#64
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スコットランド・ヤードの一室で、ダリル・カークランド警部はその大きく節ばった右手をあごにかけ、オフィスチェアに深く沈み込んでいた。
目の前には、同じように沈黙を守る男。それはもちろん…アーネスト・シャーウッドだった。
おおよそ警部らしからぬため息を一つつくと、彼は姿勢を正した。
「ここまで来ると、俺一人ではどうにもならん。上層部に報告し、しかるべきメンバーを招集する。あとは上の意向で極秘のプロジェクト・チームでも作られることだろう。事件は…俺の手から離れる、確実にな」
随分とまあ、弱気ね。心なしかアニーの声も覇気がなかった。
「ブラックを追っていた。ケイ・ハミルトン子爵とAOKIがどう関わっているのか。その辺りまでならどうとでもなるさ。だがこれが、ハイブリッド・カー搭載用技術の軍事転用がどうのこうのということになれば、いくら何でも話がでかすぎるだろうが」
最初からそのつもりだったのでしょう?デリック・エマーソンという英仏の二重スパイが絡み始めてからは特に。
責めているのではないのだろう。しかしアニーの声はカークランドの良心を刺激した。
「そうは言うがな、アーネスト」
「ことは情報部が絡むお国の代理情報戦争だけじゃないのよ。ある一人の少年が生き延びてきた軌跡を追うこと…それは大きな組織ではできない。あんたとかあたしみたいな立場の人間にしかできない。上にはわかりっこないから。その子がどう生きてきたかが、この複雑な事件を解くすべての鍵だなんてことを」
「すべての…鍵?」
視線だけをアニーに向ける。珍しく何の思惑も込めずに彼は警部を見返した。
「これまでわかったことをまとめてみましょうか?」
大学の講師にでもなったかのように、アニーはホワイトボードの前に立つ。
ペンがこすれるキュッキュッという音が響き始める。彼らがこれまで、この上もなく絡み合ったまま手に入れてきた情報を、一つずつ書き留めていく。
「いいこと?発端はこの、コンフィギュア研究員夫妻殺害事件。リチャード・キャリック=アンダーソンはハイブリッド・カー搭載の為にリチウム蓄電池の研究をしていた」
返事の代わりにダリルは頷く。それを確かめてからアニーはさらに書き加えてゆく。
「調べてみてすぐにわかったんだけれど、リチャードいう男は研究所の中でも変わり者で通ってたの。能力の高さは誰もが認めてはいたけれど、自分の研究を人に知られるのを極端に嫌った。大学で論文を書いている訳じゃないんだから、企業人としては失格ね。それでも彼の研究はとても魅力的で、所長らもその態度を黙認するしかなかった。最後に結果を出してくれればいい。リチウム蓄電池に関する新技術がイギリスの企業内で開発できるのなら、わざわざアジア…特に日本企業へ頼らずに済む。屈辱的な条件を飲んで、これまで技術提携の交渉を進めてきたけれど、それもすべてクリアできる。コンフィギュアはリチャードの研究にその社運を託した」
けれど。思わせぶりにアニーが言葉を切る。ミミから受けた経済学の講義よりずっと楽だ。ダリルの心によぎったのは、そんな場違いな感傷。
「けれど、何だと言うのだ?リチャードは何故殺されなければならなかったんだ?」
急がないでよ、せっかちな男は嫌われるわよ。アニーが冷たく突き放し、再びペンを取った。
「彼は、キャリック=アンダーソンはその技術を…自分一人のものだと主張した」
ダリルの眉がひそめられる。何だ…と…?
「イギリスでは、特許法に規定された一定の条件を満たす場合に、従業員が行った職務発明が自動的に雇用者に帰属することが定められている。しかし、当該発明について特許が付与され、当該雇用者が当該特許により著しい利益を得ている場合には、当該発明者(従業員)が雇用者に対して補償金の支払いを求めることのできる旨の規定があるのよ」
警部は口を挟むことなく、アニーの言葉を待つ。曲がりなりにも上流階級出身であり、それなりの教育を受けてきた彼の知的能力は高い。裏にも表にも通ずる貴重な人材というのは、そういう意味も込められているのだ。
「リチャードはそれを逆手に取った。もちろん自分の研究が一自動車企業の利益のみならず、軍事的にも十分流用可能であることを知っていたから。この技術を大っぴらに表に出すことは国が許さないだろう。ならばその前に特許権を主張し、キャリック=アンダーソン本人とコンフィギュア、ひいては政府との個人交渉に持ち込みたい。彼はそう言い出したの」
「そんな無茶な要求が通るとでも思ったのか。どうかしている」
思わず口について出るダリルの言葉に、アニーは意味ありげな笑みを返した。
「当然、裏でたきつけたやつがいるはずよ。彼をそそのかして新技術をコンフィギュアに独占させたくないやつがね」
誰が、と訊きたいところでしょうが…それこそ一介の民間人のあたしにわかるもんですか。アニーはようやく、いつものような拗ねた声を出して見せた。
「そして、事件は起こった。彼は夫人とともに殺され、彼の開発した新技術はコンフィギュアのものとなった。でも皮肉なものね。今度はそのコンフィギュア自体が無くなってしまう…」
「青木、善治郎か」
zenjirohと書いた上から丸で囲む。アーネストは力を込めて。
「なぜそれまで平の取締役に過ぎなかった彼が、トップに大抜擢されたのか。しかも大々的なコーポレート・アイデンティティの変更まで行って。密かに当時の役員の間で囁かれていた噂…」
元々は日本とのパイプ役にと飼われていただけのうだつの上がらぬ男。躍進の陰には会社の利益を守りきったからだ…と。
「随分とまあ遠回しな言い方だな。つまり善治郎は…実行犯であったからという訳か」
リチャード殺害の実行犯。おそらく一人ではないのだろう。素人ができるようなたぐいの犯罪ではないことは調査済みだ。
しかし、直接的に手を汚したからこそ、彼は自身を賭けてコンフィギュアの中枢に食い込むことができたと。
「噂よ、あくまでも。けれど新社長になった善治郎はとっとと古い役員を一掃してしまい、犯罪はあっという間に風化された」
「ちょっと待て、アーネスト」
裏で糸を引いているやつの思惑は何だ?結局のところ新技術はAOKIのものになったのだろうが。
「あのまま素直にコンフィギュアが新技術を持っていたら、斜陽の老舗自動車メーカーを裏で支えていたイギリス政府は軍とともに丸抱えしたでしょうね」
大手の製造メーカーの殆どが、軍との深いつながりを持っていることは世界の常識だ。それはどの国でも例外はない。イギリスだろうとフランスだろうと、非核三原則を掲げるかの国でさえも。
「英国はEU諸国に対し、その技術を共有するつもりはない。表向きはどうであれ、本音はそんなところね。しかしリチャードをたきつけて事件という形で無理やり奪うしか無くなった新技術は、他の国につけいる隙を与えてしまうことになったのではなくて?」
何が言いたい、アーネスト。ダリルはギリギリと歯を食いしばった。
「関わる人間が多ければ多いほど、情報は流出してゆく。リチャードと接触した人間と善治郎に接触した人間。少なくとも彼らは英国側の利益を求めてはいない。そうは考えられなくて?」
どさりとダリルは椅子に身体を投げ出した。だから言っただろう、ことは大きいのだ。俺たちにできるのはそこまでだ。諦めもやり切れなさをも含んで吐き捨てる。
「そうかしら」
ここからよおく聞きなさいよ。ボード用のマーカーをもてあそびながらアニーはにやりと笑った。
「実行犯は未だに誰かはわからない。残念ながらヤードもお仕事を熱心にはしなかったようね」
「横やりが入ったのだろう、どうせそんなものだ」
忌々しげなダリルの声。正義を追求するはずの組織の本音と建て前。その一員である己。
「でもね、たった一人だけ…実行犯を目撃している人間がいるとしたら?」
何?警部の目が見開かれる。
「現場に居合わせ、たった一人生き残ったのは夫妻の次男であるキース・キャリック=アンダーソン」
「こ…ども…が…?」
「クローゼットに隠され、心神喪失の状態で発見された少年は何も証言することができなかった。あんたが調べてきたことを合わせると、長男のクインシーはフランスへ渡り、下の二人は児童養護施設へと預けられた。『エリザベス・アン・セトン=ハウス』という救護院から、しかし彼はすぐに姿を消した」
その後の、足取りが掴めた…のか?心なしか震える警部の声。
「あたしを誰だと思ってんのよ。彼は整った顔立ちをしていたもんだから、小児性愛者専門の売春宿へと売られた。そこでの愛称は」
…ブラック…
ダリルが思わず立ち上がる。静かに続けるアーネスト。部屋の空気が止まる。
「しばらくそこで働かされていた少年は、下町の写真屋で使いっ走りをさせられてた若い男の子の手引きで、そこからも逃げ出した。ブラックと呼ばれた少年の瞳は、輝くばかりの青さと漆黒の闇のような黒を持つオッド・アイ」
まさ…か…。完全に言葉をなくすダリルに、アーネストは目を細めた。
「わかる?彼の記憶にこそすべての手がかりがある。あたしたちはおそらく情報部や軍の連中、その誰よりも真実に一番近い場所にいる」
オッド・アイの悪魔…ブラック。
そして別の名を、ザ・ヴァイカウント・オブ・ハミルトン-ハミルトン子爵-
今度こそ完全な沈黙が、二人の間に訪れる。
身じろぎ一つできない重苦しい空気が、ヤードの部屋を覆い尽くしていた。
(つづく)
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