#56
#56
静かな空調の音がかすかに響く。塵一つさえもないDGSE本部のコンピュータールームには、数十台の機械が稼働していた。
黙ってカークランドを招き入れたミミは、近くのリーダーにカードを通す。一台のPCが使用可能のランプを点灯させた。
「さあ、どうぞ。ミスター」
こわばった表情の警部は、無言のままどうすべきか考えあぐねている。
…このまま、ミミの思惑通り動けば俺は…
こうやってこいつらは、情報部にとっての内部協力員を仕立て上げてゆくというのか。俺は祖国を売ったりはしない。命を下すのはロンドン警視庁総監だけだ。
ギリギリと歯を食いしばる。このデータの山には確実に探し続けていた情報が埋もれている。どうする、ダリル。ここでどう動くべきか。
頑ななカークランドの態度に、ミミは乾いた笑い声を立てた。
「何もあなたにフランスのスパイになれと要求しているんじゃないわ」
灰色の瞳だけをわずかに動かして彼女を睨む。見るものをぞっとさせる凍り付いた視線。しかしミミには堪えた様子はなかった。
「ただの捜査協力よ。まあ…非公式ではあるけれど」
非合法の間違いだろうが。これは言葉に出さず己の胸にしまう。カークランドは止めていた息を吐き出した。
「見返りは何だ。あんたが欲しがっている情報は」
「言ったでしょう?今現在、エマーソンがつながっている相手のことよ」
あたくしたちはおそらく共通の敵を追っている。だったら提携しましょうというだけ。
「この件に限り…という条件を守るというのだな」
ずいぶん臆病ね、見た目より。ミミが小バカにしたように見下す。
「情報部の口にする正義と我々とでは、どうやら定義が違うようだからな」
用心するに越したことはない。厭味で返す。
彼女はコンピューターの前に腰を下ろした。
「あたくしたちはミスターが追っている二人のことを知らない。けれど彼らはレジィヨン・エトランジェール(フランス外人部隊)でデリック・エマーソンの元、特殊部隊に所属してた」
そう言いながら、軽やかにキーボードを操る。
「特殊部隊には入隊記録が残らないのだろう?」
「そうね、まともなやり方なら…」
カークランドの目が細められる。蛇の道は蛇、か。
「彼らは軍の特別内規で、入隊時に偽名を使うことが許されていないの」
何だと?低くうなる。
「そして、そのデータは専用回線で管理されているから、外部からのハッキングをしようにもできるはずがない」
待ってくれ!ではあんたがしようとしているのは!?思わず声を荒げるカークランドに、ミミは指を立てて鎮まらせる。
「軍の専用回線なら、情報部のサーバーからでもアクセス可能よ。当然、不正侵入にはなるけれど」
「くっきりと痕跡を残しつつ、か。あまり賢いやり方とも思えんな」
吐き捨てるように呟く。タバコ厳禁なのさえ腹立たしい。
「バカね。何のために一般の志願者ではなく特殊部隊のみが、本名でここに管理されていると思っているの?」
ミミの瞳が歪められる。そのくらい察しなさいよ。無言の圧力。軍は、ミミの所属するDGSE始め、フランスの情報部組織が除隊後の彼らに接触するのを黙認している…とでもいうのか。確かに腕の立つ実戦経験者。国籍もバラバラであり、貴重な人脈とも言える。そして有り余るほどの脛の傷は、いくらでも諜報員として仕立てるには都合が良いのだろう。
これが…彼らのやり方、か。カークランドの胸に広がる言いしれぬ不快感。しかしそれが、今の自分には必要な情報だとしたら。
「さあ、ご自分の目でどうか確かめて。ミスター・カークランド」
その言葉に操られるかのように、警部はディスプレイをのぞき込んだ。
カークランドは観念して大人しく席に着いた。どのみち、ここを見なくては先には進めまい。入隊年月日順に並べられた名簿、フェイクで次々と関係のない個人ファイルを開けてゆく。
数人目に意を決してクリックしたものは…yoji・yamashita。見覚えのある顔が一瞬大写しになる。気づかれぬように別のページを繰る。そして再び数人あいだを置き、前のファイルに戻る。山下耀司の後ろに、はっきりと示された文字。
…ケイ・ハミルトン…
ようやく見つけた。知らず、口元が歪む。ハミルトン子爵がエマーソンとつながっていること、そして…神秘的なまでのオッド・アイの持ち主である確実な証拠。
ミミと代わる。彼女がそれでも痕跡を消そうと操作するのを見下ろす。
「このデータの信憑性は?」
あくまでも疑う警部に、ミミは笑った。
「そんなに誰も信じられないとでもいうの?苦労するわね。まあ、あたくしが言える立場ではないけれど」
ミミが立ち上がり、そっとカークランドの背を押して退室を促す。確かに長居はしたくはない。
「いいこと?何度も言うけれど、あたくしたちはあなたが追っている二人が誰だかさえ、未だにわからないのよ?ミスターがそう言うのであれば、その二人はデータに存在した。そう解釈してよろしいのでしょうね」
いちいちかんに障るヤツだ。カークランドは、フランスに来てからというもの、捜査の主導権を握れずにいることへの苛立ちを隠す頃ができなくなっていた。
「デリック・エマーソンこそがすべての鍵。彼につながる情報をちょうだい」
わかった。静かないらえ。ミミの表情も引き締まる。
「あと一つ頼みがある。それを約束してくれたら、私が今まで掴んでいる情報をあんたに提供しよう」
本当に、あと一つでしょうね。ミミはうっすらと微笑む。あの夜とは違う、女ではなく切れ者の情報部員としての顔。
「クインシー・キャリック=アンダーソンに会わせろ。それが済み次第、私は帰国する」
もちろん、あんたも同席の上だ…マダム・ミュリエル・ラファージュ。
ミミから笑みが消えた。
(つづく)
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