#31
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ケイらが寝泊まりする部屋とは違い、同じ木目でも暖かみのある壁にシックな調度品。そして何よりもここは個室だった。
寮長とは学校監督生とも呼ばれ、人格的にも学業的にも他の生徒の手本となるべく人物として学校長から認められた生徒である。彼らは監督権および規則違反者に対する軽い懲罰など、文字通り後輩たちを監督する権限を持ち得ている。生活も自由が大幅に認められ、家電製品付きの個室を与えられるなど優遇されている。
ウィリアム・パークスは、まさしくその部屋にふさわしい気品と人格者としての趣を持っている。ケイでさえそう思っていた。あの瞳を見るまでは。
冷蔵庫まであるその部屋に招き入れられ、冷たいミネラルウォーターを差し出された。
「どうぞ、ケイ・ハミルトンくん。キャップを開けたばかりだから安心だよ?」
くすくすと笑う彼は、ケイの警戒心に気付いているかのようだった。油断ならない少年。
ケイは口元をぎゅっと引き締めた。
ブロンドの髪をかき上げ、こちらを値踏みするかのように見つめる。抜けるように白い肌に細い指。切れ長の目はケイの左の瞳よりはもっと深いブルー。海の底を思わせるかのような。
ほとんど色素のない薄い唇が、上品そうにそっと微笑む。それさえもが陶器製の爬虫類を思い起こさせる。
「な…なぜ僕をここへ?」
今さらとは思ったが、とりあえずケイはひ弱な下級生というペルソナをかぶってみた。相手の出方を待つ。
彼は黙って自分用にペットボトルの蓋を開けると、ケイにも同じ仕草を促した。仕方なくキャップを回す。皮がむけ、血がにじんだまま固まっている彼の手のひらは、その刺激で痛みを感じさせた。
「いくらプリフェクトでもアルコールを出すわけにはいかないからね。これで我慢してくれるかな。僕らの出会いに、プロージェット!」
乾杯という声を上げて、わざとボトルを触れ合わせる。ケイの身体全体がびりびりと反応していた。
こいつは、何者なんだ。
彼の穏やかな瞳には変化が見られない。皆、これだけの演技力を自然に身につけているのか、本物の貴族ってヤツは。
「言っただろう?君の大親友がだいぶ心配しているとね。どうしてまだ夜が怖いんだい?一人で眠ったこともないほどマザーコンプレックスとも思えないけれど」
ウィリーのくすくす笑いが、カンに障って仕方がなかった。すべて見抜いているぞとでも言いたげな、その表情。どこまで知ってやがる。ケイでさえ読めないのが腹立たしかった。
「あのその、環境が変わると…寝つけなくて…」
おどおどと言ってはみたものの、ウィリーの態度は変わらなかった。余裕ありげに水を勧める。
仕方なくケイは、そのペットボトルに口を付けた。午後の授業以来、まともに水分さえ取らせてはもらっていない。それはとても甘美に喉を潤していった。
頭の隅で鳴り響く警報。けれどあれだけ身体を酷使させられ、飲むなという方が無理だろう。理性よりも何よりもケイは欲求に負けた。
それでも半分まで飲み続けると、彼は無理やり腕を下ろした。息が荒くなるのを必死で抑える。こいつに弱みを見せてはならない。気を抜いてはならない。それはケイの野生としての本能が訴えるもの。
形ばかりほんの少し水を飲むと、ウィリーの方は律儀に蓋を閉めた。なぜだか楽しげな表情を浮かべながら。
「ほら、まだ半分は残っているよ?どうせならすべて飲んでしまえばいいのに。まだたくさん冷えているから」
彼がそう言いながら一歩前に踏み出す。反射的にケイは後ろへと下がろうとした。
その足が…ふらついた。
「!?」
一瞬自分に何が起こったのか、ケイには全くわからなかった。目眩?あの程度のしごきで熱中症になったとでもいうのか。このおれが?ばかな。
頭を押さえても、目眩は治まるどころかどんどん酷くなる。足はもつれ、立っていられない。
考えられるのは…ただ一つ。
「…な、何を…入れ…た…」
口までもがうまくろれつが回らない。蓋は閉まっていたはずだ、完全に。確認を怠るようなケイではない。
その様子を見てとると、ウィリーは軽やかに笑い声を上げた。
「さすがの君でも、ボトルの注射針痕は見落としたのかい?僕らは英国紳士としての教育を、幼い頃から受けてきているのでね。団体のスポーツは得意でも、個人的な争いは苦手なんだ。君が眠れずに叫んで暴れられても困るから、だったら薬でぐっすり眠ってもらおうと思ってさ」
言葉だけを聞けば、不眠症に困る友人を助けるために取った、少々やり過ぎとも言える思いやりの行動。はん、こいつがそんなタマであるはずがない。
目的はなんだ?おれをどうする…つも…りだ…。
すっかり身体の自由は利かず、ケイはなんとか壁にもたれて必死に自分を守っていた。
腕を上げることすらできない。視界がぼやける。
こんな、こんな素人に…このおれが!!
ウィリーが一歩、また一歩と近づいてくる。来るな!頼むからおれに近づくな!
叫び声さえ上げられず、ケイはただ歯を食いしばった。手を伸ばすのは、濃いブロンドの髪を持つ深く青い瞳の少年。母ではない。血みどろの、空洞の黒い瞳じゃない!!
「うわああ……」
全く身体は動かないはずなのに、思わず叫びそうになる。
そのとき、不意にウィリーの右手があごに伸び、ぐいと持ち上げられた。
「や…やめ…ろ」
横に精一杯顔をそむけるケイを力ずくで正面に向かせると、ウィリーは叫ぼうとしたケイの口を己の唇で塞いだ。
体重を掛けられ、両腕はウィリーがしっかりと握りしめている。薬のせいで動きの取れないケイは、よけることもできない。
「うう…」
獣じみたうなり声だけが、ケイの喉元から発せられる。やめろ、やめてくれ。やめろ!!
ウィリアムの右手が器用にケイのボウタイを外すと、そのなめらかな頸元の肌から手を差し込もうとした。
鎖骨辺りに感じる、まさぐる人の手の感触。
そのとき、ケイの脳内で何かがはじけた。途端に目の前を激しい光とよくわからぬ映像が駆けぬける。
おれは知っている。このぞっとする感触を。
覚えている。吐き気のするおぞましさを。
イヤだ、イヤだ!!助けて!!おれに触るな!!
どこにそんな力があったのか、ケイは知らぬ間に割り込んできていたウィリーの舌に噛みつくと思いきり身体を前に倒した。
「あうっ!」
口元を押さえてウィリーが下を向く。わずかに滲む血。うつむく顔から見上げる瞳は、凄惨さを帯びた怒りを含んでいた。
ケイは立っているのもやっとのくせに、肩で荒く呼吸をくり返し、必死に彼を睨みつけた。
その面とは裏腹に、心の中はただただ恐怖で占められていた。
身体全体が細かく震え、とても彼自身では制御できない。怖い、怖い、ここから逃げなければ!
思えば思うほど力が入らない。緊張の糸が途切れたかのように、ケイは膝からその場に崩れ落ちた。瞳だけを大きく見開きながら。
「せっかく優しくしてあげようと思ったのに。まあ、無抵抗の子をいたぶったところで面白味もないけれどね」
口の端から血を垂らし、ウィリアムは邪な微笑みを浮かべた。
「…お…おれに手を…出して…み…ろ。生きて…ここを出ら…れると…思うなよ…」
「ようやく素性を明らかにしたのかい?どこの馬の骨ともわからぬ子爵殿。英文法の先生に進言しておくとしよう。ハミルトンくんに美しい発音の特別補講を、とね」
強く噛んだつもりでも、薬による麻痺はよほどケイの力をそいでいたのか。血は出てはいても、ウィリーのダメージはそう大きなものではなかったらしい。
ケイはまだ荒い息のままだ。気力だけで彼をにらみ続ける。
くすくす笑いながら、ウィリーがいつもの表情を取り戻した。
「大丈夫だよ、安心したまえ。挨拶代わりの軽いキスでこんなに取り乱されたら、こちらも困ってしまうね。そんなに免疫がないなんてさ」
彼の快活な笑い声は止まらない。今までの邪悪さが何でもなかったかのように。抵抗するケイの方が間違っているのではないかと思わされそうになるくらいに。
「今夜はここまでにしておいてあげるよ。ふふっ、安心してお休み。薬は朝まで切れることはないだろうからね」
一瞬浮かんだあの映像は、何だったのだろう。ケイの頭がぐらりと揺れた。
上半身を壁に力なくもたれかけたまま、ケイは知らぬ間に目を閉じていた。
意識が混濁してゆく。触れられた肌が熱を帯びたように痛む。誰か、誰かおれを助けてくれ。いつの記憶か、もうそれもわからない。今なのか、過去なのか。
ケイの頭ががくりと倒れるのを、ウィリアム・パークスは無表情に見つめるばかりだった。
(つづく)
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