#58
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大通りの喧噪も、総合病院のエントランスまでには届く気配もなかった。ロンドンでは珍しくどんよりとした雲もない。眩しい光がガラスの正面玄関へと反射していた。
この場にふさわしくないほどのかまびすしい嬌声が響く。それとともに僅かな杖の先が立てる硬質な音。
アニーはその体躯を一本のクラッチに寄りかからせ、周りのナースどもと笑い合っていた。
しかし病院の入り口に音もなく進んできた濃紺のジャガーを認めると、アニーの頬はほんのり赤く染まった。
「な、何よ。転院してから一度だって見舞いにも来ない薄情者のくせに」
思ってもいない減らず口を叩く。視線をそらせ口元をゆるめながら。
全身で喜びを隠そうとするアニーの姿に、内心ではため息をつきながらも、仕事だったんでなと詫びたのはもちろん…ダリル・カークランド警部だった。
「フランスから帰国して、休む間もなく迎えに来てやったんだ」
「だから感謝しろって?態度がでかいんだから。こっちは入院中も情報収集に励んでいたってのに」
艶っぽい視線を向けられ、むせかえるところだったカークランドは、アーネストの一言に表情を引き締めた。
「どういうこと…だ?」
まあまあ、詳しい話はあとでゆっくりね。さっさとジャガーの助手席に乗り込むと、窓を開けてナースたちへと手を振る。彼女らの明るくも嫉妬混じりの声が辺りに散らばる。
「相変わらず、警部殿の見た目だけはいいのよねえ。ほらあのチーフ・ナースまでぽうっとした顔であんたを見てるわよん。いかが?四十代半ばのシスター・ローズ。性格はきついけど仕事はできるし、お似合いよお朴念仁には」
そう言うとアニーはころころと笑い声を立てた。
どこにいてもかなりな量の情報ばかりすぐに探し集めるのだからな。心の奥にはそんな畏敬の念もなかったわけではない。しかしカークランドから発せられた言葉は「大きなお世話だ」の一言だった。
スムーズに発進した高級車の中で、警部は静かに問うた。
「それで?どんな情報が手に入ったというのだ?シスターの話だったらお断りだからな」
はん。まあそれがあんたの精一杯の冗談なんでしょうがねえ。厭味な口を利いてアニーがうそぶく。
ダリルは少々考え込んでから、済まなかったと口にした。
「どうだ、傷の具合は」
「別に心配してもらおうと思ってるわけじゃないのに。もう、何よ。すっかりフランス人に感化されたんじゃないでしょうね」
だからそれだけ鍛え上げたガタイのいい男が、身をよじって照れるのだけは止めてくれ。
警部の眉間のしわは取れそうになかった。
「ずいぶん長かったのね、今回の出張は。で?どんな成果があって?」
「おまえから話すのが筋だろう。私は依頼人であり、おまえは情報屋だ。何を掴んだ。じらすつもりか」
全く、世間話もできやしない。アニーのぼやきも止まらない。
「はいはいはいはいはいはい。アタシがここに転院した目的の一つはね、ここがパークス家御用達だということよ」
「パークス家?」
とっさにはさすがの警部でも思い出せなかった。何しろこの事件の関係者は多すぎるほど多い。
「そ。ケイ・ハミルトンがパブリックスクール時代に引き起こした事件の…」
「ウィリアムズ・パークス…か。確かプリフェクトを務めるほどの優秀な生徒でありながら、隠蔽された事件の首謀者と言われている」
彼が今さら、何の関係があるというのだ?いぶかしげに表情を歪める警部に向かって、アーネストは久しぶりに火を付けたタバコの煙を吹きかけた。
「そのウィリアム・パークスの弟の名はね。ケイ・H・パークスよ」
カークランドは思わず、ぐいとブレーキペダルを踏み込んだ。急制動の悲鳴を上げてジャガーがきしむ。
「ケイ・H…。ここでもまた、名前か」
謎めいた言葉だけが、紺色の車内空間に漂っていた。
「ほっんとに人使いが荒いんだから!!こっちが退院したてだってこと忘れてんじゃないんでしょうね!!」
人目もはばからず大声で繰り言をわめくのは、もちろんアニーだった。
その後のしっとりもしっぽりも何もなく、ただ事務的に自宅へと送り届けられたということにも腹が立つが、さっそく調査を一方的に命じられたのも気にくわないのだ。
…十数年前のコンフィギュア研究員夫妻殺害事件を探ってくれ。彼らの名はキャリック=アンダーソン。残された三人の遺児の行方も、おまえなら捜し出せるはずだな…
カークランドにそこまで言われて、できないとは口が裂けても言えるはずもない。こちらとて情報屋のプライドはある。
警部がフランスで得たことをまとめてみると。
曰く、ケイ・ハミルトンがフランスへ渡った理由は大学進学ではないこと。
レジィヨン・エトランジェール(フランス外人部隊)に入隊し、デリック=エマーソン率いる特殊部隊に山下耀司とともに所属していたこと。
青と黒の異なった色彩の瞳を持つ「オッド・アイの悪魔」と呼ばれたスナイパーであること。
そもそもこの仮説を裏付けるために彼は渡仏したのだ。物的証拠を得られたのは思いの外の好成績と言えるだろう。
だからと言って、ハミルトンがイコール「ブラック」であるという確証があったわけではない。それは英国内での話だ。
それに、もっと複雑な問題までをも引きずり出してしまっていた。
…コンフィギュア研究員夫妻殺害事件…
三人の子どもの行方ねえ。雲を掴むような話だわ。こっちはやばい事件に鼻の利く筋に下調査を依頼した。しばらくは不自由なこの脚で、そんなに何もかも調べられるものでもない。
それより何より、腹立たしいのは己を撃った犯人。現在のケイ・ハミルトンがスナイパーであった過去を持つのなら、直接手を下したのも彼の可能性が高い。
「むかつくったらありゃしない」
生命を取られた方がマシ。こんな警告の仕方をされ、アーネストのプライドは酷く傷つけられたのだ。
「あの昼行灯みたいな子爵がまがいものであることは間違いないのよ。まずはそっからあいつの化けの皮を剥がしてやる。このアニー様を甘く見るんじゃないってね」
アニーが向かった先は、東ロンドンの街並みだった。
謎に包まれたケイ・ハミルトンを探るより、その近辺をうろつき廻っている山下耀司を探る方が早いと感じたのだ。
それまで極悪スラム街と呼ばれた東ロンドンの一角は、今では高感度で急先鋒の芸術家たちの集まる聖地と激変していた。
とても一人歩きできぬほどの危険な貧民窟は、反面において家賃も安く、金はないが才能に満ちあふれたアーティストたちにとってこれ以上の楽園はなかった。
一人、また一人と才能を開花させていくその街は、いつしかアートの発信基地と姿を変えていた。
そして山下耀司もまた、この街で頭角を現した風景フォトグラファーであったわけだ。
彼は特段、過去の経歴を隠しているわけでもない。ただ、作品の持つ力と最先端の画廊であるホワイト・キューブ・ギャラリー出身であるという威光があるために、生い立ちがどうのと気にする者がいないだけだ。
まず、東ロンドンつまりコックニー訛りの労働者階級らが住む街に出向き、山下耀司が師事したと思われる写真家を探し出す。
公式バイオグラフィーには「独学で」と書かれていたが、少なくとも彼にカメラを持たせ初歩的な機械操作を教えた人物はいるはずだ。
アーネストは通りに立ち、微かにため息をついた。
これがあの、貧民窟。
眩しいばかりのアートデザインに彩られた画廊が建ち並ぶ。街ゆく人々の服装も尖っている。
そこかしこでカメラを向ける者が驚嘆の声を上げる。
しかしアーネストもまた、この華やかで健全な光が苦手な部類であることには違いなかった。
一本の通りを奥に進む。そこにはやはり…薄汚れ、色のない世界が広がっていた。
耀司の暮らしていた当時は…このすえた街だったのだろう。それならば納得がいく。
アーネストは自身も落ち着く空間であることに気づくことなく、ためらいもせずに裏通りを進んでいった。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved