・アイの少年は見つからなかった。すべては私のせいなのだから!あの二人の間に流れる感情は、愛ではなく肉親としての情なのだから!」
おそらく、エマーソンは最初からそのつもりだったのだろう。ある意図を持って「コンフィギュアの研究員」である旧友に近づき、その妻に接触した。
オフィリアは、その渦に巻き込まれただけなのかもしれぬ。しかし、そのことを告げるだけの優しさは、ダリルには持ち合わせていないものだった。
キースという名を持つ少年を思えば。
ふん、私らしくもない。犯罪者は犯罪者だ。罪は法の名の元で償わねばならぬ。たとえどのような過去を背負っていたとしても。
すべてを告白し、泣き崩れるオフィリアを、カークランドは冷ややかに見下ろしていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved