#5
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夜も更けたロンドンの下町は、喧噪が止まることはなかった。このまま朝まで飲み明かし、騒ぎ立て、次の日のことなど何も考えずに刹那的に生きたい人間どもであふれかえっていた。
その通りの奥に、けばけばしい装飾で彩られた一軒のバーがあった。
安っぽい壁には、昔ながらのサイケデリックな乱雑なアートらしきものが一面に描かれ、入り口のドアには大きなスカル模様が、これ見よがしに来る者を拒んでいた。店の前にたむろする、いかにも怪しげな連中の睨め付ける態度。
仕立てのいいスーツに薄手のコートを着込んだダリル・カークランド警部は、そんなものには目もくれず、いきなりドアを開けた。
中にもうもうと立ちこめる煙は、どうせまともなものではあるまい。ある者は焦りの表情を浮かべ、また別の者は場違いな…と彼に侮蔑の視線を容赦なく浴びせた。
それにも関わらず、警部はカウンターにいた若い店員に冷たく言葉を掛ける。
「アーネストはいるか」
ママなら、奥にいますが…。顔なじみの店員は震え声で警部に答えた。今夜は別にそれほどやましいことはしていない。違法とはいえ、警部の管轄ではないはずだ。
しかし店員は、いつ見てもこの銀色の髪を持つ冷ややかな瞳の警部に慣れることはできなかった。
「よう、おっさん。ここがどこだかわかってんのかい?」
そうとう薬で酔っているのだろう、鼻にも唇にもピアスをつけた男が警部に絡み出す。周りの人間どもはあわてて止めるが、歯止めが効かなくなっているのか、男は平気だ。
「……新顔か。ほどほどにしておいた方がいい」
眼を細めて、嫌悪感をあらわにした警部が言い放つ。
警部と呼ばれるにはまだ若い、この長身で細身の彼は、見事な銀髪とグレーの瞳を持っていた。切れ長の目はややつり上がり、それが見る者をさらに震え上がらせた。高い鼻に薄い唇。しかしその隙のなさは、この男がただの職歴上の警部ではないことをはっきりと示していた。
「何かっこつけてんだよ。ここに来るってことはアンタもオレたちの仲間だってことだろ?男が好きならはっきり言えよ。そんな澄ました顔しないでよ!」
薬も初めてならゲイバーも初めてなのだろう、その若い男はかなりしつこく絡んできた。自分の力を誇示したかったのか、それとも警部のような男が好みだったのか。
おい、やめろ!小声で必死に止める連中を振り切って、彼は警部の前に立ちはだかる。
「どうだい?今夜。アンタとならただでもいいぜ?」
そう言った男の横っつらを左手の甲でパーンとはたく。警部にしたらほんのわずかな動き。しかし男は店の端まで吹き飛ばされた。
ようやく目が覚めたのだろう、男は頬を押さえておどおどとした視線を向けた。
店中の音が、一瞬で消える。
カークランド警部は、節ばった長い指を持つその手を払うと、店の奥へと消えていった。
「……な、何なんだ…よ、あいつ……」
「バカだな、いくら知らないとはいえ、あの顔見ればわかりそうなもんだろうが。ただ者じゃねえんだよ。スコットランドヤード一の切れ者警部だ」
何で、何でそんなヤツがこんな店に来るんだよ…。今さらながら恐怖が戻ってきたのか、さっきの男はしおらしく隅のテーブルでうろたえていた。
店員がわざとBGMのボリュームを最大にする。
それをきっかけに、店にはまたけだるい喧噪が戻りつつあった。
「アーネスト!アーネストはいるか?」
「アニーって呼んでくれなきゃ、返事しないって言ったのに」
奥の事務所では、せっせと札束を数える男が座っていた。スキンヘッドにうっすらと髭を生やしている。Tシャツの上からもはっきりと見える筋肉。そうとう鍛えているに違いない。
アニーと自分で名乗ったその男は、振り向きもせずに警部に甘い声を出した。手だけはしっかりとポンド紙幣を握りしめつつ。
警部はしばらく待っていたが、彼が動こうとしないのを見て取ると、アニーの頭越しにその紙幣をさっと抜き取った。
「何すんのよ!!スコットランドヤードのおまわりさんが泥棒する気!?」
「客をいつまで待たせる気だ。今夜も儲かっているようだな。いいんだぜ?今すぐ関係部署に連絡を入れてやっても」
薄く笑う警部の手から紙幣をもぎ取り返すと、アニーはぶつくさ言いながらその売上金を金庫にしまった。
「また面倒くさいこと押しつける気なんだから。だからアンタは疫病神だってのよ。今度は何?」
この男を調べてくれ。そう言いながら警部は幾枚かのファイルを机の上に投げ出した。
しかしアニーは、その紙を見るまでもなくグラスを取り出すと、いつものドライジンでいい?と声をかける。
心底イヤそうな顔で、警部はあからさまなため息をついた。グレーの瞳を固くつむり、額には深いしわまで刻まれている。
「アーネスト、あのなあ…」
「じゃなきゃ受けないって言ってるでしょ、いつも」
スキンヘッドでさえなければ、化粧をしようが素顔だろうがなかなか整った顔立ちだというのに。必死に場違いなことを考える。先程の迫力はどこへ行ったのか、今度はカークランド警部の方が落ち着かない様相だ。
アニーはグラスになみなみとドライジンをつぐと、まず自分でそれを口に含んだ。ほんのわずかな身長差のある警部の髪をぐいと掴むと、アニーは直接そのジンを彼に流し込むように口づけた。最初は抵抗して開かない唇も、次第にその酒を受け止めてゆく。
…そうだ、俺はここに酒を飲みに来たのだ…
頭のどこかが少しずつしびれてくる。警部の喉がごくりと動くと、アニーは満足げな表情で押し入ってこようとする。
「ふ、ふざけんな!!この大バカ野郎!!黙っていればいい気になりやがって!!」
カークランド警部は、あわててアニーの身体を突き飛ばすように引きはがすと、必死に唇を手でぬぐった。決してドライジンのせいだけではないであろう頬の火照りに、ますます警部は怒りをあらわにした。
その様子をくすくす笑いながら見ていたアニーは、あーあ、だからノンケってつまんないの、とうそぶいた。
「うがいさせろ!!消毒液はないのか!?」
「ほらほら現実から逃げないでよね!仕事しなくていいの?」
急いでその場からのがれようとする警部のコートを、アニーは握って離さない。
「ちゃんと聞こうじゃないの。で、アタシは今度、誰を調べればいいわけ?」
そのセリフにやや冷静さを取り戻した警部は、できるだけアニーと離れた椅子に腰掛け、ファイルを広げた。
「調査対象は、ケイ・ハミルトン卿。こいつの身辺および過去を全部洗い出してくれ」
そんなの、ご自分の優秀な部下どもにやらせればいいじゃない。挑発的なアニーの言葉。
「まともな調査方法じゃとても無理そうだ。私の勘がそう言っているんでね」
二人の間には、にこやかに笑うケイの写真が無造作に置かれていた。
へ…え、子爵様ねえ。獲物を捕らえたハンターのように、アニーの目がきらりと光った。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009 keikitagawa All Rights Reserved