#48
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言い様のない気だるさに、珍しく下ろした前髪をかき上げながらダリルは煙を吐いた。
…俺は何をしているのだろう。こんな異国で、会ったばかりの女と肌を合わせ…
情報を引き出したいのなら、これ見よがしに喘いでみればいいものを。苦い思いを飲み下す。決して声を上げまいと固く誓った生娘のように、ミミは唇を噛みしめたまま耐え続けていた。
この程度のことで気を許すつもりはない。そこまでダリルとて甘くはない。しかし彼女の意図が図りかねる今、己の取るべき行動が見えない。そのことが彼の神経を逆なで、とげとげしくささくれ立たせていた。
メールと小声での国際電話。ミュリエル・ラファージュの身元認証は済んでいる。正真正銘、れっきとしたDGSEの職員だ。情報部での評判も悪くない。
悪くない、それは言葉が過ぎる。むしろ非常に有能なピガール生まれの女…。
階級社会、か。
普段考えもせぬことばかり。さまざまな事件を扱うたびにそれを思い知らされ、突きつけられる。
ケイ・ハミルトンとは何者なのか。二人いると言ったアーネストの真意は。子爵と傭兵、そしてオッド・アイ。何もかもがうまくかみ合わぬ。もう一度彼は髪をかきむしった。
軽い音を立ててドアが開く。部屋着をまとっただけのミミは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、キャップを開けた。
表情はうつろで生気がない。後悔しているというのか、俺と寝たことを。ダリルの胸を似合わぬ思いが通り過ぎる。
のろのろと彼女は顔を上げた。プラチナブロンドの絹の髪。頬にかかる乱れたそれがなまめかしい。
一つため息をつくと、彼女はさっと仮面を被った。
「尋問されながら口説かれるなんて、初めてだわ。それともヤードではそれがデフォルトなの?情報部よりやることは過激ね。でも結局楽しんだあたしは…被虐性欲のタイプなのかしら」
あけすけにはすっぱな口調で続けるミミに、ダリルはようやく目を合わせた。
「よせ、あんたには似合わない。そんな台詞など」
あたしのことなど知りもしないくせに。彼女が辛そうに瞳を細める。
「ああ、確かに知らんな。知りたいとも思わん。はじめに言ったはずだ、私生活に興味はないと」
「情報部の捜査の基本は、ターゲットの徹底的な身元調査。オフィシャルなものから嗜癖・依存傾向、趣味趣向まで」
「俺は情報部員などではない!」
なら何故、デリック=エマーソンを追うの?暗く沈んだ瞳。誘いを掛けたのはそちらの方だというのに。
「ああそうね、あなたが追うのは別の二人ね。東洋人、おそらくは日本人。そしてオッド・アイの英国人?彼らについて教えてちょうだい」
「あんたには関係のない話だ。そんなに知りたければ、正式なルートでヤードに調査協力やら合同捜査やらを申し入れるんだな」
「そして、あっさりと門前払いを食らう訳ね?ミスターと同じように」
思わずかちんと来たダリルが、険しい表情を浮かべる。
「あたしはあなたにエマーソンの情報だけでなく、たぶんもっと有益なものを与えることが出来るわ」
「それであんたは何を得るというのだ」
英国人の退役軍人の情報を得れば、上層部は喜ぶだろう。付加価値がつくとなればなおさらだ。しかしミミはそれで、俺から何を引き出そうとしている?
「エマーソンがイヴェールにAOKIの情報を流しているのは確かなのよ。でも物的証拠が挙がらない。そもそもどうやって門外不出のリチウム電池技術を手に入れているのかがわからない。彼とは別に実働部隊がいるはずなのよ」
「ただのポーン(チェスの歩兵)ごとき、あんたらに何の関係がある?」
エマーソンはしっぽを出さない。だったら周りから攻めるしかない!歯を食いしばり、絞り出すように言葉を吐く。
「それが情報部員の見上げた愛国精神か。イギリスが独り占めしていると、あんたがいまいましげにぬかしていた技術だ。やつが横流ししてくれるのならこれほど願ったりなことはないだろうに」
「言ったでしょう?イヴェールの実質的トップは英国人。そこもまた技術を抱え込んで、EU全体の知的共有財産とするつもりなんか、これっぽっちもないのよ」
「…どういうこと、だ?」
行儀悪くテーブルの上に腰掛けたミミは、ダリルの吸いさしを口にくわえた。笑顔一つない憂鬱げな顔が、まっすぐダリルを捉える。
「ゆくゆくはイヴェールを丸ごとAOKIの傘下に入れるのではないか。そうすればヨーロッパはおろか、世界的にも有数の自動車メーカーとなりうる。名実ともにね」
待ってくれ。ダリルは額を押さえて目を泳がせた。
「エマーソン自身はどちらに肩入れしているつもりなんだ?一朝一夕にハイブリッド・カーの開発などできん。その若造が力を発揮するもっと前から、情報は流れていたと見るのが自然だろう」
そうね、彼がどちらを向いているのかがわからないのよ。
だからこその二重スパイ疑惑、か。
二人は言葉をぶつけ、しばし沈黙した。
「十八年ほど前、コンフィギュアで働く一人の研究員が殺された事件はご存じ?」
「コンフィギュアの…研究員だと?」
ダリルにしてもそれは初耳だった。第一、自分は直接AOKIを追っているわけではない。俺の敵は、あくまでもケイ・ハミルトン。いや、未だ誰とは特定しきれないブラックというべきだろう。
「正確には主任研究員夫妻。何の研究に従事されていたかは決して公に出されることもなく、事件は新聞の片隅に小さく載っただけだった。でも、彼が携わっていたのは、ハイブリッド・カー用に開発された新しい製法のリチウム電池」
ここでもまたハイブリッド・カーか。心底うんざりしたような顔でダリルは横を向く。
「殺された夫妻には三人の子供がいた。幸い事件に巻き込まれることはなかったのだけれど、兄妹らはバラバラになった。根っからの研究者タイプだった彼らの父親は偏屈で知られ、子供たちの引き取り手がなかったからなのだけど」
「今度はお涙頂戴のソープ・オペラか。何度も言うようだが俺はここに…」
最後まで聞きなさいよ。低く暗い声。ミミには笑顔の片鱗さえ見えぬ。
ダリルは思わず押し黙った。
「夫妻の名はリチャード・キャリック=アンダーソン、そしてスザンナ・キャリック=アンダーソン」
キャリック=アンダーソン?
ダリルの表情が歪む。どういうことだ。
「イギリスでもそれほどありふれたとは言えない姓でしょう?子供たちは兄二人と妹が一人。真ん中の男の子はキース・キャリック=アンダーソン、一番下の妹がクリスティアナ・キャリック=アンダーソン。そして…」
クリスティアナ…だと…?それこそよくある名だ。ダリルは出来る限り冷静を装った。
「一番上の少年の名前は---クインシー・キャリック=アンダーソン」
ダリルは目を見開いた。なぜここでAOKIの前身であるコンフィギュアと、イヴェールのトップがつながるというのか。
ミミの抑揚のない声は続く。部屋着の下は何も身に付けてはいないのだろう。抑えても抑えきれぬ息の乱れが伝わってくる。
「身寄りのなくなった下の二人は児童入所施設へと預けられ、成績の良かったクインシーは奨学金を受けてパリへと来た」
「イギリス人の孤児が奨学金を得てエコール・サントラル・パリか?そんなバカな話があるか」
身体にまとわりつく不安感がダリルをいらだたせる。何かがずれている。この話はみな、何かが少しずつ食い違っているのだ。
「嘘じゃないわ。だって私もそこにいたのだもの」
ダリルは思わず、持っていたタバコの空き箱をぐいと握りつぶしていた。ずれはもはや修整の効かぬ異次元へと、彼の意識を連れ去ろうとしている。
酷い目眩。
「そこのフォト。無邪気に微笑んでる息子の父親は…クインシー・キャリック=アンダーソン。もっともすぐに別れたけれどね。あれほど冷たい男はいなかったわ」
自嘲めいた彼女の言葉。過去にどれほどのことがあったのか。
「そして、彼に奨学金を与えてグランデに入れたのが、デリック・エマーソンよ」
一介の外国人兵士、それも大尉止まりの彼にそんなことができるのかしら。よほど上層部に食い込んでいたとしか思えない。
ミミの声が遠くなる。
「もちろん、露骨にならぬよう幾人かの子供がエマーソンの援助を受けた。あたしたちはね、いわばクインシーのカモフラージュのために気まぐれに選ばれたおまけ。最初は本気で信じていたわ。現代のDaddy-Long-Legsのおかげであたしはこの貧民街から逃れられる。神のような善人はいるのだとどれだけ感謝したことか」
では…。言いかけて珍しくダリルは口ごもった。ミミが彼を見つめ、次の言葉を待つ。
「あんたは自分の恩人を告発しようというのか」
「あたしは真実が知りたいだけよ!!」
大声で叫ぶと彼女は拳を握りしめた。
「スラムでの生活が想像できて?ミスター!!日々の食料にも事欠き、女なら年端もゆかぬうちから身を売る。先など何も見えない。その閉塞感から犯罪に手を染めドラッグにはまる。どこにも逃げ場がない。でもあたしは!!あたしは勉強がしたかった!!盗み見るように本を漁り、字を覚え、飢えきった好奇心は知識を求めていた。住む場所もなく、その日知り合った男の部屋に転がり込む生活。でもそこにあった本はすべて読み尽くし、頼み込んで通った学校ではいつもトップだった。だから何?ここで生まれた人間はここに居続けるしかないのよ!!あなたなんかにわからない…その、ぞっとするまでの絶望感なんて…」
その生活を救ったのがエマーソンという訳か。
耳を塞げ、ダリル・アンドリュー・カークランド。この女の話を聞いてはならぬ。巻き込まれるな、引き込まれるな。捜査に私情を挟むべきではない…。
彼は己の自我に言い聞かせるように目を堅くつぶる。
「一つだけ…訊かせてくれ。ミミ」
初めて名を呼ぶダリルに、彼女はゆっくりと視線を合わせた。
「俺を誘ったのは、寝たのは何故だ」
ミミの瞳が、ほの暗く妖しく光る。それは愛ゆえか…それとも激しい憎しみ、怒りなのか。
「あの男に似てたからよ。クインシーにね。これ以上なく冷酷な瞳。感情を見せることのない人を見下した、その目。イギリスの男は皆そうだというの?」
微笑んでいるはずのミミの両眼から、涙があふれる。
ダリルは自分でもわからぬまま、立ち上がって彼女をそっと抱き留めた。
(つづく)
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