#69
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時計に目をやる時間も惜しい。ブラックは己の鼓動を計りながらカウントダウンを始めていた。
十秒切れたかどうか。正面玄関の扉に手をやると、それは無抵抗にすっと開く。身をかがめて滑り込ませた。
思った通り、事務担当者の方が多い一階フロアにはとまどいの声が響き渡っていた。それぞれが携帯を手に、僅かな灯りを採ろうとする。夜光虫が飛び交うような幻想的な光景に目をやる暇もなく、黒き侵入者は低い姿勢のまま駆け抜けた。
…ナイトビジョン・ゴーグルも要らねえくらいだな。
それほどまでに携帯電話に依存している現代人。外部に電話しようとしていた一人に、ディスプレーを撃ち抜くかどうかためらう。
リミットは「最大で」四十秒。今この瞬間にも自家発電システムが作動する可能性だってあるのだ。
「もうすぐ灯りがつく。それまで連絡は待て」
叱責の声が上がるのは、おそらく地下会議室での機密が漏洩しないようにとの配慮だろう。ブラックは少しばかり安堵すると、床をさらに蹴った。
あと二十秒。
フロアの構造は頭に叩き込んである。肝心のシステムが置いてあるのは、大きなパーテーションの向こう側。ふだんは所員の目に入らぬような場所だ。
立ち上がって走れれば。しかし携帯電話の光は思いのほか強い。
あと十五、十四、十三…。
どこだ。目印にしていたパーテーションが見つからない。焦りの気持ちが陰りを落とす。
「自家発の立ち上がりが遅いなあ」
所員の一人が何度も携帯を開け閉めしながら、それを頼りに歩き出す。あちらの方向か。
ブラックの長い脚がすっと差し出されたせいで、向かっていた男は派手な音を立てて転んでしまう。
「だから言っただろうが!下手に動くなよ」
同僚の掛ける声にも緊迫感はない。ここは重要機密などには縁がないのだ。今夜をのぞいて。
九、八、七…。ジジジという微かな音がし始める。システムの稼働音なのか。冗談じゃない!!
やっと探り当てたパーテーションの陰に回り込み、息を止めてブラックはシステムを目で探る。
どこだ、どこだ!?その送電用ブレーカーとやらは!!
壁一面に備え付けられた自家発電システムは、少しずつその生命を蘇らせようとしている。もともとリミットが何秒かもわからぬ。正確なクリック音を聞いてるわけじゃない。今この瞬間に灯りがついてしまったら!?
ブラックの瞳が探り当てた、赤いボタンの保護カバーをたたき割る。ジッと大きめな音を立てて動き出そうとしたその瞬間、彼はボタンを拳で思い切り押し込んだ。
…静寂。
灯りはつかない。肩で何度か大きく息をすると、ブラックは廊下へと駆け出した。
廊下に人の気配はない。全くの闇。ナイトビジョン・ゴーグルの効果はようやく発揮される。
さて、タイムレースはこれで終わりじゃない。クリス…彼女は、うまくやっておいてくれただろうか。
廊下の突き当たりには、大型の人荷兼用エレベーターが備わっている。そこまで走り寄る。もちろん停電によって急停止したままだ。ドアを開けようとしても開くものではない。
まともな方法では…な。
ブラックは胸元から細いワイヤー製の仮鍵を取り出した。長身を生かし、そのまま腕を伸ばしてエレベーター扉の上部に差し込む。
そこには点検用にドアが開けられるような特殊の鍵穴がある。通常のキーではない細長い代物。社内LANにハックしていた耀司は、エレベーターの製造会社とその機種まで割り出していた。
メンテ用の同じ物をさっと作って渡された。これが…魔法の鍵だと。思い起こされる耀司の言葉。
「ここには地下へ降りる階段がない。違法と言えば違法だが、地下フロアの住人はいざとなればB2Fの搬入出口からいくらでも逃げ出せる。だからおまえがお目当ての会議室に行こうとするのなら、エレベーター昇降路しかないんだ」
電気を遮断したのは自分。文明の利器を利用できないのは自業自得だな。
苦笑いで作業を終えると、普通は堅く閉ざされているはずのエレベーター扉は門戸を開いた。
目の前にはさらに闇。一番恐れていた事態は、とりあえず回避…か。
ここに人や荷物が載るいわゆるカゴが止まっていたら、それでアウトだった。電気を遮断した状態で、それを物理的に動かすことはできない。少なくともブラックたちには。
クリスティアナが階指定ボタンを押してくれたのだろう、下をのぞき込んだ彼が目にしたのは、きちんと地下二階へと行儀良くとどまったままのエレベーター。
昇降路と呼ばれる、カゴが上下する四角い通路には荒っぽいハシゴが取り付けてある。すべては点検用だ。ここを降りれば楽に下へ向かえる。
だがブラックは、何のためらいもなく暗闇に向かってその身を翻した。
ちまちまと一段ずつなど、降りていられるか。
途中、カゴを支える太いワイヤーに手を掛けて落下速度を調節すると、彼は音もなくエレベーターのカゴ上部へと降り立った。
地下二階の上部に立てば、当然…地下一階への扉が目の前にあることになる。先ほどと同じ作業を、今度は内側から行う。造作もなかった。鍵状の留め金はただ形ばかりその先を引っかけているだけ。手で乱暴に押しやる。
イリュージョンの脱出マジックと同じだ。外から開けるのは困難でも、内側から開けるのはあっけないものと相場は決まっている。
人の心も…そうかもな。おおよそ彼らしくもない、微かな感傷。
扉に手を掛けると一気に押し開いた。
こちらは廊下にも人が右往左往している。ブラックがサイレンサー付きのS&Wを彼らに向ける。傷つける意図は全くない。彼らの通信手段である携帯電話のディスプレーを、今度は一つ一つつぶしてゆく。
上階にいる連中が取ろうとしていた連絡先とは訳が違うのだ。これらを生かしておけば、何が駆けつけてくるか。
とはいえ、VIP待遇でもない一介の会社重役にボディー・ガードが張り付いていることもない。問題なのは明日であって、今日はただのリハーサル…だったはず。
ブラックが一発撃つたびに、闇が戻ってくる。彼にとって何もかもを覆い隠してくれる闇。
今はそれをも味方につけて、ブラックは目指す会議室へと滑り込んだ。
中央でおろおろするのは、社長の青木。ブラックは歯を食いしばる。カートリッジを冷静に取り替え、光の見えるディスプレーを撃ち抜いてゆく。
「なんや!?何が起こったんや!!はよ、電気がつかんのか!?」
訛りの強い青木の怒声。担当者らが必死に声を上げるが、混じり合って何を言っているかさえもわからない。
現場は混乱の極み。その隙を突いてやる。
決して広いとは言えぬその部屋に、大勢の重役らと秘書。開発側の担当者も多い。上でのようにすんなりとは進めない。
ブラックはいったん身を沈めると、彼らの膝下横をかいくぐってゆく。人間の身体は、特に壮年以上の男性の体躯は上半身にボリュームがある。脚までも場所を食うヤツは、そうはいない。どうしても人混みをすり抜けたければ、子どもの方が有利なのは道理なのだ。
誰よりも高いその背を縮め、彼は液晶プロジェクターなどが内蔵されたプレゼン用デスクへと向かう。
あと少し、もうちょっと。もう既にブラックのオッド・アイは目的の試作品を捉えていた。担当ですら、それをしまい隠すことさえできずにいたのだろう。
人間の体温が直に当たる不快感。暗闇で他の者は、自分の身体もろくにうまく制御できずにいる。
おれに触るな!おれにふれるな!いいからそこをどけ!!
蠢く人と人の間から、その長い腕を伸ばす。あと数センチ…数ミリ。
しかし、外付けハードディスク程度の大きさのそれは、ブラックの指をかすめただけだった。
横からシルクらしいハンカチに覆われた細い手が、おもむろに試作品を掴む。
ぎょっとしてそちらに顔を向ける。遠くのPCからの光…バックアップ電源で消えることはない。そのほのかな灯りに映し出された姿。
声を上げそうになるのをブラックは必死に抑えた。
…クリス…ティアナ…
「スィル ヴ プレ -S’il vous plait-」
フランス語で他人行儀に、お願いと呟きながら試作品をブラックへと手渡すクリス。同じように、囁き声でいらえを返す。
「メルスィー・マドモワゼル-Merc i mademoiselle-」
忘れようと思っても脳裏から離れないブラウン・アイズ。それが今、目の前にある。
それまでの何不自由ない令嬢から、何かを自らの力で変えてゆくのだという強い意志を感じさせる女性へ。クリスティアナの変貌を目の当たりにして、ブラックは息を飲んだ。
理性は訴えている。騒ぎが他に伝わらぬ前に、こいつらの援軍が来る前に、一刻も早くこの場を去らなければ。
わかってる!そんなことはイヤと言うほどわかってるんだ!
時間がない。急がなくては。退路確保が最優先事項だ!
思わず伸ばした腕で、ブラックはクリスを強く引き寄せていた。
…ヌワー…ル-noire-…黒を意味する単語。その響きをもっと近くで聴きたくて、ブラックはきつく彼女を抱きしめる。
無情にも時は過ぎる。
彼はクリスを突き飛ばすように引き離すと、試作品を胸ポケットに隠し入れ、暗闇へと戻っていった。
見えるはずのない彼女のすがるような瞳を、確かに感じながら。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved