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#29

#29



バカバカしいと内心思いながら、ケイは数学のプリントに向かっていた。

そりゃあ、サイラスはがんばってくれたさ。しかしあの数学に対するセンスの無さは、一日や二日でどうにかなるもんじゃない。

ヤツにはヤツの良さがある。たった一問解けただけで満面の笑みを浮かべる彼の温かさを、ここには理解してやれる人間はいないのか。


ふと、ケイは寮長のウィリーの顔を思い浮かべた。彼ならあるいは…。


学年も違えば立場も違う。ましてや絵に描いたような優等生だ。穏やかで上品なウィリーに目に見えない内紛まで気づけという方が無理、か。


平均点を上げなければ矛先はサイラスへとまた向かう。

おれがやられる分にはいい。何とも思っちゃいない。

だが、あの不思議と心を落ち着かせてくれる手と、すぐそばに聞こえる規則正しい寝息のせいで、おれは血みどろの亡霊を見ても叫ばずに済んだ。


眠ることができた。


どれだけ心の中で葛藤があろうとも、睡眠さえ満ち足りていればいつでも闘える。



たたか…う?誰と、何のために?



こうなったら、堂々とスケープゴートだろうと野ウサギだろうと何にでもなってやる。

それで、サイラスが救われるのなら。


ケイは問題を難なく解き終わると、周りにわからぬよう小さくため息をついた。






放課後。


案の定、ケイとサイラスを含めた小グループは教官室に呼ばれた。

サイラスは何があったのかと、もう既に怯えている。ケイにとっては想定内。この先の展開も。


「自ら説明してもらおう、ハミルトンくん。君を疑うわけではないがね」


数学教師の目が光る。こいつも同じ。閉鎖され、いつも淀んだ空気の中でしか生きながらえない偏性嫌気性生物。新鮮な酸素が入り込めば死滅してしまう。

だからこそ、おれのようなよそ者は徹底的に排除しようとするのだ。


ケイが口を開く前に、ローディは一歩足を踏み出し「何があったのですか。僕はグループ長ですし、聞いておく必要があると思いますが」と丁寧に言った。


猿芝居にしか見えない。確かにここでは、ローデリック・レイヴィンリーの名は威力を発揮するのだろう。


「今回のテストで、ハミルトンくんはただ一人満点だったよ。それまで最下位ぎりぎりのところにいたというのにね。これが、一念発起して猛勉強をした結果だというのなら私はそれを信じよう。いやむしろ、信じたいというのが本当の気持ちだ」


ローディと取り巻きたちは目を見合わせた。そしてわざとらしく言い添える。


「確かに僕らは、彼ら二人、ラングレーくんとハミルトンくんにはがんばって欲しいと伝えました。君たちもしっかり勉強すれば、どれだけ苦手な教科でもわかるようになるさと励ましたのですが。まさかそういう形で点を取ろうとするなんて…」


絶句して見せたのも台本どおりか。

ケイはことの成り行きがどうなるのか、内心ニヤニヤしていた。

もう仮面をかぶることもあるまい。だったら徹底的に憎まれ役を買って出てやるさ。


ざわざわと波紋が広がる。停学か放校か、一番軽くて反省室行きか。


一つだけ気がかりなのは夫人のこと。さぞかし心配することだろう。



…ごめん、ママン。僕は立派な子爵様にはなれそうもないよ…



そのとき、ようやく皆の言っている意味が飲み込めたのか、サイラスがあわてて叫んだ。


「まっ、待ってください。それってもしかして、ケイがカンニングでもしたと言いたいんですか!?」


白けた顔でサイラスを冷ややかに見下ろす大勢の目。何を今さらわかりきったことを、と。

それでも空気も読まず、いや読めず、サイラスは大声を出した。


「ケイは数学が得意なんです!!ボクにとっても親切に教えてくれました。本当に良くできるんです!だから、だからカンニングなんかしなくてもケイだったら満点ぐらい取れます!!」


おまえが言い張ることで、おれの立場をより追い込んでいるのがわからないのか。わからないだろうな。それがサイラス、おまえのいいところだものな。


ケイはゆっくりと辺りを見回すと、数学教師へと冷静に伝えた。


「僕は自力で問題を解きました。お疑いになるのならこの場で口頭試問でも再試験でも受けさせてください」


反論されるとは思ってもいなかった周りの連中は、ぐっと言葉に詰まった。

なら何故、今までこんな点数しか取れなかったのだね?ようやくそれだけを言い返す。


「今まで家庭教師とのマンツーマンでしか学習したことがなかったので、テストという形式になじめずにいました」


「プレップ(英国の小学校にあたる)にも行かなかったって言うのか!?」


逆上したローディの声。それに、するどい視線を返す。


「幼い頃、ある事件に巻き込まれました。心配性の母は、それ以来家庭学習のみで僕を教育してきましたもので」


それ以上反論できず悔しさに唇を噛むローディたちを残して、失礼しますとケイは頭を下げ、部屋を出て行った。

サイラスがそのあとを急いで追いかける。





「ケイ!!ケイったら!!」


校庭に出て思いきり息を吐く。こんなところでも空は高い。むしろ下町のススで汚れた街並みよりはずっと綺麗だろう。

けれど、ケイはスクールに来て初めて、身体の奥から呼吸ができたような気がした。


「ケイ待ってよ!!もう。置いてくなよ!!」


やっと追いついたサイラスの赤毛に指をつっこみ、くしゃくしゃにする。ボクの髪は絡みやすいんだから!やめてよ、と言う彼の声が笑っている。


もちろんケイも笑いながら、二人はいつまでもじゃれ合っていた。







御しやすい生け贄。


彼らにとってケイはそんな存在でしかなかったはずなのだ。しかし、いつまでも本性を隠しておけるほどケイはまだ大人でもなかった。何より、彼の持てるその力がそうはさせなかった。


サイラス以外のすべての者が、ケイに対して牙をむいた。ウィリーは別格としても。

さあてと、どう潰していってやろうか。

おまえらに狼の舌なめずりが見えるか。牙を持つ者がどちらか、思い知らせてやる。


ケイの反撃が始まった。



午後の授業はさまざまな活動とスポーツ、と相場が決まっている。

その日はたまたまサッカーだった。むろん英国のパブリック・スクールなのだから盛んなのは当たり前であろう。皆、真剣にボールを追いかける。


ついていけないのは、サイラスくらいなものか。

無理なパスを回して、取れない彼に叱責の声をかける。焦るサイラスは余計な緊張でもっとミスを連発する。あからさまな嘲笑や罵声は浴びせない。ここは紳士の国だ。しかしその分もっと陰険だけれども。


しょうがねえなあ。


ケイはそのパスを自ら取りに行った。あいつらの狙いは今やサイラス本人ではない。こうやってケイを誘い出すこと。

その思惑に乗るのもシャクだったが、このままじゃ彼の気力体力が持たない。


ボールがケイに集まり出す。


11人対11人の競技であるはずのゲームが、2対20となっている。

サイラスは問題外。とすれば、おれは二十人を相手に立ち回りねえ。


今までの鬱憤を思う存分発散させてもらうとするか。


ケイは一人でボールを操ると、他の生徒たちの間をすり抜けていった。味方のチームでさえわからぬように妨害をしてくる。それをかわして思いきり蹴り込む。


一点先取。さあ、どうする気だ?ローディ。


相手チームにボールが渡る。ケイは行き場所をすべて味方にふさがれて、最前列に行くしかなかった。なるほどね。


もちろん相手の蹴りはそのままケイの顔面を狙うだろう。シュートの時速は、アマチュアと言えども100km/h以上は出ると言われる。スクールの生徒ではそこまで行かずとも、至近距離でまともに食らえばダメージは大きい。


ケイは挑発するようにわざわざそいつの真正面に立った。やれるものならやってみろ。


スクール対抗戦でも通用すると言われる相手の蹴りが、まっすぐケイに向かってきた。


それを胸元で軽くかわすと、彼はバックにいた全員に「伏せろ!!」と大声で叫んだ。


反射的にしゃがむ味方チームの頭上をかすめて、ボールはゴール付近まで飛んでいった。さすがにそこまで来れば威力も落ちる。あわててキーパーはそれを拾うと、高く高く蹴り上げた。


仲間チームが思わず本気で普通の試合をし始めてしまった。彼らだって、本来は一人を攻撃するよりはゲームを楽しみたいのだ。





ローディの悔しがる顔が目に入る。彼の合図を受け取った他の生徒が、急いで審判役の教師に駆けよ

る。懲りないヤツだ。


「選手交代!」


そう来たか。はいはい、どうせおれはキーパーか何かをさせられるんだろう?


首や肩を回して、身体をほぐす。全部取ってやるよ。こんな大金を賭けもしてない生ぬるい試合なんぞ。


「サイラスくんがキーパーだよ、頼んだからな」


こちら側のキャプテンが高らかに宣言する。その言葉だけで震え出すサイラス。

なっ!何だって?おれならいくらでもやられていい。何故その矛先があいつに行くんだ!?


サイラスにキーパーなどできるはずがない。下手をすれば大怪我だ。




「ふっざけんなてめえ!!」




思わず下町訛りで叫んでしまったケイは、その瞬間、教師を含めた全員から刺すような視線を浴びた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009  keikitagawa All Rights Reserved

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