#30
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…こいつは下層階級に属する人間だ。僕らの仲間などではない…
それが一瞬にして形成されたコンセンサス。もちろんそれは生徒だけではない。蔑むような大人の目。没落子爵ともなればいろいろと事情もあるのだろう。それでなくとも悪癖で知られた先代のハミルトン卿を知る者もいる。そういうことか、と教師でさえも納得した。
ケイの規格内に治まりきれない心も言動も、予測のつかない行動も。
ケイは唇を噛みしめると、黙ってサイラスを手で押し下げた。おまえはそっちへ行っていろと。誰も止める者はいなかった。
彼が静かにゴールエリアへと入る。一人としてGKグローブを手渡すこともない。はん、こんな甘い球など素手で十分だ。ケイは腰を落として衝撃に備えた。
審判役のホイッスルが鳴り、ゲームは再開された。
次々とシュートが蹴り込まれる。
一本目は威力のない球、脚でさばく。次も正面から来る緩さ。両手で抱え込んでわざとセンター越えの大きなキックで、全員をバックさせてやる。
味方は誰もいない。サイラスはおろおろとコートの端で震えているだけだ。
公平な審判をするはずの教師は、全くこちらを見ようともしない。同じチームからも入れられる、オウンゴールに見せかけたただの制裁。もはや試合にもなってはいなかった。
コーナーをつかれ、ケイは反射的に手を出した。指先で弾く。硬いサッカーボールが当たってじんじんと痺れる。それでも彼はニヤッと笑って全員をにらみ返す。
肘も膝もすりむけて血がにじむ。けれどもケイは余裕の笑みでボールを弾き続けた。
おまえらの知らない下層階級の世界では、たかがガキの試合に有り金をかける大人もいるのだ。子どもからはした金を巻き上げようと、暗い目で狙っているこすからいヤツらまで。シュートを決めれば飯にありつける。この球を止めれば、パンが買える。
ちんぴらの下っ端に混じって、まだあどけない少年だったケイは、いくらでもその危険なゲームに参加した。失敗すれば、袋だたきだ。
おまえらのようなお遊びとは違う。おれは生きるためならば何でもしてきたんだ。そう、文字どおり何でも、な。
さすがのケイも、肩で息をし始めた。試合開始から何分経っているかなど誰も測っちゃいない。彼があきらめてわびを入れるまで、もしくは倒れるまで。
もう下手なヤツなどは手を出すこともなく、ニヤニヤと眺めるばかりだった。スクールの対抗戦代表級が、鋭い球を四隅に散らす。
ケイの両手は赤く腫れていたが、それでも必死に食らいついていった。誰が負けるものか。弱みを見せるものか。
何度打ち込んでも取り続けるケイに業を煮やしたローディは、いったん試合を止めさせた。
選手ですら息も絶え絶えに汗だくになっている。こいつはいったい…。
ケイは気力だけで立っていた。この少しの時間がありがたい。これだけ休めればすぐに回復してみせる。おまえらとは違う。
大きく深呼吸して態勢を整える彼の前に、一人の生徒が引きずられてきた。
「イヤだ!!ボクはイヤだったら!!シュートなんかできないよ!?」
それは…サイラスだった。
ローディが彼の耳元でささやく。ほんの小声のはずなのに、それははっきりとケイにまで聞こえてきた。
「なら君が、あのゴールエリアに入るんだね」
サイラスの身体が小刻みに震える。ケイですら必死に食らいつかなければ捕れぬ球。サイラスがここに立てば、身体を丸めてネズミのように逃げ回り、そのうち動けなくなって標的になるだけなのは目に見えている。
おまえの球など、痛くもかゆくもないさ。何本でも蹴り込めばいい。思いをこめてケイはサイラスを見やったが、彼はおどおどと目を逸らすばかりだった。
気の弱い彼にとって、ローディの言いなりになることはケイを裏切ること。そしてヤツに逆らえば何をされるかわからないという恐怖で、心を支配されてしまっているのだろう。
「僕はいつでもいいよ!」
わざと明るく声を掛けるが、怯えてこちらを見ようともしない。
それとも何か?あきらかに上流階級に属するサイラスもまた、コックニー訛りのおれなどとは口を利きたくもないってか。
なかば自虐的に口元を歪め、ケイは息を吸い込んだ。
ここでもおれはたった一人。屋敷に帰りたい。
たとえそれが、夫人の記憶次第で脆くも崩れ落ちる砂上の楼閣に作られた偽りの幸せであっても。
うつろうケイの視界に、一人の少年の姿が目に入る。グラウンドの端からこちらを伺う制服姿。
ウィリアムズ・パークス。穏やかで常に冷静な優等生の寮長。
彼ならばこの異様な雰囲気を察して、何か声を掛けてはくれまいか。ケイが置かれたこの状況を、教師にさえ影響力を及ぼすそのカリスマ性で打破してくれるのではないだろうか。
彼らしからぬそんな淡い期待は、ウィリーと目が合った瞬間に打ち砕かれた。
氷よりも冷たい、蛇のような悪意を秘めた瞳。
これが…これがあの優しい声の持ち主のウィリーなのか。
たかがおれがたった一言、下町特有の発音で出生をかいま見せてしまっただけだというのに。
ぐらりと地面が揺れた。
ケイの仮面が、強がっていたプライドがすべてこなごなに割られ、辺りへと巻き散っていった。
残ったのは、愛され受け入れられることを渇望する、やわらかくて傷つきやすいケイ本来の心。
呆然と立ちすくむ彼に、ローディからけしかけられたサイラスは目を固くつぶったまま、やみくもにボールを蹴り込んだ。
それは思いがけなく力強く飛び、頭にもろにくらったケイはその場に倒れ込んだ。
遠のく意識の中、このまま二度と目を開けることなく、誰にもおれの瞳を見せることなどなければいいのにと願いながら…。
反省室という名の体の良い独房に入れられたケイの前に、どさりと白紙のレポート用紙が置かれた。一人こもって懺悔の手紙を書き上げなければならない。誰に懺悔をしなければならぬというのだろう。
健全な精神と強靱な肉体、そして英国紳士としての誇り高き風格を持ち合わせるべく、心から反省し精進したまえ。
冷ややかな教師の言葉。意訳して見せよう。下層階級の小汚い言葉を遣った罰だ、とね。
ほんの小さな灯り取りの窓に、木製の勉強机と簡素なベッド。
今夜一晩、ここで過ごせということなのだろう。
眠ったら最後だ。ケイは唇を噛みしめた。
温かさなど覚えなければ良かった。一度味を占めた甘い想いは、彼の心をとらえて離さない。
誰かが自分だけを見つめる。優しげな眼差しで。すべての愛を注いで。
どんなものへも分け隔て無く、惜しみなく慈愛を注ぐハミルトン夫人の柔らかな手のひらと穏やかな瞳。
たとえそれが……おれ自身を見てはいないとしても。
幼い頃の父と母、兄妹のいる生活をどうしても思い出せない。記憶に靄がかかる。母の顔でさえも。
おれの覚えている母は、必死にかばおうとした背中と叫び声と、血みどろの…。
反射的に口元を押さえて、ケイは声を飲み込んだ。
意識があるうちにまで、あんな亡霊に取り憑かれてたまるものか。母親は悪夢でも妖魔でもない。わかっているのに…温かいものであるはずなのに。
先程から反省文は一文字も進んではいなかった。書き終えるまではここを出られない。一晩で済まぬとしたら。
それでもケイは自分の顔をその両手で覆うと、苦しさに一人耐えた。
夜が近づく。かなり前に食事が差し入れられたが、とても手を付ける気にはならなかった。
ふと廊下が騒がしいのに気付き、ケイは席を立った。
誰かの叫び声、あれは…サイラス。
「早く出して上げてください!!ケイは、ケイは夜が怖いんです!!」
サイラスの大バカやろう。だから何度も言うようにおまえがおれをどれだけ追い込んでるか。表層意識に浮かぶ言葉とは裏腹に、ケイの口元はふっと緩んだ。
ほんの少しばかりの善意。この学校に灯るわずかな希望の光。
だが、サイラスが訴えている相手がウィリーらしいことがわかると、ケイは面を引き締めた。
爬虫類を思わせる冷ややかな瞳。ただの穏やかな優等生であるはずがない。
ケイの人を見抜く目は確かだ。そうでもなければ生き残ってなど来られなかったのだから。
しかしドアの向こうから聞こえる声は、あくまでも頼もしげな落ち着いた寮長のものだった。
「しかし彼はもう十分に、この学校に慣れたと思うのだけれど。ホームシックも治まったのでしょう?」
サイラスの剣幕に他の連中どもも集まったのか。声が混じる。あんの、バカ。ケイは頭を抱えた。
放っておけばいいものを。せっかくおまえは生け贄の地位から抜け出せたんだろう?
人が良いのにもほどがある。おれは、大丈夫だってのに。
「違うんです!!ケイはまだとても一人じゃ眠れない。本当に毎晩辛そうなんです!!お願いだから、彼を一人にさせないであげてください!!」
ドアの細い灯り取りの窓から、ウィリーの横顔が伺えた。
冷静に見えたその表情が、サイラスの言葉を聞くやいなやゆっくりと変わってゆく。
瞳だけをこちらに向けて蔑むような、いや、残虐めいた視線を送る。
さすがのケイもぞっとした。これが…寮長の、ウィリアムズ・パークスの本性なの、か。
「へ…え。なら君はいつもハミルトンくんに一晩中付き添ってあげているというのかい?」
考えなしのサイラスは、そばにいてあげないとうなされて可哀想だから!と懇願する。
ケイにすら部屋越しに伝わる皆の嘲るような好奇心。
そして、ドアノブがゆっくりと回った。
「そんなに言うのならば、寮長の権限で僕が彼と一緒にいてあげるよ。それでいいだろう?サイラス・ラングレーくん」
サイラスの安堵の表情が見える。おまえのせいでおれは!!
まぶしい光とともに現れたウィリーは、舌なめずりをするかのように口元を歪めて微笑んだ。
「ハミルトンくん、プリフェクト(寮長室)へどうぞ。個室だけれど君が眠れるスペースはあるからね。何より、君の親友が心から心配しているよ」
優雅な仕草と言葉、しかし伝わる邪悪さとのダブルバインドに、ケイは身じろぎすることもできずにいた。
(つづく)
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