#65
#65
小高い丘には花を手向ける一人の若い女性。そっとひざまづき、フレアスカートの裾が地に着くのもいとわずに、彼女は熱心に祈り続けていた。
軽い足取りで、グレーのスポーツウエアにキャップを深々と被った男がそばを通りかかる。昼時を利用してのジョギングといった様相か。
彼は丘の上まで来ると足を止め、ゆっくりとストレッチを始めた。
祈るはクリスティアナ・オルブライト=青木。そしてさりげなく肩に掛けたタオルで汗をぬぐうのは…もちろんケイだった。
お互い目を合わせることもなく、背中越しに存在を確認する。
それだけのことなのに、ケイには抱き寄せた彼女の温かさを思い出す。ふわりと香るのはクロエのオードパルファム。背伸びをしすぎない清楚な香水はクリスそのもののイメージと重なる。
今すぐ振り向いてきつく抱きしめたい衝動を、彼は必死に律した。キャップをさらに目深に被り直す。
「もう…逢わないと決めたはずだ」
「時間がないの。大事なことだけ伝えるわ」
ケイの決別の言葉をはねのけ、クリスは強い口調で言い切った。これがあの、母親の陰に隠れるようにはにかんでいた令嬢なのか。
ケイは、人知れず唇を噛んだ。
「花束の下にデータを置いておくわ。あとでうまく回収して」
データ?いぶかしむケイに、「AOKIテクニカルEV研究所の見取り図、警備用設備の配線図、それからセキュリティ・システムの概略図と詳細図面が入っているから」と淡々としたいらえが返ってくる。
あとは…リチウム蓄電池の研究報告書も、と。
「クリス!?」
「お願い、大きな声を出さないで。誰にも気づかれるわけにはいかないの」
なぜ君が?ケイは大きな混乱の中にいた。
頭を下げ、エレンの墓碑に向かって祈る姿勢を変えずに、クリスは大きく息を吐く。
「ラザフォード夫妻にお会いしたわ。あなたがずっとAOKIへの訴訟に向けて準備していたことも…彼らに伺って…」
クリス。ケイはもう、彼女の名前を呟くことしかできずにいた。
「責める気もなければ、私があなたを責める立場でないこともわかっているわ。そうではなくて…これらを役立てて欲しいの」
こらえきれずにケイは振り返った。手を伸ばせば届くところにいる。君が…。穏やかな仮面を被ったブルーの両目が、クリスティアナを見つめる。彼女もまた、何かをこらえるような瞳で見つめ返した。
「ずっと気づかないふりをしてきた。義父のしていることもAOKIのことも。私には何の関係もないことなのだと」
ラザフォード夫妻に教えていただいたの。あなたがまとめてくれた、AOKIが自社製品に対する安全性についてどう捉えているかということを。
すべてはコスト優先。
低価格の自動車を提供することで、労働者階級の方々でも手の届く利便性を提供することができた。
けれど、エレンは亡くなった。彼女だけじゃない。たくさんの人々も、そしてあなたの大切なお母様も…。
つきんとした胸の痛み。ケイは思わず顔をしかめる。
「私は向き合わなくてはいけない。AOKIがしてきたことと、今していることに対して。少なくとも私がこうして暮らしていられるのは、AOKIという会社があるから。無関係ではないのだから。私は加害者側の当事者という自覚を持たなくちゃいけないのよ」
「君には何の関係もない」
低くくぐもった声。己を抑えるケイの呻き。
「同じ屋敷に住む家族だからといって、素人の君が持ち出せる情報とも思えない。誰と手を組んだ?頼むから危ない真似をするのは止めてくれ」
その言葉にクリスはそっと首を横に振った。誰とも組んでなどいない、と。
「情報の入手先については、どうかは今は訊かないで。でも信頼できる人からよ。私がこの世で一番…信頼できる人」
ケイの表情が辛そうに歪む。それが誰なのか、詮索することさえしたくない。
「ケイ、お願い。AOKIを救って」
彼の瞳がとまどいに揺れる。
「AOKIが目指す、低コストで誰もが乗れるハイブリッド・カー。その理念は間違ってなんかない。でも、やり方は間違っているわ。人命の犠牲の上に成り立つ利便性なんか要らない。AOKIを、ちゃんとした会社にしたいの!働く人たちはみな、なじられそしられるために仕事をしてるんじゃない!」
「…研究所には…何が…あるんだ?」
時間が掛かりすぎると怪しまれるわ、もう行かなきゃ。そう呟くとクリスは足早に丘を降りていった。
この腕にかき抱けば良かった。触れずにいて良かった。相反する感情がケイを縛り付ける。
クリスの姿が見えなくなり、しばらくしてからようやくのろのろと彼は身体を動かした。花束の隙間から見えるのは、小型のポータブル・ハードディスク。
さりげなくそれを手に取ると、ケイはウェアの深いポケットに落とし込んだ。
「こりゃあ、どうしろってんだ…」
中のデータを開いて凝視していた耀司が、呆然と呟く。眺めるでもなしに自分の考えにひたっていたケイは、額に手を当ててゆっくりと煙を吐き出した。
「研究所の見取り図だとかなんとか言ってたな。襲撃でもしろとそそのかされてんのか、おれたちは」
自虐めいた苦笑。何の意図があってクリスが情報を渡したのかが掴めない。そしてその情報源は。
ラザフォード夫妻と接触を持ったということは…さぞかし辛い想いをしたことだろう。
夫妻とて、我に返って冷静になればクリスを恨むのも筋違いだとすぐ気づいたはずだ。しかし、責める気がないからと言って、クリスが罪悪感を味わわずに済んだとは思えない。
彼女のせいでは、決してないのに。
黙って振り向いた耀司は、しばらく沈み込むそんなケイの姿を見つめていた。痛ましげに。
だが、このままでいいとは思ってもいないだろう。彼にディスプレーを見るよう促す。
のろのろと耀司のそばに行き、画面をのぞき込んだケイの顔色が変わる。
…これは…
「-リチウムイオン一次電池の熱衝撃試験mil-std-202規格による-っておまえ、既にAOKIの研究所で軍事用の耐性試験が行われている段階だという…の、か…」
「いや、もう製品として納入できるレベルらしいぜ、どうやらさ」
やりきれぬ思い。大手製造メーカーが軍需企業として名高いのは珍しいことではない。
イギリスの航空エンジンメーカーであるロールス・ロイス plcは、防衛航空宇宙部門で名を馳せている。
メルセデス・ベンツは装甲車を、ポルシェは戦車を、アウディは戦闘車輌用ディーゼル・エンジンをそれぞれ開発、提供していることは有名である。
しかし、コンフィギュアの実績があるとはいえども新興自動車メーカーに過ぎぬAOKIまでもが…それも極秘裏に軍用リチウムイオン電池を手がけていたとはな。
そこまで考えを巡らせてから、ケイはハッとした。
「まさか、キャリック=アンダーソンの研究が元凶だと?」
他人事のようにその名を出すなよ、父親なんだろう?耀司の声がかすれる。
「表だって司法取引のできる裁判はアメリカくらいなもんだ。だが、こちらにハイブリッド・カー技術の軍事転用の事実が証拠として手に入れば、駆け引きの材料としてはこれ以上のジョーカーはない。刑事裁判か民事裁判か。どちらを選ぶとしてもAOKIはあの事故の過失を認めざるを得なくなるだろうし、被害者の損害補償も請求しやすくなる」
それに…あれがエレンの引き起こした偶発的な事故ではないことが、明らかにできる。AOKIの安全性に向けての取り組みは、何よりも最優先されるべきものとして突き付けることができるだろう。
「クリスは、これをおれたちに…奪えと言いたいのか」
「いくらご令嬢でも、研究所の重要機密までは引っ張ってこられねえだろうがよ」
ことの大きさに、ケイは拳を握りしめた。
これがあれば、ハミルトン夫人の無念を晴らすことができる。目の前にようやく現した敵の姿。
「けどな、おれはあくまでも被害者遺族としてハミルトン子爵の名で訴訟を起こすんだぜ?こんな物騒なものをどうやって扱えってんだよ」
ケイは思わず弱音を吐いた。確かに魅力的ではあるが、しょせん自分たちはソルジャー(兵士)でありコマンダー(指揮官)ではない。
「俺たちには、ボスがいる」
耀司の思い詰めたような声に、ケイは目を見開いた。
…デリック・エマーソン元大尉…
「この国で俺たちが頼れるとして、軍関係にも情報部にもつながりが持てる人物といえば奴しかいない」
「耀司、おまえ」
「パーティ要員は何人必要だ?」
ふだんは見せぬ、耀司の別の顔。彼とて元レジィヨン・エトランジェールの特殊工作部隊の一員であったことには変わりないのだ。
「要らない」
「ケイ!」
ふだんから組んでもいないメンバーなど、ただの足手まとい。中に入るのはおれだけでいい。後方支援を頼む。
「オペレーション・ネーム(作戦名)は?」
耀司の問いに、エマーソンの真白き部屋での一戦…モノトーンのチェス盤がケイの脳裏をかすめる。口元を歪めて彼は応えた。
-それでは、フランス攻防…とでも-と。
(つづく)
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