#40
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「迎えに来たわよ!準備はできてる?」
快活な声が庭に響く。ああ、あれは確かお母様のお友達だ。常に静かさを求められるこの家で、唯一明るさが訪れるとしたら、彼女が来たときのみ。
「おばさま!またお屋敷近くの図書館に行ってもいいのでしょう?」
ふだんよりずっと子どもらしく振る舞う兄様は、甘えた声で彼女にねだった。
「はいはい、あなたの目的は私じゃなくて御本様ですものね。未来のノーベル賞候補者殿!?」
茶目っ気たっぷりに笑う彼女に、兄様がムッとする。
「ごめんごめん、候補じゃなくて受賞者でしたわね、博士様!」
少しばかり誇らしげな兄様の横顔とハラハラしたお母様の表情。そして手にした幼い妹。
「いいの?こんな小さな子をいつもお願いしてしまって」
「言ったじゃない!私はこのくらいの子は大好きだし、残念ながら自分の子どもはまだいないしね」
何も気にしないように彼女は笑った。屈託のない笑顔というのはこれなんだろう。一気に辛気くさい家が華やぐ。
「これで、と。お兄さんの方は図書館に送っていけばいいとして…。彼は?」
不意に皆の視線が僕に集まり、慣れぬことにどぎまぎした。何も言えずに黙ったままうつむく。
「お兄ちゃんと一緒に、図書館にでも行く?」
彼女の何気ない言葉に、僕は怯えて首を思い切り振った。冗談じゃない!人目のないところで何をされるか。兄様だってうんと冷ややかな目でこっちを見ている。
僕は思わずお母様のスカートのうしろに隠れた。ぎゅっとしがみつく。
「いつだってこうなの。どうしてこの子はこんなに臆病なのかしら」
お母様のため息。僕は誰からも必要とされていないんだろうか。そうなんだろうね。
「いいんじゃない?お坊ちゃんは大人しいし、たまにはお母さんを独り占めしたいわよね」
彼女の助け船で、僕は家に残れることになった。もっともこれが初めてじゃない。いつもいつも、僕だけは彼女の家には行かない。
みんなを見送りながら、まだ僕はお母様の背中に張り付いたままだった。
その手をそっとほどくと、お母様は暗い目で僕を諭した。
「ちょっと疲れてしまって…。休んでもいいかしら。あなたは静かに遊んでいられるわね?」
むろん、僕に拒否権などない。本当はお母様と一緒にはしゃいで駆け回りたいくらいだったのになんて、絶対に言えない。
お父様は書斎、お母様は寝室。一人残された僕は…何をするでもなく、ただ庭にいた。
暗くなるまで。風が冷たくなるまで。
皆が出掛けたのは朝早くだったのに、お昼を過ぎても僕の家からは何の物音もしなかった。
おなかが空いても、ここでは一人で食べちゃいけないんだ。
たくさんいるはずの家族は、なぜかバラバラだった。そうきっと、最初から…。
…『友人の家に行かせて』母のセリフと一致する。嘘ではなかったのか。おれ一人は取り残されて自宅にいた。それでも母はかばってくれた。あいつらから…
思い出す記憶の一つ一つが、悪夢の信憑性を高めるかのように証明してゆく。ただの妄想であって欲しかったのに。
それとも逆か?おれは悪夢を元に、架空の過去を作り出そうとしているのか。つじつまが合うように、うまく整合性が保たれるように。
一体何のために?
ケイは必死に、過去の記憶と悪夢とを近づけまいとした。まだ早い。早すぎる。父も母も殺されたということを証明するものは何もない。あるのはただ、己の中の記憶のみ。
こんなあやふやな記憶に頼るつもりか。糾弾すらできまい。脳をかち割って目の前に差し出せるのなら、この顔ですとプリントアウトできるのであれば。
この…顔と…。
フードの下の東洋人、そして血みどろの背中。赤い涙を流すのは母ではない。本物の記憶ではない。
振り返りはしなかった。できるはずもなかった!!母はあの場に崩れ落ち、息絶えたのだから!!
ケイの呼吸が荒くなり、身体は小刻みに震え始めた。噴き出すイヤな冷や汗と、歯を食いしばってもこぼれ出すうなり声。
遠くで誰かがおれを呼んでいる。あれは誰だ?誰を呼んでいるんだ?
「…ター!ミスター!ここは安全です。ゆっくりと息をして。ミスター・ダルトン!?」
おれはそんな名前じゃない!!おれの本当の名前は…!?
「うわあああああ!!」
ケイにとっては聞き慣れた絶叫が響き渡る。己の声とも思えぬ、遠い過去と今を結ぶ恐怖。
ふだんよりもっと鮮明な記憶に襲われ、彼は突然立ち上がったかと思うと頭を抱え込んだままその場に倒れ込んだ。
「ミスター・ダルトン!?」
セラピストの、それでも落ち着いた声がどんどん遠のく。
意識など戻るな、もう二度と。
聞き入れられるはずのない虚しい願いを、それでもケイはひたすら思い続けた。
「…セラピーなんぞ、もう行かねえ…」
ハミルトンの屋敷でいささか行儀悪く天井を向くのは、もちろんケイだった。
くわえタバコに缶ビール。もう何本目が開いたことやら。
昼間なら大丈夫かと、それでも裏口からそっと屋敷に入ってきた耀司は、あまりの惨状にため息をついた。
「どうでもいいけど、掃除すんのはおまえだぜ?どうすんだ?これだけ当たり散らして」
クッションはあちこちに投げつけられ、壁に掛かった数枚の絵画は歪んでいる。破損していないだけマシと言うべきか。
「おまえなあ、あのドクターは正真正銘ロンドン一だ。普通だったら年単位で空きなどない。予約をねじ込むのに俺がどんだけ苦労したと思ってんだよ!?」
うるせえ!!耀司の方を向きもせずにケイが怒鳴る。
このまま治療を中断する方が危険です、というドクターの言葉を無視するかのように、あのあと黙って出てきてしまった。
受付で無理やり渡された紙には、勝手に入れられた次回の予約表。よほどその場で破り捨てようかと思ったが、受付嬢の痛々しい表情に思いとどまる。
「あとワン・セッションだけお付き合い願いたい。最初に申し上げたように、私にはあなたの過去は見えない。お話くださったこと以外は知ることもないですし、知る必要もありません。治療には影響ありません。しかし…これではあなたの心は酷く傷ついたままだ」
ようやくケイに追いついたベテランセラピストは、低くゆっくりとした声でケイを己を落ち着かせようとした。
「僕が傷つこうとどうなろうと、かまいません。あの叫び声だけを何とかしていただきたい。最初にそうお願いしたはずですが」
怒りを抑えてケイが言う。怒る相手が違うことなど先刻承知の上だ。
「記憶を…というよりもあなたを縛る行動原理そのものを少し書き換える。その作業を行うのです。それにはもう少々時間が必要だ」
「書き換える?」
どうも心理学の言葉はよくわからない。それがこのセラピスト独自の用語なのかさえも、ケイには判断できなかった。
「あなたは何か強い心理的抑圧によって、その行動をひどく制限されている。抑圧自体を急激に取り去ることには、私は反対です。理由があるからこそ症状は現れている。だから何かを一気に消そうとすれば、それはどこかにまた別の歪みを生じさせることになる。ですから私は…」
「もう一度、ここに来ればよろしいのですね」
ケイは大きく息を吸った。これではどちらが治療を受ける側かわからない。どうか治してくれと頭を下げたのはケイの方だというのに。
それでも穏和なセラピストは、ようやくホッとした表情を浮かべて微笑んだ。
「それで、治りそうなのかい?夜中の遠吠えは」
勝手にタバコを取り上げて、耀司は火をつけた。さあな、とつぶやくケイの暗い瞳に痛々しげな視線を向ける。
「その代わり、イヤなもんまで思い出しちまった。悪夢を裏付ける過去の記憶。物的証拠なんざ何もない。己を信じるか、それとも…忘れるか」
できもしないくせに。ケイの心に苦いものが溜まる。自分の名も母の名も、顔かたちでさえも覚えていなかった。なのに、突き放された寂しさだけは覚えている。痛みと悲しみと…耐え難い恐怖と。
「こっちはこっちで、あんまりありがたくない手みやげだ。ほれ」
耀司が一枚の写真を放り投げる。空中で器用に受け取ったケイが、大して興味もない顔でそれを眺める。
「誰だ?このハゲじじいは」
「アーネスト・シャーウッド。バーの経営者だ、表向きはな。そんなに歳でもないぜ?何せあのダリル・カークランド警部殿のご学友だからな」
くわえタバコで耀司が何気なく口にする言葉を聞いたケイは、居住まいを正した。
「おい待てよ、耀司。この格好はどう見たって…」
「バーはバーでもゲイ専門。それも麻薬から闇の賭け事まで何でもありのたいそういかがわしい店だ。もっともそれでさえ、まだまだ外向けの顔だがな」
勿体ぶる気か?ケイの瞳が細く歪み始める。
「焦るなよ、俺だって腹に据えかねてんだ。こいつはカークランド専属と言っていいほどの情報屋。裏ではたいそう有名なヤツだ」
おまえが知らない有名人か?辛辣な皮肉をこめるが、耀司はフンと鼻を鳴らして受け流した。
「管轄が違う、ってやつだよ。おまえはあくまでも美術品専門の窃盗犯。俺は大貴族様のお屋敷の情報を探ればいい。ましてや裏の話で飯を食ってる訳でも何でもない。だがシャーウッドは違う。手広く危ない情報を扱う筋金入りの闇ブローカーだ。あの野郎…サイラス伯爵にまで接触していたぜ?」
「!?」
ケイが息を飲む。彼の名前すら思い出さなくなって久しいというのに。一体何のために。
「なあ、ケイ。警部を狙うくらいならいっそ…」
不意に言葉を切ると、耀司は窓の外に視線を移した。
ケイは言わずとも伝わる彼の本意に、両手を堅く組み合わせた。
(つづく)
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