#60
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格式あるホテルの一室に、ケイは一人で出向いた。もとより余分な弁護費用を払うゆとりもなかったし、何しろ相手は本職なのだから誰を連れて行っても無駄というもの。
指定された時間より早めに着き、ケイはきらびやかに飾り立てられたラウンジ脇の鏡でおのが姿を映し出した。淡いストライプの上質なスーツに、一つ結をしたプラチナブロンドの髪。穏やかで気弱そうな子爵のペルソナ。
これで騙されてくれるような相手でないことは、当のケイが一番よく知っていた。
ウィリアムズ・パークス。パブリックスクール時代に確執を持つ相手。
確執?自分の思い浮かべた言葉に、ケイは苦笑した。突き立て、振り下ろそうとしたのは切っ先も鋭いペーパーナイフ。相手を死に至らしめていてもおかしくはなかったのにな。
今さら先方にとっても、一番会いたくない相手であろうに。ウィリー自身が犯した過去の葬り去られた罪を、すべて知る男になど。
襟元を一度引っ張り直すと、ケイは近寄るベルボーイに手を振って追いやる。ウィリーに会っていることすら知られたくない。誰にも。
ドアをノックすると、すぐさまいらえがあった。
ケイを招き入れる慇懃無礼な仕草も、表面上は完璧すぎるその微笑みも何も変わってはいない。
ウィリアムズ・パークス本人だった。
「久しぶりだね。大切な話だからアルコールというわけにも行くまい。コーヒーでいいかな。それとも、君の好きな紅茶がいい?」
馴れ馴れしく言葉を掛けるウィリーに、気づかれぬ程度のため息をつくと、ケイはにこやかに微笑み返した。
「お気遣いありがとうございます、パークス伯爵。長居をするつもりもありません。どうかお気になさらずに」
まだ、正式に爵位を継いだわけではないがね。ウィリーの苦笑い。
ちょっとした会合に使えるようにと用意された部屋で、二人は向かい合った。会合というよりは、密談にふさわしい場なのだろう。周囲からの音は何も聞こえなかった。
「君もすっかり、子爵としての振る舞いが板についたようだね。ご婚約されたそうで、おめでとう。旧友として非常に嬉しいよ」
過去など何もなかったかのように笑顔を向けるウィリーに、できるだけ敵意を向けぬよう己を律する。
「それで、ご用件は?」
どの口で旧友などと言えたものか。おまえと昔話をしに来たんじゃない。そもそもあの頃の話を蒸し返されて困るのはてめえの方だろうが。
ケイの腹の中では罵詈雑言が飛び交っていた。それを強い意志でぐっと抑える。
「せっかく逢ったっていうのに、随分と冷たいのだね。ケイ・ハミルトン君」
ウィリーの表情が、若き敏腕弁護士からかつてのプリフェクト時代へと変貌してゆく。爬虫類を思わせるその陶器のような肌と非人間的な瞳。
「ハミルトン家の後継問題については、既に親族間で決着がついております。申し訳ないとは思いましたがパークス伯爵夫人について少々…。父とは正式な婚姻関係はもちろんのこと、事実婚を認められるだけの根拠もないようですね」
だが、弟はハミルトンの名をもらっているんだよ。嘲りを含んだイヤな響き。
「ミドル・ネームに何をつけ、どう名乗ろうが自由かと思いますが」
ケイ本人の思いは、今すぐにでも爵位を叩き返すこと。本物のケイ・ハミルトンが存在する以上、おれがそれを騙ることはできない。
しかし、もう少しだけ時間が欲しい。
他のヤツが相手なら、正直にそう話したかも知れぬ。よりによってその相手が、ウィリアムズ・パークスの弟とはな。こいつにだけは知られるわけにはいかないのに。
「ではDNA鑑定を正式に依頼し、先代のハミルトン子爵と義弟との親子関係を立証することにしよう。その上で改めて、僕の弟であるケイにはハミルトン子爵の爵位を継ぐ正当な後継者であることを裁判所に訴え出る」
ケイは何も言わず、じっとウィリーを睨んだ。
何故こいつは、今になってこんなことを。そして、どうして本物のケイと目される人物の兄が…こいつなのだろうか。
「よほど驚いているのか、困惑しているのか。あれだけ沈着冷静かつ残虐なハミルトン子爵殿がとまどうとはね。僕としては何だか嬉しいね」
そう言うとにやりと笑って、ウィリーは近くのミネラルウォーターで唇を湿らせた。
蛇が舌なめずりをするかのように。
「僕が何も知らないとでも思っていたの?それこそお笑いぐさだ。ずっとチャンスを伺っていた。君をつぶすのに一番ふさわしいのはいつか、とね。少なくとも在学中にことを起こしたくはなかったんだ。何故かって?あの頃の僕はね…」
指を組み替えて、下からのぞき込むようにウィリーは顔をわずかに近づける。
「可愛い弟のケイを、手放したくはなかったんだ」
ぞくり。
言いようのない不快感がケイを襲う。こいつは何から何まで、すべて知っていたというのか。
「飲み込みが悪い子爵殿に、きちんと説明しておこうか。何故僕があのスクールを選んだのか。君までもがそこに来る羽目になったのか。何のことはない。先代のハミルトン子爵の出身校だからだよ」
思わずケイは目を見開いた。どういう…こと…だ?
「偶然なんて、そうそう辺りに転がっているものじゃないさ。僕らがあの空間で一緒のときを過ごしたのは運命のいたずらでも何でもない。当時、僕の母を追い出して後妻に収まった義母は、僕をもパークス家から引き離そうと画策した。父は義母の言いなりだったからね。ハミルトン子爵を忘れられなかったのだろうし、遠くの寄宿舎は何かと都合がよかったのだろう。僕はあの学校に追いやられ、そこに現れたのが…君だった」
知らずと奥歯を食いしばる。震えを悟られてはならない。
「君が自身の正体を知っているのと同じように、弟からは何もかも聞いているんだよ。残念だったね、君は子爵でも何でもないことを知る者がここにいて」
頼む。あと少しだけおれに時間をくれ。
「十五年前にハミルトン子爵が失踪した。同時に姿を消したのが彼の息子。ひと月後に子どもだけが戻ってきたとされる。しかし、消えた本当の息子こそが当時のハミルトン子爵の愛人…現在の僕の義母の子どもであるケイ。突然戻ってきてハミルトン家に潜り込んだのが、どこの馬の骨ともわからぬ下町の浮浪児」
偽りの笑顔もとうに消え、ケイは拳を握りしめた。
「ケイ・H・パークスこそが、正統なハミルトン家の後継者であり、ハミルトン子爵を名乗る資格を持つもの。君は、君にふさわしい場所へ戻った方がいいんじゃないのかい?」
すう、と一度息を吸い込むと、ケイはようやく笑みを浮かべた。いぶかしげなウィリーの表情。
「なるほど、そういうことか。パークス伯爵の急逝でそちらもお家騒動の真っ最中という訳なんだろう。あんたは後妻にもその連れ子にも、一銭たりともパークス家のものを渡したくなんぞない。ならばとハミルトン家に目をつけた。ろくに財産もないが爵位だけは残っている。それで満足しろと追い出しを図りたい。おおかたそんなところか」
今度はウィリーの顔がこわばる。図星だったか。少しばかりケイに余裕が戻る。
「君が素直に認めるのなら、事を荒立てずに穏便に済ませたい。僕はそう言っているんだ。君にとっても悪い話ではないと思うよ。でなければ、僕は自身の名誉を賭けて義弟に爵位を取り戻す」
結局は金が惜しいだけじゃねえか。大貴族様の考えそうなこった。
気弱な仮面などかなぐり捨て、ケイは腕を組むと目の前の伯爵後継者を睨め付けた。
「二つ下の弟と言ったな。年功序列とは言わないが、とりあえず法的にもおれは正式に認められた子爵だ。ハミルトンの爵位を賭けて法廷で争うのは勝手だが、時間は掛かるだろうな。あんたにとっては、その時間が命取りなんじゃねえの?うちも揉めたが、伯爵位の後継問題ともなると大変だねえ」
はん。口角を片方だけ持ち上げ、皮肉げに笑う。挑発されたウィリーはかっとなった。
「君は何か勘違いしているんじゃないのか!?いいか、弟はれっきとした先代のハミルトン子爵の嫡子だ!君に子爵との血縁関係がかけらでもあるというのか!?今すぐにでも身ぐるみ剥がして追い出されるのは君の方だ!!」
だから、何だ。
ケイの声はあくまでも静かだった。爵位などいつでも返してやる。あともう少し、ほんの少し。夫人の無念を晴らすまでおれはこの地位にしがみつく。夫人の為だけに。
落ち着き払ったケイに、ウィリーは激昂した。テーブルを叩かんばかりに立ち上がると「では、法廷で会おう!」と吐き捨て、足音も高く出て行こうとした。
不意に廊下での押し問答が聞こえる。女の金切り声。止めに入るのはホテルのスタッフか。
それはウィリーにも想定外の出来事だったのか、思わず足が止まる。
制止しきれずドアは乱暴に開けられ、現れたのは派手ななりをした年の割にはケバい女。
資料ではいくらでも見たことがある。本物を目にするのはケイにとっては初めてだ。
「ハミルトンには手を出さないでって言ってあったじゃないのさ!!いくら伯爵様が亡くなったからってあんたの自由にはさせないわよ!!」
大声で叫ぶのは…先代の愛人、現パークス伯爵夫人のアマンダ・パークスであった。
(つづく)
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