#43
#43
ケイはゆったりとした椅子に深く沈み、双眸をわずかに閉じる。かすかなバックグラウンドミュージックは、バロックか。
セラピストは、あとワン・セッションと言った。実際にはこれで初回を入れて四度目。
これほど速いペースでは通常やらないのですが…。彼も治療者としてのプライドがあるのだろう。苦笑いでそうこぼした。
一晩中現れる悪夢と、屋敷に響く絶叫。眠れるものではない。
ケイにとって夜は、もっとも心休まる穏やかな空間ではなく、恐ろしき魔物が住む逢魔が時。
…人を殺めることなく、静謐な時間が持てるのなら…
虚しい期待は常に裏切られ、心の奥底を探る作業は過去をも刺激する危険性を含んでいた。
さらなる絶望と恐怖。
そうだ、おれは怖かったんだ。これ以上はないと思われる恐ろしさより、もっと煉獄が存在していたとしたら。何者からも存在を否定される、その救いのない無間地獄。
禍々しい言葉どもを、無理やり頭の中から払拭する。
その手法に慣れてきたケイは、すぐさま軽い眠りに入った。意識の残る催眠状態。
心の中では言葉にさえ表せぬ感情のカケラたちが浮遊していた。
セラピストの声が遠くから響く。
「お兄さんのことをどう思いますか」
話せる限りでいいからと、前回のセッションで思い出した家族について訊かれた。
無理にとは言いません…、穏やかな言葉が続く。
ケイは正直に、催眠状態の中で記憶に現れた家族と母の友人について話した。それでもなお、事件には触れることもできぬまま。
「兄は…逆らえません。いつもうるさいと怒鳴り、僕を、叱った」
「では妹さんは?」
ゆっくりではあるが、セラピストは一人一人についてケイに問うていった。
その存在さえ忘れていた彼らについて考えること。ときに記憶は身体と心に、少しばかりのひっかき傷を作っていく。
「妹は…可愛いとは思ったけれど、母の手を煩わすものだと。僕を抱きしめるはずの両手は、いつもふさがれていた」
「妹さんがいたから、あなたはお母さまから抱かれなかった」
「…いえ」
認めるのはたいそう苦痛を感じたが、眠っていてもなおケイの自意識は己を制御した。そうではない。おそらくは母は妹の手が離れても、僕を…おれを抱きしめようとはしなかったはずだ。
黙ってしまったケイに敢えて次の言葉を挟まずに、ドクターは父親について訊いた。
「気難しくて、静かな空間を好む。そういう点では兄によく似ていました。僕には無関心だったけれども、時折見つめるときは決まって、このオッド・アイを物珍しそうに」
それは単なる科学者としての興味だったのだろう。
この家族に会話はほとんどなかった。食卓の席でも。食事以外に皆が揃うこともないが。
ばらばら。
ああそうだ。おれはコックニーにいた頃からじゃない。もっともっと前の生まれ落ちた瞬間から、ずっと独りだったのだ。
だから、過去を探る旅などイヤだったのに。
今さら繰り言などどうしようもないことだ。これで計画に支障が生じないのあれば、おれの心などどうでもいい。壊れるのなら早いうちに、だな。
一種のあきらめを内包して、セラピーは続けられた。
フランスへ飛んだカークランドは、まずは素直に国家警察へと出向いた。
もちろん上層部には話を通してある。しかし、デリック・エマーソンの名前を出したとたん、彼らの口は重くなった。
「エマーソンは英国人だ。我々よりあなた方の方がずっとお詳しいのではありませんかな」
渋い顔で門前払いを食らわせようとしたのは、総合情報中央局の幹部だった。
ここでは、おれも単なる若造という訳か。
カークランドは心の中だけで苦笑した。もとより英仏の関係は良好とは言い難い。さらに彼らにとってエマーソンはすでに、過去の人物なのかも知れぬな。
丁寧に礼を言ってその場を去ろうとする。
正攻法でダメならウラを当たるしかあるまい。すでに元レジィヨン・エトランジェールの隊員だったという関係者にはアポイントを取り付けてある。その人物がエマーソンの下で活動していたかまでは掴みきれなかったが。
場違いな英国人がなぜここに?冷ややかな視線を浴びながら、警部は複雑きわまりない造りの重厚な建物を歩いていった。
どこも同じか、警察内部など。
微妙な力関係と水面下の対立。どこへ話を持って行くかで先の展開が全く変わる。
SIS-イギリス情報局秘密情報部の職員でもないカークランドにとって、いくらエマーソンが二重スパイ疑惑を抱えているからと、素直に情報部に協力を要請するわけにも行くまい。
我々にだとて、こちらの義理もプライドもある。
政府機関の協力が得られぬのなら。それでもいい。私の今回の目的はエマーソン自身ではなく、あくまでもケイ・ハミルトンおよび山下耀司なのだから。
彼らがどこでエマーソンとつながっているのか。
チャンスがあるとすれば、彼がフランスに渡ったあの空白の期間でしか考えられない。英国子爵が留学するにふさわしいとも思えぬ、フランスの片田舎の大学。それよりも、ずっとお似合いの場所があるのではないか。
レジィヨン・エトランジェール-フランス外人部隊。
ほんの少しのとっかかりでいい。それさえ掴めれば子爵を揺さぶることができる。
己の考えに深くとらわれていたカークランドは、不意に肩を叩かれて思いがけず動揺した。
「お静かに願います。これは非公式なものですから」
俯きがちに声をひそめた若い職員は、そっと一枚のカードを彼に手渡した。
「対外治安総局(DGSE)に、エマーソンを追っている専属の職員がいます。あなたの持つ情報が有益であれば、相手にとってもそちらにも損のない話だと思います。連絡を取るかどうかはお任せします。では」
手元には連絡先。それを渡した若い男は、足早に去っていった。
意図は何だ。
しばし考え込んだカークランド警部は、では素直にその手に乗ってやるとするか、と独りごちた。
「お母さまのご友人についてはどうですか」
淡々とした質問は続く。まるでそれ自体が一つの呪文のように。
おばさまは、お母様とは全く正反対の性格だった。どうして気が合うのか不思議なほど。
よく笑いよくしゃべる。幼い子がいないのに、乳児と言っていいくらいの妹を気軽に預かる。
それでいて、おれは一度だって彼女の家に行くことはなかった。
家柄のよいお屋敷だと聞いていた。何を思って妹だけを溺愛していたのか。
兄はさっさと街なかの設備の整った図書館に行っていたらしいから。
おれは何も知らない。何も知らされていなかった。記憶はぼやけ、誰の顔もはっきりとはしない。
なぜ善治郎の顔だけが…。
あわててケイは、己に取り憑きかけた亡霊を追い払った。
「では最後に」
小さくてもよく通るドクターの声が、彼を元の世界に引き戻す。たゆたう意識は、どちらの世界に属しているかはわからぬが。
「母は、常に怯えていました。父に怯え物音に怯え、ため息をついては床に伏せる毎日でした。その間、僕は放っておかれ、誰からも見向きもされなかった」
じっと無言が続く。セラピストは唐突に切り出した。
「今まであなたが語ってくださった中に、あなたが一番恐れ、できれば避けたい相手はいますか?」
言葉を選んではいるが、要するに悪夢の核心へと触れたいのだろう。時間がない。ケイはためらわずに答えた。
「母です。僕がその姿を見て悲鳴を上げる相手というのは」
「もし差し支えなければ…」
慎重に歩を進めるドクターに対し、逆にケイはどんどん醒めていった。今までの覚えのない記憶を語るよりずっと楽だ。
家に強盗が押し入り、父と母は殺された。
僕は母からクローゼットに押し込められ、隠されて助かった。
しかしその日から毎晩、ぽっかりと空いた黒い瞳から血の涙を流す母が、僕に向かって手を伸ばしてくる。
僕は恐怖で何も言えず、思わず大声で…。
セラピストがケイの言葉を遮ろうとする。危険だと察したのだろう。しかし今は夜ではない。おれの意識ははっきりしているし、叫ぶはずが。
ケイの意志に反して、すでに身体は震え始めていた。喉が詰まって息が入ってこない。知らぬうちに歯がガタガタと鳴り出す。
「ミスター・ダルトン。よく聞いてください。ゆっくりと息を吸うイメージです。いつものように」
セラピーの途中途中でやらされ続けた呼吸法。身体の中心を膨らませるかのように少しずつ息を入れてゆく。
「お母さまは、あなたをクローゼットに入れてからどんな姿勢でしたか」
声を出すことなど、今の状態でできるはずなどないのに。それでも容赦なく彼は質問を繰り返す。
ケイは「ぼ…僕…に背を…向けて…、ドアが…開かぬ…よう…」と何とか答えを絞り出す。
「お母さまはあなたを守ろうとした。違いますか?最後の最後まで、あなたの存在を隠し通そうとした。だからこそあなたは、今ここに生きて存在している」
わかっている。理屈ではよくわかる。けれど、母はいつもおれに向かって血みどろの手を。
「あなたは憎んでいるのですか?それとも、あなた自身がお母さまから憎まれていると?」
不意に震えは止まり、ケイは思わず目を開けた。
それほど、思いもしなかった問いだったからだ。
「憎むはずがない。どうして僕が母を憎むのですか?」
ミスター。自らの姿勢を低くして、セラピストはケイの目をのぞき込んだ。
「あなたは日頃、お母さまに愛されたかったのでしょうね。それはおそらく今も続いている。親からの愛情を渇望している。では、最期にお母さまの取られた行動は、あなたを憎むが故のものでしたか?」
ケイは息を飲む。母は自分の身を盾にしてでもおれを助けようとした。
「強盗が入り、あわててお母さまはあなたをクローゼットに隠した。背を向けて、犯人には決して気づかれぬよう」
強盗が入り…。お母さまはなぜ、あいつらが最初から殺意を持っていると知ったのだろうか。
……
暗闇のクローゼットの中に、わずかな光が差し込む。片眼を無理やり押しつけるようにして、少年は外の様子を伺っていた。
目の前には母の柔らかなブラウス。背中で少年を隠すように立って、そこを動こうとはしない。
どやどやと歩き回る数人の、おそらく男たちの足音。父の震える怒鳴り声。
……
おれが押し込められたのは、いつの時点だったんだろう。
そこまで考えようとしたとき、ケイは頭を抱えて唸りだした。ずきずきと痛みが脈を打つ。
記憶が分断され、いっこうに繋がろうとはしない。
なぜ?なぜなんだ?
何かに操られるかのように、ケイは言葉を発していた。
「それが、最期に見せた僕への母の愛だとおっしゃるのですね」
「私は、そう思いますが」
微笑みをたたえてセラピストはうなずく。そのお母さまがあなたに恨みがましく襲いかかることがあるでしょうか、と。
そう、あれは本当の記憶ではない。
母は振り返ることなどしなかった。血みどろの涙も流さなかった。母は僕を命がけで守ってくれた。息絶えるその最期まで。
模範的な回答に満足したのか、セラピストは再び深くうなずいた。
…次のセッションは、予約を入れずに置きます…
自信ありげに彼はそう告げた。ケイは半信半疑ではあったが、大人しく従うことにした。
そのまま受け入れればいい、彼の言葉を。
ふらつく足でセラピールームを出たケイは、心に残る黒い陰を無理やり奥底に閉じこめるための努力を、一人空しく続けていた。
(つづく)
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