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#39

#39



清潔そうな柔らかなベージュで統一された室内は、空調の音がわずかに響いていた。

ゆったりとした革張りの椅子。そこにケイは腰を下ろした。


「初めまして、ミスター・ダルトン」


にこやかに微笑むのは、初老と言っていい年代のセラピスト。口ひげと優しげな瞳が安心感を与えるのは計算済み、か。

おれは相変わらず、イヤな先入観でものを見る。ケイは口元をゆがめた。


「よろしくお願いいたします。ドクター」


受付でたっぷりと時間を取って書かされた書類には、架空の氏名と適当な住所。プロフィールもいい加減だ。

もっともそんな客は多いのだろう。先に支払いを済ませておいたから、何も疑われることなくケイはセラピー・ルームへと案内された。




「連日続く悪夢と、それに伴う不快な症状。その緩和が主訴ということでよろしいのでしょうか」


何ものにも動じないという穏やかな態度。これがセラピストという人種か。

ケイは深くうなずいた。


「別に過去の記憶を取り戻したいわけではありません。なぜ悪夢を見るのか、その原因もどうだっていい。何もこれから先、一切症状が出なくして欲しいとも思わない。僕としては当面の間、夜中に叫んで飛び起きることがないようにしていただきたいのです」


そう、当面の間でいい。その先の未来などおれには用意されてはいないのだから。


悪夢の内容はいつも同じものですか。いつ頃から続いていますか。ゆっくりと質問を続けるセラピストは、どんなイヤな夢を見るのかさえ訊くことはなかった。


ただ「夢を見ないときはあるのか」と訊いたときだけ、彼はケイの反応に眉をひそめた。おそらくは無意識に、気づかれぬ程度に。


「あります。それはいつも…己の攻撃性が表に出された日に限って」


「攻撃性…とは?」


ケイは一瞬ためらったが、治療のために必要なのだろうと腹をくくった。一言一言はっきりと言葉を続ける。


「軍にいたことがあります。人を殺傷したその夜は…ぐっすり眠れた」


動揺を悟られまいとする彼の微笑み。気づいてしまう自分がイヤだ、とケイの方が心を重くする。




「わかりました。やはり退行催眠の手法を使いましょう。ヒプノセラピーと呼ばれるものの一分野です」


軽い催眠状態の中で、過去を遡るのだという。ケイの瞳に警戒心が生まれる。


「始めにご説明しておきます。ヒプノセラピーはマジックショーでも魔法でもありません。これを行えばすべて解決するものでもないですし、何者かに操られるということもない。催眠状態でもあなたの意識ははっきりしています。嫌ならすぐにでも止めることができます。その間の記憶は失われず、あなたはきちんとした意志を持ち続けることが可能です」


わかったという軽いうなずき。ケイの表情を見てセラピストは続ける。


「あなたはすべてを話す必要はない。私はあなたの心の中は見えませんし、無理に訊き出すこともしません。嫌なことは話す必要がないのです。思い出したくないことも思い出しても伝えたくないことも、あなたは私に言わなくていい。ご安心ください。もちろんこの中での会話は全くどこにも漏洩することはありません。私どもには守秘義務があり、一刻も争うような生命の危険を感じたとき以外、他に話すことはしません。たとえそれが…」


一気に言葉をつないだ彼は、そこで初めてためらった。


ケイのオッドアイが、わずかに歪む。


「それが触法行為に当たるとしても、です」


は…ん。今さらそれがどうだというのだ。ケイは心の中で己を罵った。





軽く目をつぶり、セラピストの低く柔らかい声を聞く。彼は言葉でケイの身体の緊張をほぐしていった。

人は「全身の力を抜け」と言われてすぐにできるものではない。具体的にどこに意識を持っていくか、そのためにはどんな動作をしたらいいのか。手法は確立され、安全に催眠状態に入ってゆける。



…確かに意識はあるのだな…



身体は眠っているのに、頭だけが起きているような不思議な感覚。いつもならすぐさま亡霊が飛びつきそうな格好のシチュエーション。


しかし今現在、ケイの脳内スクリーンに例の映像が浮かぶことはなかった。


ゆっくりと時間を掛け、意識が過去へと戻ってゆく。目に映るさまざまな記憶の残骸。

ひでえもんだな。胸の内に苦いものが通り過ぎる。




「あなたは今、どこにいますか」


不意の問いかけに、ケイの意識が一瞬戸惑う。おれは…どこにいるのだろう。


目に映る光景は、見たこともないもの。

白い壁の古いけれども手入れの良くされた一軒家に、わずかばかりの芝生の庭。

何人もの人がいるけれども、顔も名前の記憶もぼんやりと霞がかかっている。


「…庭にいます。大きな子どもが本を片手に、僕をにらんでいる。あれは…」


言いたくないことは言わずとも良い。先ほどのセラピストの声が思い起こされる。

しかしケイは、自然と口に出していた。


「僕の兄です。兄は泣き続ける僕がうるさいと、勉強の妨げになると…」


ああそうだ。僕には兄がいた。どうして今まで忘れていたのだろうか。冷ややかな目でいつも僕をにらむ、決して仲の良かったとは言えぬ兄弟。

なぜ兄は外などで勉強していたのだろう。うるさいのなら自室にこもればいいものを。


ケイの意識は知らぬまま、自分自身をも引き連れて過去へと遡っていった。









「いい加減にしろ!おまえの声がうるさくて、ちっとも勉強がはかどらない!!これ以上泣くのなら」


僕に向かって兄はそこらに落ちていた木の棒を振りかざした。いつもそうだ。兄様は僕を憎んでいる。なぜだかは知らないけれど、僕に笑いかけてくれたことなんかない。


殴られ蹴られ、邪険にされ…。今だって木で殴ろうとしている。

その痛さを思い出して、僕はいっそう大声で泣いた。


家からお母様が飛び出してくる。腕にはしっかりと妹を抱いて。妹?僕には妹が…。


ああそうだった。こんな大事なことまで忘れていたんだ。


生まれたばかりの可愛い妹。可愛いけれど、一日中泣きわめき、お母様は妹の世話にかかりっきりだ。


どうして顔も名前も思い出せないのだろう。ぼんやりと紗のカーテンの向こう側にいるかのように…曖昧な、それでいてとても生々しい記憶。


「お願い。その子を、○○を静かにさせてくださらない?お父様がおうちにいらっしゃる間は騒がないでとあれほど言ってあったでしょう?」


僕の名前にだけ、誰かが塗りつぶしたかのように記憶が失われている。違う、僕の名前だけじゃない。



…おれ個人を特定できる情報だけが、きれいさっぱり欠落しているって訳、か…



現在のケイが冷静に過去を見つめる。まるで映画を見ているかのように過去は映し出されてゆく。


セラピストは、殆ど余分な問いかけはしない。思考は勝手に過去を駆けめぐり、ケイはその情景を追体験という名で初めて味わう。


確かにあったこと、それだけはわかる。


あたかもタイムスリップしたかのように、ケイは過去へと放り込まれた。








「お父様の研究は進んでいるの?」


兄が無邪気な子どもの声で母に問いかける。先ほどまでの声色とは全く違う。僕はそのことにすら怯えた。


「お仕事がお忙しいのよ。だから邪魔になるようなことはしないで。この娘の泣き声も気に障ることでしょうから。ですからあなたは○○の面倒をお願いね。くれぐれも大きな声を出させないで」


母はいつも何かに追い立てられるかのようにしていた。それはおそらく、気難しい父を気遣ってのことだろう。






研究ということは、父は研究者なのか。ああだから、あの日のヤツらは。

思考がそこでいったん途絶える。これ以上の連鎖反応は危険だ。一気にあの亡霊たちに結びつけるな。

ケイの潜在意識は勝手に自動修正を始めた。






「私はこの娘を寝かしつけてくるから」


母のせわしない言葉。背中を寂しく見送る僕。本当は今すぐにでも飛びついていって、僕だって妹みたいに抱きしめられたい。だけど、もうそんなふうに甘えちゃいけないんだろうな。


いつまでも赤ん坊みたいだから、僕は兄様に嫌われるんだ。


もう目には涙がにじんでいた。どんなに我慢しようと思っても、寂しくて寂しくて大声を上げて泣いてしまいたかった。


でも、気配を感じて振り向いた僕は、兄様の形相を見て震え上がった。

手には長いタオル。そして細いひも。笑っているように見えるけれど、これは弟と楽しく遊べるからじゃない。明らかに獲物を捕らえた残虐な野生動物の瞳。


不意に口をタオルでしばられる。兄様の動きは素早くて、僕は何も抵抗できない。


「うぐ、うう…」


「静かにさせろとお母様は言ったんだ。おまえは放っておくとすぐ泣き出すからな。これでいくら泣こうが、声は聞こえないさ」


僕がタオルを自分で解かないようにだろう。両手も先ほどのひもで結わえられる。

あまりの苦しさに唯一自由になる足をバタバタさせていると、兄様は頬をひっぱたいた。


顔もわからないのに、兄様がお父様とよく似ていることだけはわかった。同じようなブラウンの髪に冷たい目。僕は違う。僕だけが…オッド・アイ。


忙しくてなのか、それとももともと関心もないのか。お父様は僕らと一緒に過ごすことがほとんどなかった。それでも時折、僕の瞳をじっとのぞき込むと不思議そうな表情をするのだ。


「奇跡的な確率なのだろうな。これほどはっきりとしたeterochromia iridisは」


何度も同じことを言われた。見慣れているはずだろうに、そんなに珍しいんだろうか。


そのお父様は今、書斎にこもっている。朝から会社に出ることもあれば、夜中に急に車で出掛けることもある。決まった出勤時刻も帰宅時刻もないから、よけいお母様としては気を遣い続けるのだろう。


ほんのちょっとの物音を嫌い、うるさいと叫ぶ。

それは本当に、目の前の兄様とよく似ていた。僕はもう、怖くて何もできない。


縛られたままうずくまる僕の横で、平然と兄様は難しい本を読んでいた。





『この子は賢いから早く上級学校に入れるつもりなの。父親に似たのね』


お母様が誰かに嬉しそうに話していたことまで思い出される。






…どれほど過去を遡ろうとも、ろくなもんじゃねえな…



ケイは自嘲気味に、心の中だけでつぶやいた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009  keikitagawa All Rights Reserved

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