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#44

#44



待ち合わせの場所は、よりによってノートルダム大聖堂の入り口だった。


…よほどの田舎者と思われたか…


カークランドは苦笑を禁じ得なかった。

いくら国際的な犯罪を取り扱わないからといえ、ヤードの警察官僚がフランスのことを何も知らずに職務をこなせるとでも思っているのか。


ずいぶん見くびられたものだな。


カークランド自身、もちろんビジネスをこなせるほどの流暢な仏語は話せるし、捜査上のやりとりでフランス当局に問い合わせることも多々ある。

だが、確かに観光でパリに来るなどというシチュエーションはありようもなかった。


荘厳な建物は、威圧感を持って下々の者たちを見下ろしていた。刻み込まれたその歴史が、積まれた壁の石一つ一つに染みこんでいる。ザラリとした感触と、色褪せてはいるものの精巧に施された彫刻の見事さに、惹き込まれる観光客も多い。


…しかしまあ、祈りの場としてはいささかにぎやかすぎるな…


海の向こうからと思われるツアー客らが、歓声を上げる。建物内では信仰に基づく敬虔な祈りが捧げられているというのに。


これだけ人がいれば、誰がどこに潜むやも知れぬ。狙われているのは何も、アーネストだけとは限らないのだ。


警部は神経を尖らせ、警戒を怠らぬようにした。




昨今は待ち合わせに目印など必要ではない。

携帯電話の普及は仕事をしやすくもし、同時に犯罪を地下に潜らせやすくもしていった。メール着信を知らせるバイブレーション。入り口のドアに手を掛けているとのこと。


どいつだ。その対外治安総局(DGSE)の専属職員とやらは。


一度は見過ごした。


再び目をこらし、気づかれぬようにカークランドは眉をひそめた。

そこに立っていたのは、絹糸のようなプラチナブランドを顎の辺りでぷつりと切り揃え、大振りなピアスを揺らすうら若き女性だったのだ。



透き通る肌に蒼く光る瞳。誰かに似ていると咄嗟に警部は感じた。



…なんてことだ。ケイ・ハミルトンに似ていると思ったのか…


それほどまで、彼に己の思考のメモリーをくわれていたとはな。さりげなく彼女から目を逸らす。




「対外治安総局(DGSE)のミュリエル・ラファージュです。初めまして」


鼻にかかる独特の発音。こればかりはどれだけ仏語が上達しても真似はできんな。スコットランド・ヤードのカークランドとだけ告げる。お互いの所属部署も階級も伏せたまま。


「さすがは英国紳士ね」


ラファージュは、にっこりと微笑んだ。低い身長をカバーするためか、美しい形のヒールが目につく。満員のRERエール・ウー・エールで踏まれた日には、さぞかし痛かろうな。パリの地下鉄を思い浮かべながら、カークランドは彼女の言葉の真意を汲み取ろうとした。


「アー、マドモアゼル…」


「マダムでけっこう。小娘とバカにするおつもり?」


気の強そうな視線が、下から突き刺さる。このガキ…十分小娘と言っていい歳だろうが。しかしカークランドは自らを律し、繰り言を飲み込んだ。


「大変失礼。マダム・ラファージュ」


「ミミでいいわ、長ったらしいし。あなたのことは何とお呼びすればよいのかしら、ダリル・カークランド警部殿?」


マダムと呼べと言った舌の根も乾かぬうちに。しかしこの女、なぜ名前だけでなく私の階級まで。どうも勘がつかめぬ。というよりもかみ合わぬ。童顔の美女はさらに鋭い目を向ける。


「こんな小娘が相手とは、見くびられたものだな。そうお思いでしょうね。表情はともかく、言葉に出さないだけでもご立派な態度ですわね」


「マダム・ラファージュ、なぜ私の名を?」


わざと堅苦しく彼女の名前を呼ぶと、ミミはふっと表情を緩めた。ふんわりとした笑顔は、ますますあの子爵を思わせる。


「お噂はかねがね。あなたはご自分が思うよりフランス当局では有名人よ、ミスター」


「ろくでもない噂を流されていることでしょう。国際警察ではけんもほろろの扱いでしたよ」


苦笑いでカークランドも応える。それはそうよ、さらりとミミが口にする。



「デリック・エマーソンの扱いには、皆とても神経を尖らせているから」



どういうことだ?過去の人物として忘れ去られているのではないのか。その疑問はおくびにも出さず、平静を装う。




「ハイブリット・カーの開発には世界中のどの国もしのぎを削っているわ。表向き、EU諸国はディーゼルエンジンで当面のCO2削減目標をクリアできるとうたってはいるけれど、水面下での競争は激しい。しかし現時点では、悔しいけれど日本のリチウム電池技術がなければ、どうあがいても勝ち目はない。日本企業と提携するか、コスト高となるのを受け入れながら輸入を増やすか。もしくは日本に一番近づいているとされる中国などのアジア諸国に資金援助を行い、開発を促すか。どちらにしても、アジアの力なくしてはハイブリッド・カーの国内生産は見込めない。もちろん、問題はリチウム電池技術だけの話ではなく、それに付随した半導体や燃費効率を上げる地道な努力と言った事細かなノウハウを…」


「ちょっと、待ってくれ!」


さすがのカークランドも声を上げた。いつまでこの女は、関係のない話をべらべらと。


「私はフランスへ、エマーソンの話を伺いに来たのですが」


「あたくしも、エマーソンの話をしているのですわ。ミスター」


何?滅多に動揺を見せぬ警部が、その頬を引きつらせる。



「デリック・エマーソンの現在の職業は?」


「表向きは、実体のよくわからぬ貿易商だ。かつての部下のつてを頼り、それこそ細々と美術品やら骨董品やらを地味に取引しているはずだが」


もう、丁寧なやりとりなどに構っている暇はなかった。づけづけとものを言う警部に、ミミも負けじと顎をあげて睨め付ける。


「まさかそれをまともに信じている訳じゃないでしょうね。いくら平和なイギリス国民としても」


ムッとした表情も隠さずに、警部はミミをにらみ返した。私はあくまでもヤードであり、情報部ではない、と。


「フランスのみならずEU諸国全体が、だからこそAOKIの『flora』に注目しているわ。日系企業とはいえ、直接日本企業とのパイプを持つわけでもないAOKI単体で、ハイブリッド・カーを英国で大量生産できるはずがない。何度もイギリス政府へはEU全体の競争力強化を鑑みて、『flora』の技術共有を持ちかけていても、一企業に対してそれを強要することはできないと突っぱねられ続けてる」


「経済談義もEU諸国のごたごたも、悪いが私の管轄外だ」


苛立たしさに語気を強める。何が言いたいのだ、この小娘は!



「…だからこそ、デリック・エマーソンがキーパーソンとなりうるのよ」



厳かにミミがつぶやく。

うっすらと中での祈りが聴こえてくるような錯覚に、カークランドは目眩を覚えた。


「なぜここを…待ち合わせ場所に…?」


エマーソンはエマーソン、AOKIはAOKIのはずだ。ぐらりと地面が揺れる。


歴史の重みがじかに感じられるほど、冷たい石壁の感触がカークランドを押しつぶすようかのように。


「この敬虔な場所では発砲することもできないでしょうね。なんて…まあ、観光客が盾になってくれるから、一番安全だと思ったのよ。この問題を扱おうと思えば、命がいくつあっても足りないわ」


涼やかにミミは言い放つ。今晩のディナーの相談でもしているとしか思えぬほど。


「まあいいわ。あとの話はDGSE本部へご招待してからでいいかしら。どうやらイギリスからあなたをつけ回す輩もいないようだし」


見た目よりずっとあざとい女だ。胸の内で口汚く罵る。カークランドほどの男が顔色を変えずに冷静さを保つために、これほど努力を強いられるとは。


「それから、もう一つ付け加えておいてもよくて?」


「何が出てきても、今さら驚かん。今度は何だ?」


丁重なフランス語さえ、今は忘れてしまった。吐き捨てるような警部の言葉に、またもミミはふっと笑った。



「あたくし、こう見えてもトラント・ドゥですので。今後はどうか、小娘扱いは止めていただけます?」


トラント・ドゥ…32!?俺と大して変わらないというのか?これだから女というものは…。


どこへ行こうが、パートナーには恵まれんな。カークランドは心の底から深くため息をついた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009  keikitagawa All Rights Reserved

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