#52
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両手で器用に車椅子を操作しながら、アニーは真新しい病院の廊下を探索していた。広々とした開放感溢れる設計と、良質なスタッフ。
…経費で落とす気かしら、ダルは…
もっとも、よしんばカークランドのポケットマネーから治療費を出したところで、あれほどの資産家の息子だ。痛くもかゆくもないことだろう。
パブリック・スクールどころか一族からも放逐された身であるアーネストは、さっとかすめた己の感傷に気づかぬふりをして、リハビリルームへと向かった。
不意にエレベーターのドアが開く。
彼はとっさに方向を変え、顔を隠した。顔バレはしていないはずだが、これから先の行動を制限されぬよう用心する。
現れたのは、細い体躯にプラチナブロンドの髪を揺らす…ケイ・H・パークスだった。その後ろには、ゆっくりとした仕草で車椅子を押す義兄のウィリアム・パークス。
ケイは後ろを見上げて微笑んだ。
「ここでいいよ兄さん。あとは自分で押してゆくから。調子が良いんだ。ここまでだって、クラッチで歩けるくらいだったのに」
「最愛の弟の面倒くらい、たまには見させれくれないかい?」
そう言うとウィリーはくすくすと笑った。
うるわしき兄弟愛。たまんないわね。
最大限に耳をそばだてて会話を聞いていたアニーは、ぞくっと身体を震わせた。
彼らが特別室へ入ってゆくのを見届けてから、近くのナース・ステーションに慣れた様子で滑り込んだ。
「ねえねえ」
あの美青年、誰よ!?アニーは近くで作業をしていた看護師のエマに声を掛ける。
彼女はため息をついて「ここに勝手に入って来ちゃダメってあれほど!」と言いかけた。それにすかさず耳打ちをする。
「コーンウェル先生のメアド…手に入れたんだけど」
若いエマが頬を赤らめる。彼女はアニーを車椅子ごと端に引き寄せると、自ら顔を近づけた。
…多少無理してでも、パークス家かかりつけの病院に転院したのは正解だったわ…
アニーは人知れず、目を細めて満足そうに口元を歪めた。
「本当に仲の良いご兄弟なのよ。お兄様は伯爵家を継がれるとか」
エマが多分に憧れを含んだ目でうっとりとささやく。適当に相づちを打ちながら、アニーは必要な情報を引き出してゆく。ゆっくりと…相手にも気づかれぬように…。
「弟さんの病気?いくら私でも患者さんのプライバシーは…」
ためらうエマに、そっとメモを手渡す。彼女が狙う医師のスケジュールと、携帯番号。エマはさっとそれをポケットにしまうと、アニーを睨め付けた。
「アニーまさか、あんたも先生を落とそうなんて思ってないでしょうねえ」
あらごめんなさい、ばれてたかしら。小声でけらけらとアニーが笑う。エマの警戒心はすっかり薄らいでいた。相手の懐にすっと入り込み、以前からの知り合いのようにため口をきく。
ゲイであることはある意味、さまざまなカモフラージュになりうる。男心も女心さえも理解できるとうそぶくアニーに、堅物のカークランドでさえ苦笑を浮かべる。
アニーはエマの肩にさりげなく手を回した。
「病気…というわけではないのよ。小さい頃のけがが元で」
「けが?」
あなたと同じよ。エマは意味深に見つめる。アニーの面が引き締まる。同じ。…まさか銃創だとでもいうのだろうか。
「ご領地の狩猟で、事故に遭ったらしいの。誤射された銃弾が運悪く右脚を打ち抜いて。場所が悪かったのでしょうね、神経を痛められたから」
それはあの子が、いつ頃のことなの?舌なめずりをするかのようにゆっくりとアーネストは問うた。答えはおそらく…。じっと黙って待つ。
最初の治療はここではないから、でも十歳くらいの頃と聞いているわ。
ケイ・H・パークス。プラチナブロンドの髪と深く青い双眸を持つ青年。
裏付けの調査で、先代のハミルトン卿とその息子が姿を消したのは十五年ほど前と確定できた。一ヶ月の空白ののちに発見された子息。推定十歳のケイ・ハミルトン。
さあ、これはどういうことなのかしらね。
この情報をどれだけの付加価値をつけてカークランドに売りつけてやるか。もちろんそれは金銭対価ではない。
アーネストは、最近これっぽっちも顔を出さない薄情な旧友の顔を思い浮かべ、計画を練り始めた。
いくら悪名高きAOKIの社長令嬢だとて、世界的に有名な女優ほどのネームバリューがあるわけではない。記事はゴシップ誌の数ページとグラビアを飾り立てた程度だった。
日系企業として成り上がった青木の娘。いくら後妻の連れ子で本人は生粋の英国人であったとしても。
いや逆にイギリス人だからこそ、なぜ品のない日本人の箔付けのために子爵家に嫁がねばならぬのか。
そしてその冷たい視線は、受け入れた側のハミルトン卿にも当然向けられることとなった。
家に閉じこもっていればかえって負けを認めたことになる。
気丈にもオフィリアは会合にパーティーに出続けた。誰も母親である彼女には面だって意見などしない。
彼女ら家族を囲む周囲の空気が、歓迎されぬものであるのは今に始まったことではない。
「今だけよ。噂なんてものはあっという間に消えてしまうものだから」
オフィリアはそう言ってクリスに微笑みかけた。子爵にはまた要らぬ迷惑を掛けてしまう、それだけをたいそう気にしながら。
「僕のことは、どうかお気になさらないでください。彼女を守れずにナイトを申し込んだりしませんから」
青木家の屋敷を辞する際、ケイもまたクリスにいとおしそうな瞳を向け、笑顔を見せた。
お相手は由緒ある子爵家のハミルトン卿とだけ報道され、ケイの顔写真が出ることすらなかった。ニュースにするほどの価値もないのだろう。その点はほっとする。
しかし…関係者にとっては思いは複雑のはずだ。
重い屋敷のドアを閉め、ケイは一人、自分で運転してきた愛車に向かう。専属運転手など雇える金はない。耀司との接触はできるだけ避けたい。
警備員は減り、代わりに設置された多くの防犯カメラ。もうこの屋敷から得られる情報はほとんどない。無理なごり押しで作戦を進めることもない。
婚約などという嘘八百、今すぐにでも解消してしまえばいい。
このおれがどれだけ女にだらしなく、育ちも素行も悪く、子爵家の財政状況が酷いものかを知らせれば。計算高い善治郎のことだ、先方からとっとと断られることだろう。なかったことにしてくれ、と。彼女に会わずにすむのならそれが一番良い。わかっている。そんなことは。
そしてできれば、おれをかつてのAOKI絡みの事故と、どうか結びつけないでくれ。
考えにふけっていたケイは、急に飛び出した歩行者の姿を認めて急制動を掛けた。それほどスピードを出していたわけではないから、タイヤを僅かにきしませただけでアストンマーティンを停めた。
しかし歩行者は車の前からどけようとはしない。ケイは一度目をつぶると息を飲み込んでからドアを開けた。
そこに立っていたのは…事故の加害者とされたエレン・ラザフォードの母親だったからだ。
唇を噛みしめ、悲しげな瞳。しかしその視線はまっすぐにケイを捉えていた。
「ラザ…フォード…さ…ん」
彼女は硬い表情のままつかつかとケイに近寄ると、背の高い彼に合わせて腕を伸ばす。
ぱしっ。
乾いた音が辺りに響いた。ケイはされるがまま、はたかれて赤く腫れた頬をかばうこともせずに立ち竦んだ。
「イサベラ!!」
エレンの父親が走り寄ってきた。そして妻を抱え込むようにすると、なおもケイを殴りつけようとする彼女を必死に止めた。
「止めなさい!よさないか!!子爵様を責めて何になる!?」
その声はしかし、妻に対してというよりも他の思いを押さえつけているかのように悲痛な響きを伴っていた。
「卑怯者!!私たちの味方だとあれだけ言っておきながら!!そんなにAOKIの財産は魅力があるというのね!?補償も裁判もこれから先起こることはないのでしょう!?あなたの貰えるAOKIの大切なお金が減ってしまうものね!?」
イサベラの叫びにケイは何も言い返すことなく、視線を下に向けたままだった。
裁判を起こすための証拠集めだったと、何より青木家を欺くための偽装婚約であったと、今すぐにでも破棄してしまいたいと…彼らに伝えられるはずもない。
ましてや、用が済めばクリスティアーナ・オルブライト=青木を殺害する依頼を受けたのは、他でもないここにいる自分であることなど。
「妻が大変失礼いたしました、ハミルトン様。しかし」
あれだけ穏やかなラザフォード自身、今は険しい目でケイを見据える。
「ご事情があるのでしょう。われわれ下々の者には決してわからない貴族様のご事情というものが。それでも、まさか義理とはいえ父親になる青木を娘婿のあなたが訴えるはずもない。裁判を、AOKIに司法的社会的制裁を、という甘言を信じ切っていた私どもが愚かであったのですね」
最後には聞こえぬほどのつぶやき。
妻のイサベラを引きずるように抱きかかえ、ラザフォードが去ったあとも…。
ケイはその場から一歩も動くことができなかった。
(つづく)
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