#36
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報告書に目を通し終えたカークランドは、気づかれぬように小さくため息をついた。もちろんアニーが作成したそのファイルには、事実関係しか書かれてはいない。いくら優秀な情報屋だとて、パブリックスクール時代に起きた事件しか掴みようがないだろう。
犯罪者の過去および生育歴など、どれだけ悲惨なものだとしても起こした罪には変わりないと、カークランドは今まで当たり前のように切り捨ててきた。
実際何の感情も持たぬ訳ではない。しかし、それ以上に被害者の苦痛や恐怖、悔しさを思えば、何のためらいもなく犯人を裁くのが当然だと思っていた。
しかし…。
「つまり、こういうことか。ハミルトン卿には出生に関わる疑問がついてまわる。彼はおそらく下町出身である。それがあの幼少時に巻き込まれた事件に関連するかは、今の時点では判断しかねる。そして、現在の風貌や評判に相反するほどの激しい残虐さをも併せ持つ一面と、たぐいまれなる明晰さ。さらに…」
「オッド・アイと、無理に開けられた右耳のピアス跡」
すっきりとしたあごに手を当てて、アニーは妖しく微笑んだ。それは己の調査能力を誇示するというよりも、もっと複雑な感情を含んでいた。
「なぜおまえがここまで詳細にことを掴めだのだ」
あくまでも事務的にカークランドが疑問を呈する。こいつが使えることははなから知っている。だから厭々ながらこうして危ない付き合いを続けているのだから。それにしても微に入り細に入り、これほどまでに調べ上げてくるとは。
「そんなの決まってるじゃない。当事者に訊いたのよ」
珍しく困惑気味な表情を浮かべたカークランドに、アニーは薄笑いを浮かべた。
サイラス・ラングレー伯爵様にね。警部の目が見開かれる。
「北ウェールズにね、広大な領土を持つ大地主だったわ。スクール時代の同期生たちにも話は聞いて裏は取ってあるから、話にはかなり主観が混じってたとしても信憑性は高い。それを思うと領主なんてあんな子に務まるのかしらん」
さあな。カークランドには興味もない話だ。しかし、サイラスにまともに接触するとは。
「懺悔でもしたかったんじゃない?スクールの教師たちにはもちろん堅く口止めされてだだろうし、彼はあの事件の直後、学校を辞めて田舎のもっと緩やかなパブリに入り直しているから。自分の実力以上に名を取ったあげく、己の存在がハミルトンを追い詰めたと罪の意識にさいなまれていたみたいよ」
おれにはわからんな。ありありと苦い顔で警部は目の前のコーヒーを口に含んだ。
あんたには一生わからないでしょうけど、聞こえるかどうかの声でつぶやくのはアニー。サイラスに誰を重ねているというのだろうか。
どうでもいい付け足しだけどねとアニーは言葉を続けた。
「もちろん、現在のハミルトン卿には両耳にピアスがついているわ。品のいい小さなプラチナ。まあいないわけではないけれど、子爵様がつける装飾品としては珍しいわね。今なら簡単な形成手術で傷跡などすぐにふさげるだろうに」
よほどそのときの恨みが本人にあるとしたら、残したかったと言うのか。ハミルトンが憎んでいる連中とは、そのまま逆に言えばハミルトンへの遺恨が残っている危険人物ともとれる。
その寮長とやらの追跡調査を…。口を開きかけたカークランドに濡れた視線を向けるのはもちろんアニーだった。
「あたしがその辺を手抜きすると思う?彼らは何ごともなく進学し、今では親が経営に関わっている大企業の役員に収まっているわ。これがそのリスト」
さすがだな。この言葉はカークランドの胸の内にしまっておく。これ以上甘いことを言ってこいつを助長させても面倒になるだけだ。
ざっと目を通すが、どれも聞き慣れた立派な企業ばかり。貴族といえど働かなければ食ってはいけない。それがこの国の現状だ。義務はあるが特権はない。しかしある程度の地位は保証されている。大学出たての青年が、これだけの役職にすんなりつけるということがその証明になるだろう。
せっかくの地位を棒に振ってまで、思い出したくもないスクール時代の己らの罪を掘り起こす冒険を犯すだろうか。
考え込んでしまったカークランドを見つめていたアニーは、静かに言った。
「あんたの思ってること、はっきりさせましょうか。あんたは一つの仮説を立てている。それを証明する材料を必死に探している。いえ、もしかしたらそれを否定したいが為に集めているのかも知れない。それほど…荒唐無稽なものだから」
警部の視線が鋭くなる。ゆっくりと目が細められ、冷ややかで獲物を追い詰める表情へと変わる。
「ケイ・ハミルトンこそ、ただの美術窃盗犯とも思えぬ謎の犯罪者『ブラック』である、と」
アニーの妖艶な笑み。それを、馬鹿な、と一笑に付す。お互いの本音を隠したままの会話。
「まあ、真っ向から認めたくないのもわかるわ。でもあたしが今回調べた内容には、仮説を否定できうるだけの何ものもない。どうするの?こんなとんでもない命題が証明されちゃった日には」
面白いことになりそうだとアニーの表情が物語っている。反対にカークランドは苦虫を噛み潰したように押し黙る。
子爵だからと手出しできないわけではない。本当に犯罪が行われているのなら遠慮などする警部ではない。しかし、珍しく彼の胸中を占めているのは…その動機だ。
何が目的だ。それがどうしても掴めない。
「要点を整理しましょうよ。あんたが持っている疑問とこれから調べるべきことを。第一に現在のケイ・ハミルトンは本物であるかどうか。もしニセモノだとして、なぜそのようなことになったのか。そしてあんたの仮説が証明されたとして、せっかく手に入れたその称号を手放すような危険な真似をするのか。狙っているのは金か、それとも…」
ふいに言葉を切ったアニーは、カークランドの顔をのぞき込んだ。自分の考えにこもっていた警部が思わず身を引く。
「そこにどうして叩けばほこりが出まくる自動車メーカーのAOKIが絡んでくるのか、でしょう?」
話しかけられた彼は気づいていなかった。いつの間にかアニーが座っていた椅子から立ち上がり、カークランドの背後にいたことを。
肩に手を置き、一緒に資料をのぞき込む。その仕草があまりに自然で、そばにいる時間が増えたせいか警戒センサーが働かなかったことさえも。
深い思考に沈み込んでいたカークランドの顔のすぐ横にアニーは頬を寄せた。気配を感じた彼が軽く振り向こうとしたところをすかさず両手でそっと包み込み、唇のわきにライトに口づけた。職場で本格的にキスしようものなら、その場で銃殺は免れないだろう。そこまでの勇気はさすがのアニーにもなかった。
…でも、仕事中の男のなんて素敵なこと。
惚れ直しちゃう。この言葉も必死に自制した。あとのことは後で。捨て身の愛情表現に固まりきったのはダリルだった。
書類が床にばさりと落ちる。ようやく己の置かれた状況に気づいたらしい。
声も上げられず硬直するダリル・アンドリュー・カークランド警部を、急な上層部からの伝言とともに様子をうかがいに来た部下たちは、開け放した部屋のドアからしっかり目撃してしまった。
ノックも言葉も何度も掛けた。内線も携帯も鳴らした。それでも何の返答もないことに部下たちも不安が募ったのだ。
「…け、警部」
引きまくる部下たちに軽くウインクを返し、アニーはさわやかに微笑んだ。もちろんカークランドの肩にべったりともたれかかったまま。
警部はあまりのショックに、ひきつった笑顔を返すしかなかった。
ふだん滅多にというか全く笑わないカークランド警部のその表情に、嵐の予感を感じた部下たちは背筋を凍らせた。
(つづく)
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