#49
#49
青木の屋敷は静寂に包まれていた。
正確に言えば、折からの豪雨と雷で周囲の喧噪から遮断され、耳につくのは激しい雨音のみ。
あてがわれた客室で、ケイはそっと目をつぶった。
当然、今夜も善治郎は居ない。オフィリアも出かけている。役に立たぬボディー・ガードであっても、男手があった方がいいだろうとケイは引き留められた。
泊まり込むわけにはいかないからと固辞する彼を、携帯から説得するのはクリスの母親であるオフィリアだった。
落雷による短時間の停電なら怪しまれぬ。外は雨、物音も聞こえづらい。
秘密裡に作戦を行うのに、これ以上の好条件があるだろうか。
だが、ケイの心は重くなるばかりだった。
いつでも身に付けている善治郎の自室の合い鍵が、指先を刺激する。
皆が寝静まっても作業の時間はたっぷり取れるだろう。経費を気にして、ここの当主は生身の警護を打ち切って機械制御へと変えたのだから。
あのセラピーの夜から、確かにケイがうなされることはなくなった。そう思えば効果はあったのだろう。もっとも、提携するクリニックへ無理やり行かされたあげくに睡眠導入剤を処方され、意識を失うかのように眠らされているに過ぎないと言ってしまえばそれまでだが。
夢を見る間もなく、起きあがることも気だるく物憂い。
反応が鈍くなるのはわかっていた。だからこそ、実戦では使えないからと使用してこなかった薬物。
何も考えずに眠ってしまえば良かったのだ。気を張り詰め続けなければならぬ絶対的な理由などない。
自分だけ先に戦いから降り、一抜けたと知らん顔で過ごせば…良かったのに。
知らぬうちにケイは、用意されたベッドへと横になっていた。軽く目をつぶる。
夜更けまでにはまだかなりある。浅いまどろみ。今夜だけは薬を飲むわけにもいくまい。
いつしか彼は、いつもの悪夢へと引きずり込まれていった。
あの夜、母はいつにも増してオドオドとしていた。乳飲み子と言ってよいほどの妹さえも友人に託して。
僕だけは一人きりブロックで遊んでいた。作りたいものがある訳じゃない。はめては外し、また組み立てては壊し。
僕はそこに居るのに、誰もいないかのように両親はふるまった。演技ではない。僕の姿など見えてはいなかったのだろう。
それなのに、きしむタイヤの音が聞こえたかと思うと、母は大あわてで僕の腕を取った。ためらいととまどいが瞬時に伝わる。けれど結局母は僕を抱きしめると、そのままクローゼットへと押し込めた。
冷たい抱擁。
母が僕を抱くなんて、あり得ない。じゃああの記憶は嘘か。
嘘じゃない!愛情はなくても子供をかき抱くことくらい、母親ならできるのだろう。
ケイの意識も思考も、混沌とし始めた。セラピーを受けてから引き出された記憶が、彼をさいなむ。
母は、確かに、来訪者が、誰かもわからないうちから。
……僕をクローゼットに押し込め、そして。
乾いた音と血しぶき。真っ赤に染まる僕の視界。次はおきまりの黒い瞳だ。ぽっかりと開いた深い闇の瞳から流れ出す血の涙。
金縛りにあったかのように、ケイは身じろぎもできずにいた。
目を開けろ!ここはハミルトンの屋敷じゃないんだからな!!
悲鳴を上げる寸前、夢の中の母は振り向いた。そこには二つの空洞の代わりに、目も鼻も口もないのっぺらぼうが…。
「…!?」
ケイは飛び起きた。呼吸が乱れ、肩を大きく震わせている。
フェイスレス・エイリアン。
彼が呟く。ほんのつかの間、イギリス中を騒がせた謎のパフォーマンス集団だ。ゴム製のリアルな面を被り、目も鼻も口さえも見せず、何のためにやっているのかさえも明らかにせず。
記憶の世界にいる母は、血みどろではなく表情を失った。
その顔は大衆紙で見知った現実のパフォーマーに置きかわり、ケイの意識は急激に醒めていった。
…行動原理を書き換えるか。確かに、ばかばかしくて笑えるな…
叫び声を失った彼は、檻のようにたまりゆく疑惑へと今度はとらわれ始める。
なぜ母は。僕をクローゼットに入れたのは…。
警告音が鳴り響き、強制的にシャットダウンがかかる。ケイはゆらりと立ち上がった。
近くにあった水を一杯。眠ってしまったのは失策だね。耀司に知れたら大変だ。ぶったるんでると皮肉られることだろう。
いつの間にか夜も更けた。
ケイは部屋の明かりを消し、音を立てぬようにドアを開けた。
善治郎の自室へと向かう階段には防犯カメラ。あいつをつぶしておく必要があるな。それにかかる時間は、一台につき何秒だ?ケイの冷静な計算が始まる。
落雷による小規模な停電。原因を突き止めるのは不可能だ。なんて、好都合な。やっつけ工事で配線がところどころ剥き出しになっている。刃物で切ったことなどわからないように細工してやる。そんなことは耀司でなくともおれでもできる。
暗闇の廊下へ一歩踏み出したケイに、背後からがちゃりと音が響いた。
驚いて振り向く彼の目に映ったのは、清楚なガウンをまとったクリスだった。不意の出来事に言葉も出ないケイに、クリスも目を見開いた。
「ご、ごめんなさい。驚かせちゃって。物音がしたから何かと思って」
しばし硬直していたケイは、何とか息を落ち着かせると静かに優しげに囁いた。
「眠れないの?物音がしたらなおさら部屋から出てはダメだよ。君にも…聞こえたんだね」
わずかな異音にケイが見回ってくれようとしたのか。一言でクリスは納得したようだった。
彼は気づかれぬよう眼を細めた。
…彼女にこそ、前もって薬を与えておくべきだった。詰めが甘いな、ケイ・ハミルトン…
自虐的な苦笑い。寝室へ帰るよう彼女を促し、そっと背中を押す。そのとき、すさまじい稲光とともに轟音が響き渡った。
「きゃっ!!」
思わずクリスは、ケイにしがみついた。彼もまた、その華奢な身体を守るように抱く。何度か繰り返される落雷に、二人はしばらくそのままでい続けた。
「近いな。この辺りに落ちたのかも知れない」
冷静なケイの声に、はっとしてクリスは身をはがした。瞳が彷徨うように揺れ動いたのは、羞恥の思いだけではないかのように。そうしてもう一度、大きく目を見開いてケイを見つめる。
その様子を見ていたケイは、小さく舌打ちをした。
…気づかれたか。まさかな…
迂闊だった。白いカッターシャツで弱々しく見せているケイの身体は、触れれば鍛え上げられていることがわかってしまう。か細くて頼りない子爵のペルソナも、そこまでは隠し通してはくれないだろう。
早く眠らせなければ。彼女が気づいてしまう前に。
「お嬢様!」
今の音でようやく目覚めたらしいキャスが、彼女の寝室から転がるように出てくる。しかし二人の姿を認めると、申し訳ありません!失礼いたしました!と踵を返しかける。
「待ってキャス!!」
「待ってください」
声が重なる。どちらとも必死にお付きのメイドを呼び止めていた。
「あまりに酷い雷だったもので、お嬢様が心配で…。ケイ様がいらっしゃるのですから安心でしたのに。それではお休みなさいませ」
ケイはつかつかと彼女に近づくと、そっと腕を取った。
「これからクリスが寝付くまでそばにいてあげたいんだ。レイディの部屋に二人きりで居るわけにはいかないよ。頼むから一緒にいてくれませんか」
ふんわりとした優しげな笑顔に、キャスは渋々頷いた。
クリスのベッドサイドで、ケイは微笑んでいた。手は彼女の髪に添えられて。
「小さな子供みたいだわ」
「たまにはいいでしょう?オフィリア以外の人間から、こうしてもらうのも」
くすりと、いたずら気味に顔を見合わせて笑う。
ケイの手の中には、小さな注射器に入れられたベンゾジアゼピン系の緩和精神安定剤。副作用は即効性の酷い眠気だ。隙を見て腕に刺す。何度も起こる落雷の衝撃で痛みも感じる間がなかっただろう。彼女の言葉も表情も、少しずつ緩慢さが加わってきた。
たわいもない会話を続けていたはずだった。しかし、朦朧とした意識でクリスが呟く言葉に、ケイは息を飲んだ。
「覚えてるの。私は前にもこうやって頭をなでてもらったんだわ」
…誰に?ケイの声は震えていたのかも知れない。
「青く輝く瞳と、漆黒の闇の眼を持つ…男の子。おかしいわよね、私は一人っ子で、仲のよい幼なじみだってみな女の子だったのよ?」
…それはいつ?セラピーの場面がオーバーラップする。
「その子だけじゃなくて、大勢の子供たちがいた。…そんな気がするの。でもいつも決まってその子だけが私を抱き上げて、泣きやませてくれてた。小さい頃のことなど、覚えているわけないのに。第一、私は…オルブライトの屋敷で…生まれ、育ったはずな…のに…」
クリス、クリスティアナ…。閃光がケイの脳裏を走る。けれど彼の自我は、それを追いかけようとはしなかった。
クリスティアナ・オルブライト=青木。名は単なる記号。けれどどこに属する人間であるかを決めてしまう、畏怖の力を持つ呪文。
クリスから規則正しい寝息が聞こえてきた。振り返るケイにキャスが笑いながらカップを差し出す。近寄っていって、気づかれぬよう彼女のカップへと先ほどの薬剤を溶かし入れる。
経口摂取でも効果は変わらない。ゆっくりとキャスはテーブルに突っ伏した。
二人を痛ましげに見下ろしてから、ケイは薄い手袋を取り出してはめた。
作業の時間はまだ取れる。雨の夜は長い。
目頭を押さえて小さく首を振ると、ケイは廊下へと静かに出て行った。
(つづく)
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