#3
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暗闇のクローゼットの中に、わずかな光が差し込む。片眼を無理やり押しつけるようにして、少年は外の様子を伺っていた。
目の前には母の柔らかなブラウス。背中で少年を隠すように立って、そこを動こうとはしない。
どやどやと歩き回る数人の、おそらく男たちの足音。父の震える怒鳴り声。
ヤツらは冷静に、というよりも冷酷に少年の両親に向かって静かに話し出した。
「いつまでもおまえが意地を張っているからだ。一介の研究員のくせに」
「う、うるさい!君らには渡さない!!これは私が一から作り上げた芸術品だ!!」
会社の金と機材をふんだんに使ってか?男たちがせせら笑う。
「おまえさえ消えてくれれば、すべては丸く収まるんでね」
「な、何をする気だ!?家族には関係のないことだろう!!」
ガキどもはどうした?一人の男の声に少年は怯えた。物音を立てないように、自分の息すら止めようとする。
「友人の家に行かせてます。ここにはいません!!」
母の悲鳴のような声が響く。そう、兄も妹も夕方には楽しげに母の友人宅へ行ってしまった。僕だけが残されて…。
ガキなんか放っておけ。リーダー格の男が制する。
「こんな偏屈なダンナを持ったことを、後悔するんだな奥様よ」
少年が覚えているのは、断片的な記憶。
叫び声と、クラッカーの弾けた音と、目の前に広がる真っ赤な……血。それはおそらく、母の背中。息絶えるまで母は、クローゼットの扉を押さえ続けたに違いない。
少年の黒い瞳に映るもの、それはずるずると倒れ込む母と、みるみる赤く染まってゆく扉内部。その血は少年の顔をも赤く染め上げていった。
「うわああああっ!!」
凄まじい叫び声を上げて、ケイは飛び起きた。酷い寝汗と真っ青な顔色。ぜいぜいと肩で大きく荒い息をくり返す。美しいその右手で、顔を覆う。オッドアイの両眼は固く閉じたまま。
「……また…か。いつになったらおれは……」
もう眠りにつくのは無理だろう。夜はまだ闇の中。ケイはあきらめて大きく息を吐くと、熱いシャワーを浴びるために立ち上がった。
「お母様、何をしてらっしゃるの?」
オルブライト=青木邸では、母親のオフィリアが一枚のリストに何やら真剣に書き込みを入れていた。それをひょいとのぞいたクリスは、よけい訳がわからなくなった。
大きな吹き抜けのリビングに、ゴブラン織りの豪華なソファ。座り心地はいいが作業はやりづらいだろうに。それでもオフィリアの手は休まることはない。
「あなたもね、そろそろ真剣に考えていただかないと」
彼女がしていたのは、自動車業界関連のパーティー出席者名簿に、何やら記号を書き加えることだった。
「お母様、主語と述語をきちんと入れて話してくださらない?何が何だかちっともわからないわ」
母のそばに腰を掛け、クリスは頬杖をつきながらその手の動きを見つめていた。
オフィリアは細かい字を読むために掛けていたメガネを外しながら、なまじ日本語なんか勉強したせいかしら、曖昧な言い方がクセになってしまって、と言い訳した。
「せっかくちょっとは洒落たパーティーに出席するのよ?大会社の若い後継者だって大勢来ているに違いないわ。婚活よ、コ・ン・カ・ツ!!」
はあっ!?また意味のわからない言葉を…。クリスは頭を抱えた。
オフィリアは透き通るような肌に、美しいブロンドの髪を豊かにはずませて、とてもこんなに大きな娘を持つような歳には見えなかった。薄いアクアブルーの瞳は、大きくくるくると動き、娘から見ても愛らしい。
もっとママに似れば良かったのに。ときおりクリスは自分のブラウンの髪と瞳を恨めしく思う。
前の父親の血筋だったのだろうか。彼のことはあまり記憶がない。ほとんど家に寄りつかないのは、今の父親も同じだけれど。
鼻が少しだけつんとしているのも、唇が薄いことも、オフィリアほど大きな目をしていないことも、何もかもクリスには不満だらけだった。
母の方がずっと若々しく可愛らしく見える。だからたくさんの男性にモテたはずなのに、結婚運だけは最低ね。
もちろんクリスは、この言葉を心の中だけでとどめておいた。
どんな父親でも、笑顔を絶やさずに明るく振る舞う母にどれだけ助けられているか。
その母が言った謎の言葉、「コ・ン・カ・ツ」って、何?
「今、日本で流行っている言葉なんですって。結婚に向けての努力よ、努力!ほら、うちは土地やら資産やらこそあるけれど、家柄も別に貴族でもないし、会社を継いでもらう方を選ばなければいけないでしょう?かといってあなたの気持ちを全く無視したくないし、第一、あなたには私のように間違った選択をして欲しくないの!!」
結婚なんて、まだ学生なのに…。口の中だけでこっそりつぶやく。
「お母様はご自分の結婚が失敗だと思ってらっしゃるの?」
そっと上目遣いで、訊いていいのかどうかおそるおそる言ってみた。その言葉にオフィリアは、ころころとした笑い声を上げた。
「これが成功例に見えて?一人目は女あしらいに長けてたけど、浮気者のギャンブル好きで、このままじゃオルブライトの財産を食いつぶしかねないろくでなしだったし。反省してお金を持っているからと青木と結婚してみれば、業界一の鼻つまみ者。我ながらよくもまあ、男運の悪いことというか、見る目がないというか」
それでも自分の言葉にさらに笑う。クリスもつられて一緒に笑顔になる。
「少しは好きだったんでしょう?一瞬でも」
そのセリフに、そこだけは真面目にオフィリアはクリスに向きあった。
「いいこと!クリス。結婚と恋愛は別よ!慎重にね!!」
思わず母の迫力に、はいっ!と返事をする。そして二人で笑い出した。
「このリストはね、二重丸が超おすすめ。家柄も人柄も申し分ないわ。一重丸は、まあ可もなく不可もなくってところかしら。三角は避けること」
じゃあ、この×は?一つだけついていた大きな×印にクリスは逆に興味を持った。
「論外!!このケイ・ハミルトン卿は見た目だけ!!子爵とは名ばかりの貧乏貴族で、毎日ニート生活を送っているってもっぱらの評判なんだから!!近寄ってはダメよ!」
すごい言われ方…。でも、その楽しかった気分もそこまでだった。
ふと現実を振り返る。青木の娘と言うだけで、どんな相手もおそらくクリスを避けるだろう。日本ではなく英国に本社を持ち、急成長を遂げてきた日系企業。それだけでも煙たがられるのに、英国の国産車では到底打ち出せないような低価格車を売りまくっているのだ。
以前からその安全性には疑問の声が上がっていた。リコールも事故も多発している。なのにAOKIの車が売れ続けるのは、低所得者層にとっても手の届く価格設定のせい。そしてヤマのように抱えている事故の訴訟も、敏腕弁護士を揃えることですべて乗り切ってしまっている。
政治家にまで食い込むその人脈で、AOKIの事故は会社側の責任を問えなくなってしまっている。すべては個人ユーザーのドライビングテクニックの問題。表向きは、ね。
クリスは苦い思いを胸に閉じこめた。陰で何を言われているか、私だって知らないわけじゃない。だから、こんなパーティーなど行ったところで誰も私の相手をしようなんて奇特な人間がいるわけないのよ。
それでも体面というものはある。父は多忙でとても出席できそうにない。母一人にその役割を押しつけるのも……。クリスはいつも複雑な気持ちで参加しては、一人ぼっちの孤独を味わい続けてきたのだ。
楽しげにドレスを選ぶオフィリアに心配をかけたくなくて、クリスはわざと笑顔を作ると一緒に衣装選びに加わった。
自動車関連企業関係者を集めたパーティーは、懇親会というよりも情報収集が主のようで、オフィリアも内助の功を発しようとそれなりにあちこちに挨拶をして回った。
お世辞にもあまり品の良いとは言えない青木本人より、ずっと如才ない彼女の方が、このような場ではふさわしい。どのメーカーのお偉方も面と向かってAOKIの文句を言えるはずもなく、和やかに会は進んでいるようだった。
本来なら娘のクリスも母親に張りつき、顔を売っておかなければならないのだろうが、どうもこういう場が苦手なのだ。同世代から相手にもされず、彼女を遠巻きに見守る警備の男二人。これでは興味を持った男がいたとしても、声はかけづらいだろう。
クリスはため息をつきながら、形ばかり置かれた壁のふかふかな細身の椅子に座り、シャンパンを口に含んだ。
…来なければ良かった…
ブルーの膝下が隠れるほどのイブニングドレスは、それほど格式張ってはいないが、若い彼女を引き立てていた。裾が幾重にもかさなり、美しいシルエットを作りだしている。
ふと、彼女は強い視線を感じた。
いくつも離れた同じような椅子に腰掛け、長い脚を組んでいる。プラチナブロンドの髪を、下の方できゅっと結わえ、両耳にはわずかに光る品のいいプラチナの小さなピアス。
白いスーツがこれほど似合う男性も、そうは多くないだろう。
一目そちらを向いたクリスは、あわてて目を逸らした。見てはいけない。そんな気がした。それでも、彼女を射るような強い視線は消えてはくれない。クリスはいったん息を吸い込むと、わざと強くにらみ返した。
「失礼じゃないですか?女性をそんなにジロジロと見るなんて」
その言葉を合図と見たのか、彼はすっと立ち上がると彼女の横に音も立てずに座った。その仕草があまりに自然すぎたので、クリスは文句を言う機会を逸してしまった。
「これは失礼、お嬢さん。あなたがあまりにお美しかったもので」
ソフトな声に、わずかに含まれる甘いささやき。ハタチになったばかりのクリスには刺激が強すぎたのか、慣れぬシャンパンのせいなのか、彼女の頬はバラ色に染められた。
「…なあんてね。いやあ実は僕も壁の花なんです。義理でこんなところに出たはいいけれど、大して知り合いもいないし、僕は別に自動車関連の仕事をしているわけでもないし。貧乏人には声をかけてもメリットはないってね。実業家ってヤツははっきりしているから」
さっきの声はどこへやら、いきなりさばけた言葉で彼はしゃべり出した。
「はあ?それって、私が一人で可哀想だから声をかけたって訳?あなた失礼にもほどがあるわよ!?」
大声を出すわけにはいかないから、憎々しげにクリスがつぶやく。染めた頬の分だけでも返して欲しい。
「怒った顔の方が、君らしい。澄ましてないでいつもそうしていればいいのに」
何を言い出すんだろう。この男は一体…誰?
「私のいつもを知りもしないで、勝手なこと言わないで!」
ふくれた顔が美しいわけもない。どうせ母ほどの美貌の持ち主じゃない。それがクリスのコンプレックスだというのに。
「知ってるさ。ミス・クリスティアナ・オルブライト=青木。AOKIの社長令嬢、だろ?」
そんなに有名って訳?どうせ、ゴシップ誌か何かで見たんでしょう!?クリスの悪態は止まらない。
「AOKIの令嬢がいらっしゃると聞いていたからね。君に興味を持った、ただそれだけだよ。僕はケイ・ハミルトン」
その言葉に、クリスは目を丸くした。思わず「えっ?あなたが?」と声が出てしまう。
「あれ?なぜ僕のことを知っているの?嬉しいけれど、何だか怖いな」
その長身をほんの少し曲げて、ケイはクリスに顔を近づけた。
「し、子爵様なんでしょう?何かで見たことが……」
まさか母親が彼の名前に大×をつけていたなんてことは言えないから、あわててクリスは取り繕った。そんな自分がおかしくて、つい微笑んでしまう。
「さっきの言葉は訂正だ。やっぱり笑った顔の方が可愛いな」
透き通るようなスカイブルーの瞳が、じっとクリスを見つめた。耐えきれずにやはり彼女は、恥ずかしげにうつむいた。
(つづく)
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