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#47

#47



人目を気にしつつアンディが去ってからも、二人は店を出ることができなかった。

カークランドは、たった今得た情報の信憑性を冷静に検討しなければと思いはしたが、彼ほどの男がそれをできずにいたのだ。


オッド・アイの悪魔。ここでもそう呼ばれるスナイパーがいた。

ブラックがレジィヨン・エトランジェールにいたことは確かなのだろう。わかるのはそれだけだ。ワイが山下耀司である確証もない。裏を取らねば。わかっている、そんな基本的な捜査手順などすべてわかっている!!


やりきれない何かが、彼の心を埋め尽くしていた。


そしてミミもまた。

彼女は艶やかに濡れる唇に指を当て、押し黙っていた。


ミミの追う機密が何か、警部にとっては興味もなければ何ら関係もない。しかし国家警察内で、若いあの男は確かにこう言ったのだ。



…相手にとってもそちらにも損のない話…



だが会ってからというもの、ミミは口を開けばEU経済について或いは次世代リチウム電池だの環境問題だのの話しかしようとはせず、エマーソンの具体的な情報は得られずじまいでいる。

この女から情報を引き出すのは、思いのほか骨の折れることなのかも知れぬ。


手にしたタバコをもみ消して、横目でミミを見据える。彼女には周りの喧噪も目には入ってはおらぬのだろう。じっと己の考えにとらわれている。


アンディに深追いするべきか否か。そして隣にいる男…英国スコットランド・ヤードの警部への情報提供がどれほどの収穫をもたらすのか。


そこまでして追うべきターゲットとは思えぬがな。デリック・エマーソンなど。専属の調査員、それも女性一人。フランスの複雑きわまりない情報部の組織体系。どこまで重要ととらえているのか。


何も見えぬ手探りの中、歩かされている不快感がぬぐいきれぬ。伝票を手に取ろうとしたカークランドより先に、ミミはそれをさっと奪うと手慣れた様子で店員を呼んだ。



「飲み直しよ、ついてきて」


連れの男に口も挟ませず、彼女はつと立ち上がると店を出る。


何が飲み直しだ、私はホテルへと帰って今日得た情報を…。


憤りを精一杯抑えて言いかけた警部に、ミミはばさりと何かを手渡した。嗅ぎ慣れぬ香水がふわりと広がる。それまで羽織っていたおとなしめのモノトーンのスーツ。そのジャケットをカークランドに持たせたまま、ミミはピアスをつけ直すと大きなサングラスを掛けた。


「おい、私は一緒に行くなど一言も!」


ただでさえ短い幾何学模様のタイトスカートには、横のラインに一筋のジッパー。それをすっと引き上げる。形のよい脚があらわになる。上には真っ赤なスパンコール付きのキャミソールが、外のネオンを受けて輝いていた。


「踊りにでも行くつもりか。この荷物は本部に届けておいてやる。それでは」


冷たく言い放ち、カークランドは歩を進めようとした。その腕を無理やり取ってタクシーを呼び止める。


「ピガールまで」


ミミはさらりと、モンマルトル西南麓にあるパリ随一の歓楽街名を告げた。ぎょっとしたのは警部の方だ。どこへ連れて行くつもりだ、この女は。


とても治安がよいとは言えぬ、風俗店や怪しげな店が建ち並ぶ下町。しかし車は、それでも人通りの多い賑やかな町並みを抜け、さらに物騒な裏通りへと二人を運んでいった。



スラム街。



表向きは一掃されたはずのパリの暗黒地区であるが、貧しい移民や不法滞在者らの集まるところにはそれなりの雰囲気をまとい始める。人々のたむろする場に流通するものは、決して表沙汰にはできぬ違法な薬物やら裏の情報など。


どこも同じだ、これだけはっきりとした階級社会ならば。ここから向こうの世界にはゆけぬし、向こうの住人には手に入れることのないものが歴然としてある。



「大変な仕事だな、情報部員というものは。女だてらにピガールか。いくら腕っ節と鼻っ柱に自信があろうが、そんなけばけばしい格好で無事に帰れるのか」


車を乗り捨て平然と薄暗い通りを歩き出すミミに、皮肉げに半分は本気で心配そうにカークランドは声を掛けた。肩を思い切り露出したなりは、とてもエリートコースを歩くDGSEの正規職員とも思えぬ。


まるで商売女。通りの男たちの露骨な視線。何を考えてこいつは…。


ミミの思惑をはかりかねて、警部はそっと手を己の武器へ掛けた。図らずもボディー・ガード役をやらされる格好になってしまったことに、いまいましさを感じながらも。


気を張り詰めるカークランドに、しかしミミは薄く笑い声を上げた。


「あなたが緊張しなくてもいいのに、ミスター。あたくしは大丈夫よ、家に帰るだけだから。パリで一番安全な場所で飲み直そうと思っただけ」


うそぶく彼女に、目を見開く。なん…だ、と?


「裏情報を取るためには女一人でスラムへ住むのか。見上げた根性だな」


苦々しく吐き捨てる。ミミの笑い声は止まらない。


「さすがは騎士道精神旺盛な英国紳士ね。女性は守るべきか弱き存在?笑わせないで」


口元をゆがめて彼女が睨め付ける。薄いサングラスの奥から強い光。



「怖いはずがないのよ。ここはあたくしが…あたしが生まれ育った場所だから」



そう言い放つと、ヒールの音も高く彼女は階段を上っていった。今の言葉をどう捉えてよいかわからぬカークランドは、仕方なく後をついて行くしか道はなかった。






パリで言うマンションに住む人々は労働者階級。これは単なる区別であり差別ではない。それが…カークランドたちの属する階級の者らの言い分だ。あまりにも当たり前すぎて、疑うことすらしなかった。今までは。


質素だがきちんと片付けられた狭い部屋には、それでも女性らしい装飾品がいくつか。写真立ての笑顔。まだ幼い子供、か。


「アメリカにいる息子よ。もう二度と一緒には暮らせないけれど」


何でもないというように、軽くミミは伝えた。ジャケットを掛けると物憂そうにストッキングを脱ぎ、それからようやくカークランドの前に灰皿を差し出す。


慎み、恥じらい。どちらもなしか。それとも、私のことなど目にも入ってはおらぬというのか。


苦笑いでタバコを取り出すと、悪いがあんたの私生活に興味はないなと吐き捨てた。


気配にふと顔を上げると、彼の座ったカウチに身を寄せるようにミミはもたれかかっていた。


「ヤードのエリートには一生わからないでしょうね。あたしの思いも育った環境も」


ねえ、ミスター・ダリル・アンドリュー・カークランド警部?


甘えというよりも、もっと深く淀んだ声。とうの昔にサングラスを外した暗い瞳がカークランドを捉える。


「DGSEの職員になるにはそれなりの学歴も必要だろう。失礼を承知で言わせてもらうが、スラムで育ち、上級学校に進めるとは思えんな」


冷ややかな警部の言葉。胸に浮かぶ黒い疑惑は、ミミの素性。


「あたしも思っても見なかったわ。地を這うような生活から救い出してくれるDaddy-Long-Legsが実在するなんてね」


「Daddy-Long-Legsあしながおじさん…学費援助者か。それでそいつと結婚したとでも言うのか」


疑い出せばきりがない。言葉につい棘が混じる。


「堅物で有名なミスターが、アメリカ一甘ったるい少女小説のストーリーまでご存じとは素晴らしいわ」


短く切り揃えた髪を揺らして、下からのぞき込む。野生の猫…あるいは豹。カークランドはいつものように目を細めた。



「私をここへ連れ込んだのは、何が目的だ」


「言ったでしょう?パリ中で一番安全な場所で飲み直しましょうと」


二度ほど吸い込んだタバコを灰皿に押しつけると、香りの残るその長い指でカークランドはミミの顎をぐいと掴んだ。


「ふざけるな。情報部ではないからと私を舐めるのも大概にした方がいい。事と次第によっては女だとて容赦はしない」


彼女の暗い瞳は変わらずカークランドを見据えたまま。彼はかまわず掴んだ手に力を込めた。


「正直に言え。目的は何だ」


ゆがめたミミの口元がさらに妖艶に微笑みを形作る。赤いルージュが艶を放つ。





「あたしの目的は、ダリル・アンドリュー・カークランド警部だと言ったら?」


冷酷に睨み返す警部へ、平然と言葉を紡ぐ。


「あなたが欲しいわ。職務としてではなく、一個人のミュリエル・ラファージュとして」


「あんたの遣うフランス語はスラングだらけか?言っている意味がわからんな」


いくら力を込めようと、彼女は痛がるそぶりも苦しげな表情すらも浮かべなかった。代わりにかいま見せる、妖しげな笑み。


「女としてあなたが欲しいと言ったのよ」


色仕掛けで情報を引き出す?ずいぶんと古典的な手だな。カークランドも負けじと嘲笑を返す。


「俺はあんたが欲しがっている情報など持ってはいない。最初の契約では、この国で得た機密の共有、それだけだったはずだ」


すっとミミが視線を僅かにそらす。浅いため息。


「噂は本当だったという訳ね。…それほど異性はお嫌い?」


何!?カークランドの眉がひそめられる。


「ああ、ごめんなさあい。ついでにフランス語のヒヤリングも苦手でらっしゃったのよね。ゲイというもっぱらの評判。あれは本当だったのねと言ってるのよ」


歯ぎしりと顔面を引きつらせた警部は、怒鳴り出したい衝動を必死で抑え込んだ。


「どこのどいつがそんなデマを。俺がゲイだと?物事には言っていいことと悪いことが…」


「あら、DGSEでは七対三でゲイ説が優位だったのだけれど。言っておくけれどあたしはノーマル側に賭けたんですからね。負けたらマカロンをおごる約束をしちゃったの。悔しいわ。名店ラデュレの名物は、いくらパリに住んでたって滅多に食べられないのに」


いたずらめいたふくれ面で、下唇を噛む。そんな仕草が似合う童顔の美女。


「俺はゲイではない」


静かに、しかし深い怒りを込めてうなる。


「ミスターの片腕は筋金入りのゲイで名を馳せてる。女性問題で揉めたという情報もなし。三十代半ばにして決まった女性もないとくれば、ねえ」


この私を調べ上げたというのか?この女…いったい何が目的で。カークランドの意識はどこか醒め切っていたはずなのに、彼女から目が離せない。




「俺をたきつけて何を企んでいる?」


「ゲイのパートナーに操を立ててらっしゃるなんて、見上げた…」


ミミに最後まで言わせることをせず、彼女の髪をぐいとひっつかむとカークランドは顔を寄せた。加減なしの手荒さにさすがのミミも苦痛の表情を浮かべる。


「ふざけるな、誰がパートナーだ。これ以上風評を広げたらただじゃおかない」


痛みに歪む彼女の顎を持ち上げると、警部は…ダリルはその艶やかなルージュへと乱暴に口づけた。息もつけぬほど激しく。



腕から逃れようともがく彼女から、ふいに力が抜けた。


光を受けるキャミソールの上からもはっきりとわかるほど、その胸が荒い呼吸を繰り返す。


ダリルの薄い唇は、獲物をまさぐるかのように彼女の頬へ首筋へ、そして耳元へ。


「あっ」


小さくあげた声は痛みに耐えかねた悲鳴か、もしくは悦楽のうめきか。


ダリルは彼女の耳朶をきつく噛むと、息だけで囁いた。


「言え。あんたの本当の目的は何だ」


もう、ミミには答えることもできない。カウチに膝をつくようにしてダリルにもたれかかっていた彼女は、自重を支えることもできぬほどその身体を震わせていた。


ダリルの片手が、そっと真っ赤なキャミソールのストラップを外す。


白く透き通った肌へ触れられた衝撃に、ミミの身体がビクンとはじけた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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