#41
#41
闇に包まれるロンドン郊外に、その男は現れた。
身体の線がぴったりと見えるほどフィットしたボディ・スーツに顔を隠したその出で立ち。両手にしなやかなグローブをはめ、手にした愛器を素早く組み立てる。
レミントンM700。口径の大きなスコープとサイレンサーを取り付ける。流れるように慣れきった動作。そうだ、おれはこんなことを厭と言うほどやらされてきたのだから。
全く気配を消しきって建物の上層階に潜む。カケラでも照明を反射させぬようにと塗られた特殊塗料。
ケイは呼吸を整える。
頭の一部が、どんどん冴えきってゆく。感覚が鋭敏になる。今ならほんの少し空気が動いただけで身体が無意識に反応するだろう。
生きるためのスキル。
戦場では、そうでもしなければ生き残ることは不可能だった。
スナイパーライフルを床に固定し、自らは姿勢深く伏せた。禍々しく光り輝く青い瞳でスコープをのぞき込む。黒い宝石は今は堅く閉ざされたまま。
標的までの距離を目視。
狙うは…喧噪の中で切り取られた瞬間の静寂。はるか地上に存在する一人の男を見据える。
口元をゆがめ皮肉げに微笑みをたたえたケイは、一瞬呼吸を止めた。
「これで全部か」
怪しげな繁華街の裏道。カークランドはいつものように冷ややかな声で振り向いた。
得意げに、まあね、とうそぶいたアニーがこなをかける。
「どう?その辺りで飲んでかない?」
その必要もないとも、何のためにとも言わず、警部は踵を返す。アニーと二人で飲むことなどハナから頭にないのだろう。
「ちょっとお!いくらアタシでも普通なら、これだけの短時間で調べられるようなもんじゃないでしょうが!必死に探ってきた情報なのよ!!もうちょっとねぎらう気持ちを見せてくれたって罰は当たんないんじゃないの!?」
アニーはふだんのカークランドへの思いというよりも、情報屋としてのプライドを見せて激しく抗議した。
謎に包まれた山下耀司の経歴。フォトグラファーとして日の目を見るまで、彼がどこで何をしていた人物か誰も知らない。師事していた写真家も、どこでその技術を学んだかも。
彼が持ち込んだ一枚の風景写真が、その才能が、一気に認められたというサクセス・ストーリー。仕組まれたものではない。確かに素晴らしい作品であるのだろう。芸術に疎い警部にはわかりようもなかったが。
…そんなことはどうだっていい。重要なのはケイ・ハミルトン卿との接点。そして、なぜきな臭いデリック・エマーソンとつながりがあるのか。ということは…
ケイがエマーソンと。そこまで行けばあまりに論理が飛躍しすぎというものだろう。物的どころか状況証拠すらない。
A-BそしてB-C。ならばA-Cが成り立つのか。落ち着け、ダリル。英仏の二重スパイ疑惑を掛けられるほどの元フランス外人部隊将校と、経済的に逼迫しているとはいえ由緒正しい英国子爵。接点などあるはずがない。
「現在のハミルトン卿が本物なら、ね。そして、彼がもし」
考えていることなどすべてお見通し。そう言いたげにアニーが口を挟む。こいつは。
「証拠がないと言っただろう。今のところ、ハミルトン卿がブラックである可能性は低い。誰も思いもしないし、説得させるだけの材料もない」
挑発するかのように冷静にカークランドは返答する。心にもないことを。アニーが苦笑いで応える。
「表面だけを見ている連中にはね。でもアタシたちは知っている。彼の本来の気性を。あんな能天気で呑気なだけのボンボンなんかじゃないことをね」
「何にしても時期尚早だ。彼のフランス時代をもう少し調べてみる。安心しろ、それはこちらでやる。おまえは引き続き…」
人使いが荒いんだから。アニーは甘さを含んだため息をついた。
それに軽く手を振ってカークランドは歩き出した。
気心の知れた情報屋。確かにこいつは使える。
名門一家に生まれ、それになじみきることのできなかったアーネスト・シャーウッド。あのまままともに家柄に取り込まれていたら、彼は今頃どうなっていただろうか。少なくとも自らの心と身体の齟齬に、人知れず苦しみ続けていたに違いない。
人によって、何が幸せなのか。
自身も警察官僚の道を選ばねば、下町にも裏社会にも縁などなかった部類の人間だ。
…皮肉なものだな…
珍しく感傷的な物思いに、ダリル・カークランドは軽く首を振った。私らしくもない。
喧噪から一本裏道へと入った暗がり、歩く者はみな怪しげな連中。しかし警部は何も臆することなく、アニーと別れてヤードへと向かった。
その時。
バシュッというほんのわずかな物音と、その後に続く音は!
「アーネスト!!」
振り返ったカークランドの目に映ったものは、大柄な身体を道路に横たえ唸り続けるアニーの姿。
すぐさま駆け寄り、抱きかかえる。
日頃の余裕ありげな笑顔一つなく、苦痛をこらえ目を堅くつぶる。
「どうした!?アーネスト!!しっかりしろ!!」
抜き出した銃を構え、警部は辺りを見回すが、誰もが怯えた顔つきで遠回しに見つめる。
警部と目が合った者は、皆必死にその場を逃げ出した。犯人ではない。それほどの警部の気迫が、彼らを恐れさせたのだろう。
…誰が、誰が一体…
それよりも。
カークランドは己があまりにも冷静さを失っていたことに、ようやく気づいた。何が起こったのかさえ掴んではいない。
見ればアニーは、右大腿部を撃ち抜かれていた。出血が酷い。
カークランドは自分のネクタイを左手で急いでゆるめると、それを彼の脚付け根にきつく巻き付けた。
大腿動脈を損傷していなければいいが。胸を冷たいものがよぎる。
GSMではない彼の携帯で999を押す。Ambulance!!必死に叫ぶ。
とても落ち着いて話ができる状態ではない。たとえそれが、スコットランド・ヤード一の敏腕警部であってさえも。
目の前で苦しむのは、彼がよく知るアーネスト・シャーウッドなのだから。
警察と自身の所属部署にも連絡を入れる。狙われたのはただの男ではない。そして狙ったのもおそらく…。
「おい!!しっかりしろ!!頼むから返事をしてくれ!!」
滅多に出さぬ大声で、カークランドはアニーの頬を叩き続けた。うっすらと目を開ける彼に取り敢えず安堵する。
「アーネスト。大丈夫か?」
荒い息で彼が口をわずかに動かす。何か言っているようで聞こえない。警部は耳を近づけた。
「…だ…い…てて…」
出血が多すぎるための、急激な血圧低下か。それが彼の体温を奪っているのか。
カークランドは着ていたコートを素早く脱ぐとアニーに掛け、その上からしっかりと彼を抱きかかえた。傷に障らぬよう、それでも渾身の力をこめて。
「じきに救急車が来る。それまで何とか持ちこたえろ!頼む!アーネスト!!」
銃をしまい、左手はアニーの頭を押さえ、右腕でかき抱く。どう考えても彼が狙われたのは己のせいだ。いくら筋金入りの闇ブローカーと言えども、常に危険な情報収集を無理強いしてきたのは、この俺だ。
ここで、彼を失うようなことがあったら…。
アニーの方は、と言えば。
傷の痛みもさるものながら、憧れのカークランドにひしと抱きしめられたこの状況に夢心地であった。
弾は抜けているだろう。骨に当たった感触もない。彼だとて裏家業の人間だ。傷の一つや二つ、受けたことがないはずもない。
「…もう、死にそう…」
あまりの嬉しさで。
この言葉は敢えて省略した。こんな機会など滅多にないのだから。
「死ぬなど弱気なことを言うんじゃない!!今おまえに死なれたら!?」
「死なれたら…?」
「俺は、俺はどうすればいいんだ?」
こんな有能な情報屋、そうそう見つかるものではない。
裏社会とのつながりを持つということはそれなりの非常なリスクをも背負う。たまたま学友の一人が裏に顔が利くなどという、警部の大切なパイプを失うことはかなりの痛手だ。
カークランドの思惑を知ってか知らずか、アニーは恍惚といった表情でしなだれかかった。
それを、意識混濁と捉えた警部はさらにしっかりと彼を抱く。
「…アニーって呼んで。ダル、お願い」
「ああ、何度でも呼んでやる。アニー!頼む!生きてくれ!!諦めるな!!俺を一人にするな!!アニー!!」
「は…、もうダメ…」
幸福感に包まれたアニーのため息と、珍しく取り乱したカークランドの叫び声を、遠くから近づくサイレンがかき消すように鳴り響いていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009 keikitagawa All Rights Reserved