#61
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これが、本物のケイ・ハミルトンの母親…。ケイの心には何の感情も浮かべることさえできなかった。
ハミルトン夫人を苦しめたであろう当の本人。それは事実としては知っている。しかし、みな自分が屋敷へと入る前のこと。
想い出の中の夫人は、いつだって笑みを絶やさずに陰一つ感じさせることはなかった。
夫を奪われた憎しみも、非嫡出児の存在も何もかもケイの前ではかけらも見せることさえなかったのだ。
上質そうな生地をどうやったらこの配色で仕立て上げられるのか。目の前のアマンダ夫人は、紫に光沢のある膝丈のドレスで、あらゆる宝飾品を身にまとっていた。
本来なら喪に服す時期であろうに。最愛の主を亡くしたのだ。それがたとえ歳の離れた金づるであっても。
…最後の台詞は、言い過ぎだな。
ケイはさすがに自らを戒めた。何らかの理由で先代と決別し、生きてゆく為に熾烈な権力闘争に勝ち抜いた女。
敢えて彼女に何があったのか、彼は調べようとも調査を依頼しようともしなかった。それが何につながるか、恐れていたのかも知れない。
詰めの甘さを、今はただ深く後悔しながらも…。
「言っておきますけどね!うちのケイは伯爵様にそれはそれは可愛がっていただいていたのよ!?あの子も正式なパークス家の後継者候補には違いないんだから!あたくしたちを追い出そうったって、そうはいかないわよ!?」
お義母様、客人の前です。冷たく突き放すのはもちろんウィリアムズだ。
おおよそ、ウィリーとは相容れそうもないメンタリティの持ち主なのだろう。これはこれで揉めるのを見物させていただくとするか。
ケイは自分への直接的な精神的攻撃が、どうやらこの深刻なパークス家のお家騒動に由来するものであることに安堵していた。
ウィリーがおれを憎んでいることは確かだろう。しかし、己の精神的なダメージという目に見えない理由よりも、一族の実権を握るという権力への渇望の方を重視する。ウィリアムズ・パークスとはそんな男だ。
ケイは、彼女の登場で完全に自分のペースを取り戻した。にやにやしながらことの成り行きを眺める。
「それならば」
珍しく押され気味のウィリーがようやく口を開く。
「我が最愛の弟、ケイ・H・パークスはハミルトン子爵を継いだところでパークス家と縁が切れるわけではない。お義母様にはご理解いただけないでしょうが、爵位を兼任する例などいくらでもあるのですよ。この問題とパークス家の問題とは分けて考えていただけませんでしょうか。何より…」
そう言って、義理の息子はアマンダに身体を向けた。あの冷たい視線とともに。
「あなたにパークス家の問題へ口を出す権利があるとは、僕には思えませんがね」
金と権力だけで結びついた『親子』という醜い関係。
勝手にやっていてくれ。おれを巻き込むな。とにもかくにも時間が欲しいのだから。おれが闘う為の、あとほんの僅かの期間だけ…子爵という名を奪わないでくれ。
アマンダは唇を噛み、あまりの怒りからか肩を上下させるほど息を荒げた。
そして食いしばった歯の隙間から押し出すように、必死に抑えた呪詛を吐き出す。
「…あんたは…何も…わかってない。…わかっちゃいないのよ…ハミルトンの家に口を出してはならない。その本当の意味が…」
この女は何かを知っている。冷静にケイは分析を始める。ずっと敢えて見ないようにと避けてきた相手。ここいらで本格的に調査を。
ケイが落ち着き払って考えられたのもここまでだった。アマンダの言葉が…彼を混沌の渦に突き落とすことになるとは思いも寄らずに。
駆けつけたウィリーの側近が、彼女の脇を固めて場を離れるように促す。それは未亡人に対する深い敬意を保ちつつも、どこか見下した感情を押し込めるかのように。
彼女はそこで、初めてケイに視線を向けた。思わず怯えて後ずさる。それほど…会いたくはなかった相手。
無言故に雄弁な想いを込めた瞳が、息子と同じ名を持つ青年に向けられる。どこか痛ましげに、どこか…切なげに。
「この御立派なご子息は知らない。本当はあなたが…」
彼女はその先の言葉を続けることなく、立ちつくすケイに背を向けた。
…ホントウハアナタガ…
どうだと言うのだ?今すぐにでもこの女の方を揺さぶって、すべてを訊きだしてしまいたい。
ケイも、ウィリーでさえも動くこともできずに、ただ黙って去ってゆく彼女の後ろ姿を見つめ続けた。
耀司は仕事の合間を縫って、コックニー辺りの児童養護施設をしらみつぶしに当たっていた。
アーネスト・シャーウッドがケイの過去を嗅ぎ廻っている。
知れば知るほど、アニーの情報屋としての地位をいやがおうにも見せつけられ、耀司らしからぬ焦りを感じていた。
当事者である俺たちがケイの過去に行き着く前に、もしその情報がアニーひいてはカークランドに渡ってしまったとしたら。
…ぞっとしねえ話だね…
捜せばよかったのだ。狭い街だ。その気になれば親を殺された兄妹が保護されていた施設くらい、すぐに見つかっただろう。あれだけ目立つオッド・アイの少年なら。
そして、ケイの記憶が歪曲されねつ造されたものでない限り、彼の父親は何らかの研究所に勤めていたことになる。
検索条件は揃っている。それでも手を出さなかったのは、ケイの過剰とも思える過去の想起への拒否反応。
ことを起こす前に、きちんと調べておくべきだった。もっとも、その頃にはここまで話が複雑に絡み合うなどと思いもしなかったがな。己の言い訳に耀司は苦笑した。
彼の記憶を頼りに、入手できる一番幼い頃の写真に加工を施した。ハミルトンの屋敷に残る、夫人と笑顔で並ぶケイの写真。もちろん撮影をしたのは耀司本人だ。
ちくりとした胸の痛みを無視するかのように、耀司は淡々と作業を繰り返した。
大切なフォトをスキャナーで取り込み、画像ソフトを使って子どもらしさをくわえてゆく。ブルーのコンタクトを作ったのは彼が外での生活を多くし始めた頃だから、当然保護された時点では、あの美しい光は無防備に晒されていたことだろう。
『エリザベス・アン・セトン=ハウス』
聖人の名を冠した施設を探し当てるのに、そう手間は掛からなかった。耀司が見つけられるということは、かの情報屋がここにたどり着いてしまうのも時間の問題だろう。
もっと早くこうしていれば或いは。
それでもケイに受け入れるだけの気持ちがなければ、彼の拠り所である「曖昧が故に知らずに済む真実と、希望の持てる過去が存在する可能性」をすべて崩してしまうことになりかねない。
それが怖くて、二人は手も出せずにいたのだ。
過去を持たぬということは、過去に愛されていたかも知れぬ可能性をも持つことができる。
一見逆説的なこの説を、身をもって感じられる人間はそう多くはない。
俺たちはたとえ万に一つの確率であっても、愛された子どもであって欲しいと願うものなのだ。
わかりはしないだろう。親元で安心して悪態をつける、幸せな子ども時代を送った善良な人々にはな。
この調査が吉と出るか凶と出るか。それは単にケイの心情を慮る為だけに過ぎない。法廷で闘うには、その為の障害物を排除する為には避けることのできない作業。
こぢんまりとした庭と、明るく開放的な建物を持つ教会併設のハウスへと足を運んだ耀司は、そこに子ども特有のはしゃぎ声がないことにようやく気づいた。
姿は見えるのだ。数人が庭の隅にしゃがんでいる。視線の先には剥き出しの地面。
見るとはなしにそちらを見やると、一人の少年が無心に…蟻の巣穴を打ち壊しているところだった。
何度も何度も、小さく開いた生き物のライフラインを分断することに夢中になっている。穴を埋め、そばの土を削り、通れなくしてから蟻そのものに石を載せる。叩きつぶすのでもなく踏みつけるのでもなく。静かに息絶えるのを待ち続ける。
その姿に子ども特有の残虐さを感じるほど、耀司は世間知らずではいられなかった。
今は蟻だろう。そのうちターゲットは小動物に移り、犬や猫といったより人間に近い生物へと変わってゆく。
行為自体を責め立てるのではなく、それをする彼自身をすべて包み込むような愛情で誰かが抱きしめてあげなければ。
そんな奇特なことができる人物など、そうはいない。ハミルトン夫人は二人といないのだ。
胸に去来するわずかな感傷を振り切るように、耀司は指定された建物の中へと入っていった。
「このお子さんのことはよく覚えています」
目の前のシスターは、表情一つ変えずに静かに言った。
ケイの代理人であるという書類を作らせた。どれだけ効力があるのかはわからないが、少なくとも守秘義務に縛られる養護施設の職員には、その口を開かせる効果があったようだ。
「恐怖からか、言葉を話すこともできず、ただ妹を抱きしめてうずくまるばかりでした」
妹?では、本当に妹はいたのか。退行催眠で取り戻した記憶は、正しかったのか。
「事件の詳しい経緯は聞かされておりません。わたくしどもには必要のないことですから。心理的なケアは別の施設で行う予定でした。その前に、ことは起こってしまいましたが」
何があったのですか。耀司にとっても辛い作業。彼もまた、親を知らぬのだ。
「妹さんはまだ幼く、というよりも一歳になるかならないかの乳児でした。お兄ちゃんの方は自分も細い身体で、その子を必死に抱きかかえ、誰にも触らせようとはしませんでした。ゆっくりと少しずつアプローチする中で、ようやく赤ちゃんの方を我々が保護することができたほどです」
身を寄せ合った、親を亡くした二人の兄妹。
「もう一人のお兄さんは、奨学金を得て留学できそうだとのことでこちらには入所しませんでした。十分自立できる年齢に達していましたし」
シスターの話の話は淡々と続いた。
事件についてはよくわからないが。シスターは前置きした上でわかりうる限りの話を伝えてくれようとした。彼を救うことになるのなら。それは誰もが想う気持ち。問題は…救えるのかどうかはわからぬということ。
凄惨な現場に居合わせたらしく深い心の傷を負った少年は、一言も口を開くことはなかった。夜になれば泣き叫び、抱きしめられることさえ拒絶した。一刻も早い心理的ケアが必要と職員はみな感じていた。
しかし、唯一彼が微笑みらしい表情を浮かべるのは、幼い妹を抱きかかえるとき。
それもだが、長くは続かなかった。
「ある家庭が、その赤ちゃんを名指しで、引き取りたいと申し出られたのです。こちらとしては拒む理由もありません。裕福な家庭であり、もともとその子とは縁が深いとのこと。我々はそのチャンスを喜びました。けれど」
シスターは、僅かに顔を曇らせた。殆ど無表情な彼女なのに。
「引き取るのはこの女の子だけ。それが先方の条件でした。我々は固い絆で結ばれているであろう兄妹を引き離すことには反対でした。経済的に困っているのでなければ、何とか二人とも受け入れてはもらえまいか。何度もそう、その家庭に申し入れました」
「でも、その願いは受け入れられなかった…」
耀司の呟きにシスターは頷いた。なぜ。声にさえならぬ声。
「このオッド・アイはあまりに目立ちすぎるから。神からいただいた美しき奇跡の瞳は、彼を救うのではなく、拒絶の理由となってしまったのです」
妹だけは温かで裕福な家庭へ。ケイ本人は引き離されひとりぼっちに。耀司の胸の痛みは増すばかり。だから…イヤだったんだ。あいつがじゃなくて俺が。
過去は美しき憧憬を伴うものばかりではない。ケイが覚えていないのは、覚えていたらヤツが壊れてしまうからに他ならない。
自我を守る為に考え抜かれた、精一杯の自己防衛反応。
「その直後、彼は姿を消してしまったのです」
ここからですか?思わず声が大きくなる。捜索願も出しましたし、職員総出で捜すことも続けました。罪悪感からかシスターの声も心なしか語気が強くなった。
耀司は一度呼吸を整えると、自らを鎮めた。誰を責めるつもりもない。知りたいのは真実。
「彼ら兄妹の名前など…教えていただくわけにはいかないのでしょうね」
虚脱感からぽつりと呟いた耀司に、何かのお役に立てるのでしたらとシスターは情報開示を快諾した。
望んでいたことなのに、耀司は動揺した。聞いてしまっていいのだろうか。それをケイに伝えるだけの勇気が、己にあるのだろうか。
耀司の逡巡を知ってか知らずか、シスターの声が静謐な教会の一室に響いた。
「オッド・アイの少年の名は、キース・キャリック=アンダーソン、年端も行かぬ赤ん坊の妹はクリスティアナ・キャリック=アンダーソン」
キース…それがケイの本当の名前なのか。そして妹は、クリスティアナ。
「!?」
耀司は目を見開いた。まさか、まさか。ありふれた名だ。引き取った先で同じ名を名乗らせる方が少ないだろう。
けれどまさか。
驚愕の表情に、話した当のシスターまでもが怯えた。それに詫びるとたたみ込むように耀司は、妹が引き取られた先を教えては貰えまいかと頼み込んだ。無理は先刻承知のつもりだ。
しかし、何かを感じ取ったのかも知れない。シスターはためらうことなく言葉を口にした。
「妹だけを実子と同じように、と引き取ってくださったのは…オルブライト夫妻です」
大切な親友の娘だから、この名を大事にしたいと奥様がおっしゃってくださって。
クリスティアナ・オルブライト。それがキース・キャリック=アンダーソンの実の妹。
耀司の身体から力が抜け、彼は頭を抱えてソファへと沈み込んだ。
(つづく)
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