#38
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「ご婚約おめでとうございます」
すれ違いざまにそう言われて、ケイはあからさまに不快感を露わにした。それでも表情はできるだけ和らげ、棘を見せぬよう。
セリフの主は、ダリル・カークランド警部。ケイの神経が危険信号を鳴らし続けている。
「何か思い違いをされているのではないですか?どなたかご結婚されるのでしょうか」
青木邸の玄関先で、二人は立ち止まった。警備の者は警察ではなく青木自身が雇い入れたセキュリティ・ガードたち。
そこにヤードがいることの方が不自然だ。それも複数で行動するのが当然のはずの警察官がなぜ。
「これは失礼。我々は警備上かなり個人的な情報をも知らせていただくことになっておりまして」
ふう、とわざとらしくため息をついてみせると、ケイは苦笑した。
「まだ正式に決まったわけではありません。言わずもがなですがどうか口外は…。まあ青木家の警備という点では、僕のような手間を掛ける人間が増えるとご迷惑でしょうがね」
ケイはわざとこの間の襲撃を話題に出した。守るつもりでいたのに一撃でのされ、目撃証言の一つも提供できなかったのだから。
カークランドは無表情でその言葉を受け流した。その代わりに鋭い視線をケイに向ける。
「ご自身は内心複雑ではないのですか、青木の娘と。本当に青木善治郎を父と呼べるのですか」
「僕はAOKIに対して、何の感情も抱いていないと申し上げたはずですが…」
弛緩しきった無防備な態度。ケイのかぶった仮面がどれだけ警部に通用するか。カークランドの目は変わらずにケイを見据えている。
「少々お時間をいただけませんでしょうか。お伺いしたいことがあります」
「僕にはあなたと話す必要を何も感じていません。カークランド警部殿。それでは失礼」
丁寧に言葉を返し、ケイは屋敷に向かう。その背中に追い打ちを掛けるような警部の言葉。
「私を避けているということは、何らかのやましさを感じていると思って構わないと」
ゆっくり振り返ったケイは、何も邪気のない笑顔で受け答えた。
「誘導尋問ですね。映画ではよく見るけれど、本物のヤードの迫力には叶わない。申し訳ありませんがその手には乗りませんよ。やましさもない代わりに、話す義理もない。ただそれだけです」
カークランドの顔がわずかに歪む。一筋縄ではゆかぬ男。それはお互いが抱く思いだろう。
「それでは一つだけ。ミスター山下はこの屋敷へは出入りされるのですか?」
「さあ、僕には。本人にお訊きください。彼は僕の友人ですが、クリスとは知人でしかない。必要があれば来るでしょうが、彼の専門は風景フォトであいにくブライダルフォトではありませんからね」
快活にさえ聞こえる声で、ケイはそう返した。
警察は、というよりカークランドは耀司を疑っている。その根拠がわからない。下手に動くわけにも探りを入れるわけにも行かない。今はほんのちょっとのミスが命取りだ。
さりげなく距離を取り、動揺を見せぬようにケイはその場を離れようとした。
その瞬間、ほんのわずかの機械音。
ケイの右手は無意識に内ポケットに差し込まれた。振り返りざま銃を向ける動作だけは必死に抑え込む。
一瞬の静寂。ケイの背中に冷や汗が流れる。…気づかれた…か。
そっと警部の方に身体をひねり、彼は携帯電話を取りだした。
カークランドの手は、完全にスーツの下に隠されたホルダーにかかっていた。さっきの微かな機械音は、銃のセレクターレバーを外した際に出されたもの。試したのか、おれを。
「失礼。メールでした」
にっこり笑って一言。余分だったか。ぎりぎりの駆け引き。
「最近の携帯メール受信は音がしないのですか」
いけしゃあしゃあとカークランドが言葉をつなぐ。
マナーモードですら最低にしておかないと、僕の場合はいろいろと修羅場になることが多くてね。ケイの自虐的な苦笑い。
「どうか、クリスティアーナには内緒にしておいてください。彼女はああ見えて嫉妬深い」
「ご結婚前に身ぎれいにされておいた方が、あなた自身のためになると思われますが」
それは、警部の実体験からですか?勉強になります。憎まれ口を一つ叩いてケイは建物に入っていった。
冷たい視線は変わることなくケイの背中を見続けていたことを、十分感じつつ。
青木邸のキッチンではにぎやかな声が響いていた。主にはしゃぐのは母親であるオフィリア。しかし珍しく合間に聞こえるクリスの声。
「何を作ってらっしゃるんですか?とても良い匂いがするのだけれど」
すっかり穏和な子爵の顔を取り戻したケイが、二人に話しかける。
まだ見ないで!クリスのあわてた声にくすくす笑う。
「少しくらいは料理ができないと、この子が困るでしょう?今日は、簡単なランチくらいはごちそうできると思いますわ」
にっこりと笑顔を返すのはオフィリアの方だ。クリスはもう頬を染めている。
「なら僕は、こちらのポットを見ましょうか」
軽く言い添えると、ケイは髪をさっとまとめてコンロに掛けてあった鍋をのぞく。
近くに切りかけの材料が残っている。これは?目で訊いてから手早く調理する。
「何て手際が良くて。子爵様は料理もされるのですか?」
オフィリアが目を丸くする。ケイはバツが悪そうな顔で微笑む。
「子爵など必要ありませんよ。どうかケイと呼んでくださいませんか。それにうちは使用人の一人いるわけでもないから、食事の支度もすべて僕が行います」
何気ない言葉に、クリスはうつむく。どうしたの?それにのぞき込むように姿勢を低くする。
「…ケイは何でもできるのね。私は何一つできないというのに」
彼女のあごに手を添え、顔を上げさせる。そして愛おしそうに視線を向ける。
「大丈夫、君にみんな教えてあげるよ。クリスはセンスがいいからきっとすぐ覚える。二人で何もかも、一から作っていこう。ね?」
オフィリアがその場をそっと離れる。
「庭でハーブを取っているわね。それでは失礼して…ケイ、クリスをお願いしますわ」と。
ぎこちないクリスの手つきに、ケイは優しくリードしてゆく。
心の中で自分が放った言葉の偽善ぶりに、心底うんざりしながら。
…すべてが終わったら、おれはこの娘を殺すと契約しているのに…
吐き気と目眩と言いしれぬドロドロとした感情を、心の奥のさらに奥へとケイは押し込めようと努力し続けた。柔らかな仮面をかぶりつつ。
ハミルトンの屋敷は危険だ。そう感じたケイはにぎやかなパブへと耀司を呼び出した。頻繁に夜まで二人が一緒にいると思われては、何かを共謀していると勘ぐられかねない。
皆が大画面のフットボールに熱中している間、ケイと耀司はビールのグラスを高々と掲げた。
二人きりで内々の婚約を祝福しているかのように。
「耀司おまえ、カークランドの前で何ヘマしやがった!?」
押し殺した声でドスを利かせる。笑顔とは真逆なセリフに耀司はムッとした。
「ざけんな、俺は何もしてないね。言いがかりも甚だしい」
じゃあなぜ、警部がおまえを疑うんだよ!知らねえよ!小声の応酬は止まらない。
「…どこかで見られたか、かなりの裏情報に詳しいか」
「おまえも情報屋を自任してしてんなら、きっちり調べとけ!自分のミスは自分で何とかしろよな!?」
何だとこの野郎。あまりの怒りに耀司は口元だけでケイを罵り続ける。
「目障りなことは変わりない。あの警部…。いっそのこと」
ケイの物騒な言葉にあわてたのは耀司の方だった。
「おいおまえ、コロシもしなければ人を傷つけるのもイヤだったんだろう?何であの警部にはそんなに感情的なんだよ?」
あいつは警察官僚として有能なだけじゃなく、階級や見た目以上にかなり上層部に食い込んでいる。焦って下手に手出しするなよ?耀司の冷静な言葉に、なら尚更だと言い返す。
「…ケイ、おまえ…」
「完全にあいつに目をつけられている。これじゃ動きが取れない」
さらさらのプラチナブロンドに両手を突っ込み、頭をかきむしる。
しばらく二人は無言だった。周りの喧噪が彼らを守り続けている。
不意に顔を上げたケイは、唐突に切り出した。
「おい、腕のいいセラピストを探してくれ」
そのセリフに、耀司は息を飲んだ。いつものように戯れ言を返そうとしたが、その努力も空しく何も言葉が出てこない。ケイの名だけをつぶやく。
「勘違いするなよ?おれは何も過去をすべて思い出してやろうなんざ、これっぽっちも思ってない」
「じゃ、じゃあなぜ今頃!」
耀司がようやく口を開く。今まであれほど頑なに、セラピーもカウンセリングも避けてきたというのに。
「これからの作戦に支障をきたすからな。せめて夜中に叫び出すことだけでもコントロールできれば…」
「クリスティアーナを落とす気か?深入りすれば情が移る。おまえにとってもいいことはないぜ?」
ぶん殴るぞ!そんなんじゃねえ!吐き捨てる言葉は昔なじみの下町訛り。
「深窓のご令嬢に手なんか出せるか。そうじゃなくて、情報を集めるには夜に動くしかない。おまえが疑われている以上、実働部隊はおれ…だろ?何とかして泊まり込む機会を作る。どうせ善治郎は帰らない。証拠を見つけるとしたらそのときだ。徹夜で起きていられればいいが、うっかりあの亡霊につかまりでもしたら」
ケイは自身の言葉にぞくりとした。作戦自体にではなく、善治郎の屋敷で亡霊に会うという想像をしただけで空恐ろしいという事実に。
「まあ、何であれセラピーは賛成だな。ロンドン一の腕っこきを見つけてくるさ」
グラスを振って店員に代わりを要求すると、耀司はにやりと笑った。
反対に、ケイはこれからたどる自分の過去を思いやると、憂鬱な雲に覆われるのを避けることができずにいた。
(つづく)
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