#34
暴力表現および小児性愛性的嗜好等の描写が含まれています。
閲覧の際にはご注意ください。
#34
フラッシュバック。
文字通り、一瞬の映像が脳内をスパークしてゆく。あまりの短さに認知が追いつかない。
ケイはあえぐばかりで何も言えずにいた。
何が起こっているのかさえ、全く把握できない。そんなことを考える余裕すらない。
ここがどこで、誰が何を言っているのか。現実に目の前に何があるのか。
ケイの網膜に映るのは記憶の断片だけ。
しかし、それは次第にほんのわずかずつ像を結び始めた。
彼の心に沈殿し、蓄積されていった忌まわしくもおぞましい記憶のひとかけらが…。
天蓋付きのベッド。暖かく清潔な寝具と快適な空調。
ぼくはその辺の道ばたに転がっていたんじゃなかったっけ。食べるものもなく、空腹を水でごまかして、すっかり涙さえ乾ききり。
起き上がる気力もなく、このまま朽ち果ててゆくだけだと、幼い心でぼんやりと思っていたはずだったのに。
『こんな上物、なかなか見つかるもんじゃないねえ。ご覧よ、この目を』
『高く売れそうかい?』
『バカをお言いでないよ。誰が手放すものか。うちの店でしこたま稼いでもらわなきゃ』
遠くから聞こえるだみ声。あれはどこのどいつだったのか。朦朧としたうつろな記憶。
場面が変わる。
荒い息遣い。身体が重い。本能的な嫌悪感を必死に耐えつつ、時が過ぎるのを待つ。
ケイは焦点の合わぬ瞳を空に漂わせるばかり。
ほら、記憶はバラバラにされ、何の脈絡もなく目の前に突きつけられる。
わからない。おれには何が何だかちっともわからない!!
今いる自分が、いったい何歳なのか。現実はどこなのか。混乱は続く。
ここは礼拝堂。それとも暖かなベッド。いや違う。今は…。
いやだ!!怖い怖い!!ぼくに触るな!!そんなざらついた汚らしい手でぼくにふれるな!!
押さえつけられ、泣き叫ぼうがわめこうが、どんなに抵抗しようが抗うことは許されない。
身体の芯を、激痛が貫く。助けて!!パパ!!ママ!
まとわりつく粘性の生命体は何だ。べとつく手でぼくをなで回すな!!
海に還りたい。深い海の底に沈みたい。ここはまるで底なしの沼。絡みつくのは腐りきった藻。
切り取られた絵は次々と変わる。
ケイは知らず叫び声を上げていた。少年たちが押さえつける。幾本もの腕が伸びてくる。
止めろ!!止めてくれ!!
過去と今と、すべてが混沌の中にいる。身体の震えが治まらない。
『なんだよ、あのジジイ。こっちがガキだと思ってこき使いやがって』
声変わりが始まる頃の独特なハスキーさ。ああ、まだ若い男だ。時間がかからずに済む。ドア越しに聞く声に安堵する。
ケイは薄物にくるまってまどろんでいる。幼い子ども。
ああそうか、これは昔の記憶だ。ようやく思い至る。
おれは記憶の残滓を拾い集めて、見せつけられているのか。
気づけばいつも耀司と一緒だった。こいつといれば安心できる。つかの間、眠ることもできる。
いつ出会ったのか。考えたことも考えようとしたことさえなかった。
陽気で頼もしい、カメラを手放さない一風変わったパートナー。そしておれは、薄汚い下町に君臨する野生のオオカミ。それでいいじゃないか。
ケイの中にいる誰かが、さかのぼる記憶を必死に止めにかかる。そこらで止めておけ!思いだしていいことなど何もない。だからおまえは今まで誰に勧められようとも、セラピー一つ受けたことがなかったのだろう?
必要ないからだ。
強がるケイの欠片はそう言って無理にでも笑い飛ばそうとする。別の誰かが冷ややかに見つめる。
記憶を遡るのが怖いだけだろう?現実を認めたくないが為に、強い自分を作り上げてきたのだろうに。見せかけで張りぼての、な。
耀司の声を初めて聞いたのは、ああそうだ、あの店だ。
ぼろぼろで弱々しい野良猫が売られて行く先など、相場が決まっている。
抵抗する術もない彼が連れてゆかれたのは、ペドフィリア(幼児・小児性愛・性的嗜好者)の集まる斡旋所だった。
すすけてはいても、聡明で美しい顔立ちと神秘的なオッド・アイは隠しようがない。
幼いケイ、もっともその頃は名前すらなかった。何と呼ばれていたのだっけ。そうだ、ブラック。プラチナブロンドと抜けるように白い肌、相反する不釣り合いな黒い瞳に、いつしか誰もがその子をブラックと呼んだ。
『何でこのいたいけな少年のおれ様が、よりによって何で商売女のおねーちゃんを撮らなきゃなんねえの?なあにが、ポートレートの練習だ、よ。おれの取り分はなし、ジジイが全部ピンハネか。ふざけてやがる』
廊下のぼやき声が丸聞こえだ。客…じゃないのか。そうだよね、いくら何でも若すぎる。
ドアを開けて入ってきたのは、ぼくより少しだけ年上の少年。不釣り合いなほど立派なカメラ。
客が好みの子を選ぶカタログを撮るって言ってたっけ。ぼくをここへ連れてきた魔女のようなおばさんは。
魔女のような…じゃない。あれは正真正銘の魔女だ。
部屋の入り口で、少年は僕を見て固まっている。どうしたの?笑ってみせる。彼の表情は変わらない。
ぐらっと視界が揺れる。また記憶が飛ぶ。ケイの意識が混濁してゆく。
『おまえはそれでいいのか!?こんなとこにいていいと思ってんのか!?』
怒鳴る耀司の声。どうしてそんなに憤っているのだろう。ぼくはここにいれば、最低限生きていることはできるのに。
感覚がすっかり麻痺していた。この部屋の向こう側もよくは知らない。タバコと麻薬と強い酒。行為にふける大人どもを冷酷に見下ろす別の自分。
耀司は外の世界の風を、一気にぼくへと吹き込んだ。途端にぼくの中に戻ってくる感情と恐怖。
怖い、怖い、怖い!!
『助けて…くれる…の?』
『ばーか。自分の身はな、自分で守るしかねえんだよ!!ほれ!』
耀司が手渡した一本の、ナイフ。しっかりと握りしめる。
ここを出る。逃げ出す。ぼくを縛るものすべてから。
「うわああああ」
過去の記憶と今の記憶がないまぜになって、気づくとケイはふたたび叫び声を上げていた。
それはどこでのことなのか。斡旋所の中か、それとも礼拝堂の中か。あるいはもっと昔に閉じこめていた記憶の中の、血みどろの亡霊にか。
追いかけてくる。たくさんのものが。ぼく一人を大勢のひとがたをした欲望どもが。
自分の身は自分で守るしかない。ぼくに力を。歯向かうだけの牙を!!
『お待ち!!どこへ行く気だい!?足抜けしようったって逃がしゃしないよ!!』
力強く引っ張って逃がそうとしてくれる耀司の手を振りほどき、ぼくは…いやおれは魔女を刺した。
ああそうさ。この手で、この自分自身の手で。
返り血を浴びる。赤い記憶。ぎゃあという断末魔の悲鳴。生死など確かめる術もない。
走れ走れ!!ここから逃げ出すんだ!!
祭壇にくくりつけられたケイの身体は、過去の記憶に苛まれて震えるどころか止まることのない酷い痙攣を起こしていた。
「ソドムの罪を共有するものへ、その証を」
ウィリアムが厳かに宣言する。ソドム…ああそうだな、聖書に対する現代風の解釈で言ってもおれはマイノリティには違いない。招かれざる客人、どこへ行っても。
ケイはうつろな瞳を天井に向けた。美しい二つの宝石は今は何も映し出さない。過去と現在の彼の意識が分けられぬほど混ざり合い、ただ荒い息をくり返すのみ。
端にいた黒装束の小さな似非呪術師は、きらりと反射する何かをウィリーに手渡した。
決して細くはない、鋭くとがった大きな針。ケイを取り囲む少年たちは、彼の身体をしっかりと押さえつけた。
止めろ!!おれに触るな!!
ケイは声も出せずにガタガタと歯を鳴らす。それは恐怖のためではなく、記憶の混乱のさなかにいるから。自分が何者で、どういう名を持ち、誰に愛されたか、何一つ確かなものがないから。
ウィリーはそんな彼の顔をぐいと横に曲げさせると、右の耳朶を左手で固定した。
やわらかなそれにウィリアムは針を押し当てると、一気に皮膚を肉を貫いた。
「くっ…」
ケイの顔が歪む。一度だけうめき声を上げる。生ぬるい血のあふれ出す感触。焼けるような痛み。それでもウィリアムは手を止めることなく、何度も針を抜き差しする。
そのたびに感じる激痛に、それでもケイは歯を食いしばって耐えた。彼の中の過去が抵抗する気力さえも奪っていた。
満足げにウィリーは針を抜くと、最後にカチリと小さな輪をはめ込んだ。
「君の嗜好が一目でわかるように、右耳にこうやってピアスを…」
その音に、だがケイの身体はびくっと反応した。一気に意識が元へと戻される。
半分取れかかっていた右手の縛めを力任せにぶち切る。思わず右耳へと手を当てる。
それは酷く痺れ、脈動に合わせて疼いた。真っ赤に染まるケイの右手。
彼の頭の中で、何かがはじけた。
そのまま左手の革紐もむしり取ると、彼は祭壇から立ち上がった。足の紐などとうの昔に切れている。
手をついて素早く台から飛び降りると、一番近くにいたヤツの頬めがけてストレートを決めた。骨の砕ける鈍い音。音もなく崩れ落ちる。
一瞬で周りを見定める。敵は七人。もう既に一人は戦闘不能。ヤツらはケイのあまりの変化に浮き足立っている。
いつぞやケイに蹴りを入れてくれたガタイのいい男が、それでも自らの役目だと思っているのか殴りかかってきた。
お返しにと、ケイは脚を伸ばして腹に一発蹴り込む。呻くそいつに容赦なく足払いをかけ、頭を押さえ込んで膝で顔面にもう一度。ケイの制服のスラックスが血まみれになる。
振り向く彼のぎらついた目に、他の連中はすぐさま逃げだそうとした。軽く床をけり、逃がすものかと肩を掴む。そのまま襟足を掴んで引きずり倒すと、丸めた背中に両のこぶしで殴りつける。
恐怖で突っ立ったままの二人の横っ面をはり倒す。這って逃げようとしたヤツの腕をねじり上げただけで簡単に悲鳴を上げる。まあ、骨だけで済めばいいがな。腱も切れていたら運が悪かったとあきらめてくれ。
ローディは姑息にも机の下に潜り込んでいた。かくれんぼは終わりだ。がたがたと怯える彼を小ネズミのように引っ張り上げて、首を締め上げる。ひいという悲鳴が聞こえる。この上なく冷酷にわざと睨みつけてやる。その美しきオッド・アイで。
「た、助けてくれ。僕じゃない!悪いのは、やったのは僕じゃない!!」
はん。そのままニヤリと笑ってみせる。さぞかし恐ろしい思いをしていることだろう。おまえが踏みつけようとしていた相手は、こんな人間なんだぜ。存分に思い知らせてやるよ。
「何でもする!父に頼めば何でもしてもらえるんだ!今夜のことだってなかったことに、これからも、ああだから、どうか助けてくれ!!」
小さい男だ。こんな小悪党が、将来この国を左右するリーダーとなってゆく人材とでも?笑わせるな。
正面から掴んで、胸と腹に蹴り込む。肋骨がきしむ。何本いったものやら。ローディはあっけなく床に沈んだ。
真っ青な顔で、呆然と立ちすくむはウィリアム・パークス。
表面上だけでも取り乱さないのはさすがと言うべきか。
ケイは、黙って取り落とされていたペーパーナイフを手にした。
「さあてと、あとはあんた一人だ。どうする?寮長さんよ」
多くの血を浴びて凄惨なケイの姿に、言葉を失うウィリー。もっともその血の一部は、ケイ自身のもの。ウィリアム自らがその手で傷つけ流した、罪の色。
「な、なぜだ!?なぜ僕らをこんな目に!!」
確かに六人のしもべたちは、酷く痛めつけられて床に転がされている。ケイただ一人によって。
神聖であってしかるべき礼拝堂は、血にまみれ、生臭いにおいで充満している。
だがケイは、ナイフを逆手に持ちかえると少しずつウィリーに近づいていった。
「おいおい、勘違いするなよ。最初に手を出したのはあんたたちの方だぜ?やられたらやり返す。それが生き物の正しいあり方だろう?運のいいことに、これまでの生け贄は黙ってあんたの言う通りにしてきたのだろうがな。それともいつもの手口でしこたまカナビスとやらを使ったのかい?おれたちよりも汚ねえんじゃねえの?ウィリアム・パークス様よ!」
「…こんなことをしでかして、ただで済むと思うのか」
か細く絞り出した声も震えている。先程までの威厳は消え、どこにでもいそうなただのか弱き少年に成り下がった優等生。
「おれに失うものは何もない。ただ、元に戻るだけだ。しかしあんたは違う。ここで行われていたことすべて、洗いざらい表沙汰にしてやってもいいんだぜ」
ケイが一歩前に出る。ウィリーは下がろうとして、礼拝堂の堅い机に行く手を阻まれた。青白い顔がさらに蒼白になってゆく。
優しさの仮面をかぶった偽善者。サディスティックに他の生徒をいたぶり、辱め、それでものうのうと甘い言葉ばかりを口にしてきた悪魔。
ケイの怒りは止められない。それがどこから来るものなのか、彼にもうまく説明はできなかった。
形勢は逆転し、ケイはウィリアムの胸ぐらをぐいと掴むと机に押しつけた。恐怖で目を見開き、何も言えずにいる彼にペーパーナイフを振りかざす。
「誰か!!殺される!!」
「おまえがやってきたことはこういうことなんだ。わかるか。生け贄にされてきた生徒の生命を危険にさらしただけじゃない。おまえは一番大切な、人の心を殺してきたんだ…」
もはやケイは大声すら出さなかった。静かに、淡々と。
振り上げた手を思い切り下ろす。ウィリアムはたまらずに目をぎゅっと閉じる。
ナイフはわざと顔すれすれのところをかすり、頬だけに薄く赤い筋を付けた。
恐怖に怯え、息を荒げる。じっと見すえるケイの燃える瞳。
「今度は外さない。おれは本気だぜ、寮長」
ためらいもなくケイはもう一度手を大きく上げた。押さえつけられているウィリアムが必死にもがく。
そのとき。
礼拝堂のドアが、バタンと開かれた。
「やめて!!もうやめてよ、ケイ!これ以上君が傷つくのを見たくない!!」
そこに立っていたのは、サイラスだった。
(つづく)
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