#32
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気付くとケイは清潔な部屋着を身につけて、柔らかなベッドに横たわっていた。外は明るく、他の部屋からのざわめきも聞こえる。枕元にはプレスされた制服。
彼の頭だけが、痛みに疼く。
「おはよう!ハミルトンくん。昨夜はよく眠れたみたいだね」
快活に声を掛けてきたのは、もちろんウィリアム・パークスだった。
あれはただの夢…か。おれは悪夢の中でメタフィクションな悪夢を重ねていたというのか。
バカな。そんなことを考え出したら、自分の立ち位置がわからなくなる。何を信じていいのか、恐ろしくて動けなくなる。
一番ケイを縛り付けて離さない命題「己は何者なのか」が、目の前に突きつけられる。
何でもいい。自分が自分であることを証明できる何かが欲しい。
彼らしくもなく、酷く焦りながら辺りを見回した。
何の変哲もない小綺麗な部屋。プリフェクト・ルームらしい整った適度な調度品。異常を知らせるセンサーなど何もない。
そして目の前の寮長も。
「朝食の時間には間に合うように準備をしたらいいよ。僕はもう済んでいるから、他の部屋に声を掛けてくるね」
ケイに何の言葉を挟ませる隙も見せず、ウィリーはにこやかにそれだけを言うと部屋を出て行った。
混乱するケイを一人残して。
未だ痛む頭を抱えて、とりあえず座り込む。目の奥がズキズキする。ああそうか、コンタクト…。
一度外して、手のひらに置く。美しいブルーが光を反射する。
彼は自分の手が青く変色していることにようやく気付いた。そうだ、何度もボールを一人で受け続けて、腫れ上がったんだったっけ。
そのあと反省室に入れられたはずだった。サイラスのバカが大騒ぎして、おれはウィリーの部屋に連れ込まれてそして…。
ポケットにいつも入れてあるコンタクトケースは見あたらなかった。仕方なくその辺の飾り皿にカラコンをそっと置く。扱いの手荒さといったらこの上ないだろう。それでもケイを守るための必需品。
目を揉みほぐしながら、彼は冷蔵庫を開けてみた。数本のミネラル・ウォーター。手に取ってよくよく見ても、もちろん何の異常も見つからない。
ケイはあまりの気持ち悪さに、その場にしゃがみ込んでしまった。
あれは本当に起こったことなのか。それともおれがかってに思い込んでいる妄想の悪夢なのか。
彼が一番嫌いなシチュエーション。自分の記憶が信じ切れない。誰かはっきりさせてくれ!
ぞっとするほど冷たい瞳のウィリアム・パークス。それは実在するものなのだろうか。
だんだん冷静な自分が戻ってくる。もし仮にウィリーがそういった人物ならば証拠など残すものか。明快なパラドックス。ましてやケイをこの部屋に一人残して、ということは漁られるのも承知の上だろう。
証拠のないことが何よりの証拠、自分を信じろ、ケイ・ハミルトン。
何とか自我にそう納得させると、彼は立ち上がった。
当たり前に授業が始まる。
寮長の権限は思いのほか強かったのだろう。反省文の続きも問われず、教師たちは何ごともなかったかのようにケイを受け入れた。
もちろんそれは、歓迎されたわけではないけれど。
彼はいない者としてすべては進む。無視ではない。あからさまな敵意でもない。淡々と。
それは他の生徒たちも同じだった。ただ一人を除いて。
「大丈夫だった?いつもの声が聞こえなかったけれど、眠れたんだね!?」
ケイよりよほど青ざめた顔であわててのぞき込んできたのは、無論あのサイラスだった。
「何てことないさ。昨日はありがとう。君のおかげであの反省室から出られた」
繰り言も何もかも飲み込んで、ケイはしゃあしゃあと言ってのけた。サイラスに罪はない。実際あの牢獄に閉じこめられていたままなら、どんな亡霊がケイに取り憑いて離れなかったことだろう。叫ぶばかりか気も触れていたに違いない。
ただ、亡霊よりも生身の人間の方がどれほど恐ろしい存在か…。
「よかったあ。ウィリーは誰からも尊敬されるプリフェクトなんだ。歴代の寮長に比べても優秀なんだって先生たちはいつも言ってるよ。そんな人と一緒に過ごせて、本当に良かったねえ」
サイラスの顔がほころぶ。本当にこいつの能天気さと言ったら。
いや、彼だけを責めるわけにもいかないだろう。おそらくここにいるすべての人間は、ウィリアム・パークスに欺かれている。
彼の本性をかいま見たおれを、ヤツはどうするつもりだ。
ローディどもは、ケイと目を合わせようともしなかった。怯えている様子もない。ウィリーを信頼しているのかあるいは。
ケイは、こっちの方がおれにはよっぽどお気楽なお坊ちゃま生活より合ってるぜ、と苦笑しながら心の中で静かに闘志を燃やしていた。
寮内会議、生徒会会議、そして教師たちとの打ち合わせと懇親会。ウィリーは忙しいらしく、しばらくは部屋に帰ってくるのも遅かった。もとより寮長には就寝時刻の遵守の免除などの特権がある。ケイは早々に床につくと、気付かれないように寝たふりを続けた。
ウィリーもまた、何かを仕掛けてくる気配もなかった。
しかしケイが深く眠れるはずもなく、ほんの少しばかりの仮眠をくり返して何とかその場をやり過ごした。
決してウィリーが怖いのではない。あの悪夢が…そして彼の前で無防備に叫び声を上げてしまうのが何より怖かった。
ときには真夜中にじっと視線を感じることもあった。それでもウィリーは何ら手出しをすることはなかった。
おれが警戒心を解くのを待っているのか。あの日のことを夢だと思わせたいのか。思ったより抵抗されてあきらめたとでもいうのか。まさか、な。
相手が仕掛けてこない限り、いつまでも潜っていてやるさ。
浅い眠りにケイの体力もかなり消耗してはいた。もちろん精神的にも。しかし、外から見れば彼らは穏やかに和やかに過ごしていたとしか見てとれぬだろう。
奇妙なギリギリの線上で保たれた、危ういバランス。
そして、その日はやってきた。
ケイがすべての雑務を終えてルームへと帰ってくると、珍しくウィリーの方が先に部屋にいた。嗅ぎ慣れない香りが辺りを漂う。ケイの警戒心が高まる。
「お帰り、ハミルトンくん。最近はまた、あまりよく眠れなそうだね。寝返りばかり打っているみたいだけれど?」
いえそんな。言葉少なに返事をする。言質を取られたくない。
「カフェインは余計眠れなくしてしまうだろう?これはハーブの一種でカモミール・ティーだ。寝付きを良くするらしいから君にどうかなと思って」
ニッコリ微笑む。そう来たか。ならば乗ってやるさ。
「あ…ありがとうございます。ご心配いただいて申し訳ありません」
あの夜のことなど全く覚えてもいないかのように、わざとはにかみながらうつむいてみせる。頬を紅潮させることも忘れない。
孤立した寂しい思いの生徒へ注がれた、プリフェクトのあたたかい友情と親愛。
「そんな堅苦しい言葉はいらないよ。ここで一緒に生活する一般生徒は君が初めてだ。友人と思ってもいいかな」
驚いたようにケイは顔を上げた。雲の上の存在であるウィリーに掛けられた思いがけない温かなセリフ。とまどいと嬉しさをうまく表現できたか、冷静に自己判断。今のところ大丈夫、か。
よく磨き込まれたテーブルに華奢な椅子。促されてそこに腰掛ける。
ほどよく温められたカップに、カモミール・ティーを注ぐ。ウィリーはそれをそっとケイの方へと差し出した。
「…いただきます。本当にあの、ありがとう」
カップからゆっくりと飲み始めるケイを、ウィリーは固唾をのんで見守っていた。
程なくしてケイは、美しい細工の施してあるそのカップを取り落とした。下は絨毯。音はしないが、じわじわとハーブ茶がシミを作ってゆく。
ケイの身体がぐらりと揺れた。目はうつろで焦点が合っていない。
ウィリーの瞳が輝きだした。
「そうさ。そうやって最初から素直に飲めばいいんだ。そのカップにはカナビス(大麻)がそうとう入っているからね。君の気持ちもだいぶ楽になるはずだよ」
椅子にもたれかかり、ケイは荒い息をくり返す。もう全く自分では身体を制御できないかのように。
ウィリアムがそっと立ち上がり、彼に近づく。それでもケイは何もよけることも言うことさえもできない。うつろな目をウィリーに向けるばかり。
「君をもっと別の世界に連れて行ってあげる。さあ、こっちへおいでよ」
ウィリーの声が、甘いささやきに変わる。悪魔の声を持つ少年。誰が想像できようか。
座ったままのケイの頬を、この間よりもっと優しく挟み込み引き寄せる。ケイは全く抵抗できずに、されるがまま顔を近づけた。
軽く触れるだけのキスから、わずかに開かれた唇を割ってそっと彼が入ってくる。じんと後頭部が痺れる感触。舌が絡まり合う。
ケイの呼吸が乱れるのを十分に感じてから、ウィリーの手がシャツのボタンにかかった。
一つ、また一つと外してゆき、口元をようやく離れた薄い色素の爬虫類めいた彼の唇は、首筋から肩へ、肩から胸へと移動してゆく。
視線が完全にケイから外れたその瞬間。
ケイは膝でウィリーの腹を蹴り込むと、その首に腕を回した。ギリギリと左腕に力をこめてゆく。右手には鈍く光るフォールディングナイフ。それをぴたりと頸動脈あたりに当てる。
「うぅ、うっく」
ウィリアムの顔が苦痛で歪む。
「な…なぜ…だ?おまえは…たし…かに…飲んだ…はず…」
「これだから正真正銘のお坊ちゃまってのは始末に負えねえんだよ!なあにがカナビスだ、気取りやがって。はん、たかだかあれっぽっちのボットを飲んだくらいでひっくり返ってちゃ、あんた、コックニーでなんか一日だって暮らせないぜ?せいぜいこの田舎で、大貴族様を気取ってるんだな!」
ケイにとってはおなじみの匂い。カモミールなんぞよりもずっと。カップを近づける前にわかっていたし、吸引するわけでもない口腔摂取の効果などたかが知れていることも先刻承知だった。
つねに携帯している折りたたみ式のナイフなど、見つかるヘマをするはずもない。
「さあてと、どの罪状からバラしていってやろうか。超エリートの優等生様の裏の顔を!大麻所持か?それとも職権乱用の生徒監禁暴行罪か?いくらこの国が同性愛者に寛大だと言われても、薬物使用の強要はご立派な犯罪だろうよ!」
「で…では、身分詐称は罪じゃないって言うのか!?何が子爵だ!!ニセモノのくせに!!」
その言葉で逆上するとでも思ったのだろうか。はん、バカバカしい。ケイの感情は逆にどんどん冷静さを増してゆく。
「今さら何を言われても、痛くもかゆくもないさ。ニセモノ、こそ泥、詐欺師。あとは何だったっけかなあ?ありとあらゆる罵詈雑言なんざ、親戚中から言われ慣れてるよ!だがな、残念ながらおれは裁判所も認めた、れっきとしたハミルトン家の後継者だ。さあどうする?ウィリアム・パークス様よ!?」
首にかけている力を少しずつ強くしていく。うめき声は苦しげな呼吸音に変わる。
「あんたがこの学校の、本当の意味での支配者か。表も裏もな。ローディなんぞ下っ端もいいところなんだろ?ここで小悪党気取ってそんなに楽しいか!?」
そのとき、不意にウィリーが力を抜いた。そしてほんの少しの笑い声。
「!?」
手の力こそ緩めはしなかったが、ケイは一瞬とまどった。この状況でなぜ笑う?こいつの余裕はどこから来るんだ?
くすくす笑いは次第に大きくなり、苦しいはずの息の元から朗らかな声が聞こえてきた。
「それで勝ったつもりなのかい?ハミルトンくん。君も案外、詰めが甘いんだね」
なん…だと?
ケイは焦りから、ナイフを持つ手に力をこめる。傷つけることにためらいはない。急所はうまく外してやるさ。しかし相手の意図をはかりかねて困惑は次第に酷くなる。
「君はなぜ、僕のキスを受け入れたんだい?初めてではない、それがわからない僕だとでも?愛撫を受ける君の身体の反応に気付かないとでも?」
不意にケイを襲う目眩。初めて襲われたときの突然の映像。あれは…何だ?
おれは知らない。知らない。何もわからない!!
「もう一つ言ってやろうか。これは君が信じる大親友のサイラス・ラングレーくんが、嬉々として僕らに教えてくれたよ」
もう止めてくれ!!こいつは、こいつは何を言い出すんだ!?
ウィリアムの笑いは止まらない。それどころかケイの力が緩んだと見ると、さもおかしそうに高笑いへと変わっていった。
固まるケイの腕からするりと抜け出すと、ウィリーは彼の後ろを指さして嘲笑うかのように言い放った。
「ほら、君の後ろにもう近づいているよ?黒い瞳から血を滴らせる亡霊が…」
ケイの動きが完全に止まった。身体中が震え始め、どうしようにも止めることができない。
止めろ!止めろ!止めてくれ!!
「うわああああ!!」
叫び声を上げるケイへと、背後から何かが振り下ろされた。
がつっ!
頭をしたたかに殴られ、意識が遠のく。微かに聞こえるウィリーの笑い声と呪いの言葉。
衝撃よりも痛みよりも、黒い瞳への恐怖からケイは気を失った。
(つづく)
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