#28
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またあの叫び声を上げてしまったら…。
その思いから、ケイはほとんど眠ることなく朝を迎えるようになった。
朝の授業は九時に始まる。もうその時刻を迎える頃には、健康で体力も余っている彼にとって、否応なしに眠気が襲ってくる。
こんな衆人環視の中であの夢を見たら、おれは確実に狂ってしまうだろう。
必死に歯を食いしばり耐えるが、くだらない授業は退屈すぎて、ついあくびをかみ殺した。
古い年号と史実をただ暗記することだけに心を砕いているかのような歴史教師は、不快感をあらわにしてケイをにらんだ。
「ケイ・ハミルトンくん。百年戦争の経緯がどのようなものか、君にはしっかり頭に入っているというのだろうね」
陰険で知られるこの教師ににらまれたら、今日の昼食はないだろう。その間ずっと説教だ。
それよりも何も、あまりの睡魔にケイはうっかりと仮面をかぶり損ねた。
思わず彼はすくっと立ち上がると、一度目頭を押さえてから話し出し始めてしまったのだ。それはよどみなく、詩のごとく。
「イギリス海軍はまずフランス海軍をレクリューズ沖で壊滅させ制海権を取った。これによってフランス進出が容易になり、エドワード3世は1346年の『クレシーの戦い』で大勝利を納め、翌年にはカレーを攻めてこれを陥落させ、フランス進出の礎を築いた。
10年後の1356年、エドワード3世は息子のエドワードと共にまたもフランスに進攻し、エドワード黒太子が『ポアティエの戦い』でフィリップ6世の後継ジャン2世の大軍を破る。
そして1360年プレティーニで和議が成立し、イギリスはフランス領土の半分を所有するまでになった。
その後、フランス側は1364年に即位したジャン2世の長男シャルル5世はデュ・ゲグラン元帥をたてて巻返しを図る。
イギリスは1413年にヘンリー5世が王位に就き、国内外にその指導力を示し始めた。一方フランスではシャルル6世が王位に就いたが、即位間もなく精神を病み幽閉されてしまう。このためフランス国内は乱れ、アルマニャック派とブルゴーニュ派に別れて内戦に明け暮れた。
ヘンリー5世は大軍を率いてフランスに進攻し、1415年の『アゼンクールの戦い』でフランスに壊滅的な打撃を与え、1417年にはノルマンディーを征服する。1420年にヘンリー5世は…」
滔々と述べるケイをさえぎって、教師は「もういい、わかったから」と彼を席に着かせた。
学習ができればよいと言うものではない、人間形成には学習態度こそがもっとも大事であり…。歴史教師はもごもごと口の中で一言嫌みを言ってから、何ごともなかったかのように授業を再開した。
教室の空気が明らかに変わっている。純粋な驚きの目と、今まで軽んじていた編入生を妬むような悪意の視線と。
そして何よりもローディたちの顔つきが変わった。
…たかが獲物が生意気な…
ケイは内心やり過ぎたかと焦ってはいたが、至極冷静に表情を変えずに席に着いた。おかげで眠気は吹っ飛んではくれたが。
あとあとの面倒くささを考えると、彼はかなりうんざりしていた。
「ケイってすごいんだねえ」
純粋な憧れだけで瞳を輝かせてくれるのは、となりにいるサイラスだけであった。
「よう、歴史マニア。お勉強は苦手じゃなかったのかい?それとも僕らのレヴェルに合わせてくれていたとでも?」
あれはたまたま昨日読んだ本に出ていて…。できるだけしどろもどろに聞こえるようにケイはおどおどと言ってみた。自分を偽るというのは案外手間がかかるなと、少々疲れてきてはいたのが正直なところだった。
周りの連中は、このローディたちに気を遣っているのか、わずかな休憩時間の教室にいたのは彼らとケイ、そしてサイラスだけだった。
「だったら君がこのサイラスくんの勉強を見てやってくれないか?僕らのグループだけ、いつも数学の小テストで平均点が悪いんだ。新しく入ってきた君と、この田舎者で恐ろしく勉強のできない彼のせいで、今回もまたクラスで最下位なんだよ」
ローディがわざと、自分たちの学習グループにサイラスを入れていたのはあきらかだった。
…おれが来る前の獲物は、こいつだったのか…
そう考えれば、毛色の変わった編入生が入ってくるのを彼が喜んだのも、いつも独りでいたのも、寮の部屋が空いていたことも合点がいく。
そして妙におれに優しかったことも、な。
ショックではなかった。むしろ自分の理解できるフィールドに彼がいてくれたことにホッとした。ケイの慣れ親しんだ環境、そして彼らなりの論理。力のあるものだけが生き残る。
どこも同じだ。
「要するに平均点を上げればいいんでしょう?」
小さいがよく通る声でケイは言った。まっすぐローディを見すえる。ややひるむ彼にわざとらしくにっこりと微笑んで見せた。
「ねえ、ウソでしょ?ボクは本当に数学が苦手なんだ」
部屋に帰って自習を見てやると言い出すケイに、サイラスはとまどった。もう既に腰が引けている。
そこへ無言のまま椅子を引き寄せると、問答無用とばかりに問題集を差し出す。ケイは低い声でささやいた。
「なあサイラス、おまえ悔しくないのかよ。あんなこと言われっぱなしで。見返してやろうぜ」
だって君も数学は嫌いなんじゃ…、言いかけるサイラスのノートを無理やり開けさせると、ケイは問題を読み上げ始めた。
しかたなくペンを持つ彼に、一つ一つ説明してゆく。
「よく見てごらんよ。まず同じものを一つずつ探していくんだ。そしたらそれを括弧でくくる。こっちのyは移項しておいて…」
「い、いこうって?」
はあ、とため息をつきたくなるのをぐっと我慢してケイは丁寧に教えていった。
根気よく優しく、コックニーの年端もゆかぬ子どもたちに読み書きを教えていた頃のように。
数学なんぞ、ただのパズルだ。問題を出したヤツの底意地の悪い意図さえ掴めればこっちのものだ。
それはどの教科にも言えること。誰かが作った問題には相手の考えが透けて見える。だったらその期待に応えてやればいい。
もともとの素質もよかったのだろうが、ケイが家庭教師の元で年齢相応と言うよりももっと高い学習能力を身につけるのは、案外早かった。
何より、問題が解けなくたって命は取られない。それまでの彼にとって、その日の食料が手に入らなければ、待っているのは確実な死だったのだから。
絡む相手を間違えちゃいけない。相手の出方を待って、どう立ち回れば食い物にありつけるか。そして力の弱いガキどもに、少しでも分け前を持って帰ることができるのか。
文字通り、命がけの心理戦。それに比べればこんなこと。
「本当だ!ねえ、この問題はボクが自分で解いたんだよね!?」
サイラスが嬉しそうに大声を上げる。昔の想いにふけっていたケイは、あわてて現実に引き戻され、彼に親指を立てて見せた。
「ありがとう!!ケイ!!」
ふいにサイラスが抱きついてきたときには、だから何が起こったのか一瞬では理解できなかったのだ。
彼にしたら珍しくよける間もなく、サイラスはケイの背中に手を回した。
ホントにありがとう、ありがとう。何度もくり返す。思わず身体を硬くしたケイは急いで彼の身体を引きはがすと、両腕で肩をしっかりと掴んだ。
「おまえさ、大げさ。たった一問解くごとにこんなに喜んでたらさあ」
慣れない仕草が怖かった。そんなことを悟られてなるものかと、必死に冷静さを保った。
気にするそぶりさえ見せずに、サイラスは笑った。
「だってボクは全然数学なんてわからなくて。ちゃんとできるって楽しいんだね!!」
こいつと来たら全く…。さすがのケイも苦笑いを返すしかなかった。
また夜が来る。
眠らないわけにはいかない。いつまでも身体が持つわけもない。ケイはたとえ叫んでも聞こえないようにと、タオルを噛み締めてみた。無駄な抗いだとはわかってはいたが。
眠るのが怖い、怖い。またあれがやってくる。
どんなに遠くて大変でも頼み込んで通学生にしてもらえばよかった。もっと近くの普通のスクールで十分だった。
そう、いくら後悔しても遅い。夫人の願いを聞き入れて承諾したのは自分自身。
案の定、眠ると決めて目をつぶった途端にヤツらはやってきた。血みどろの亡霊。
「うわっ!!」
身体が金縛りになったように動かなくなり、叫び声は制御できないはず…だった。
いつもならこのまま目を覚ますこともできず、ただ心だけが濁流に流されていくのに。
額にひんやりとした感触を感じ、うっすらと目を開けたケイが見たものは、心配げなサイラスの顔だった。
「大丈夫?こないだみたいに怖い夢?何だかうなされそうだったから」
こいつの声はやわらかい。穏やかで聞いているだけでホッとする。
ああ、そうか。何故だかわからないけれど何となく夫人に似ているんだ。ぼんやりと回らない頭でそう思う。
そのサイラスの目が見開かれる。ハッとして右眼を隠そうとしたケイは、その腕をそっと押さえられた。
「綺麗だねえ。君はハーフなの?宝石みたいな瞳だ」
ハーフだからオッドアイになる訳じゃない。発症率は低いがケイの場合はおそらく先天性のもの。幸い視力低下は併発していない。うっすらと青みを帯びる黒い瞳は多いが、ここまではっきり美しいブルーと漆黒の闇を持つのは確かに珍しいだろう。
希少価値ゆえ、何度も恐ろしい目に逢ってきた。コンタクトのおかげで隠せるようになり、どれだけホッとしたことか。
こんなふうに、面と向かって綺麗だなんて。それも純粋な憧れを持って。
ケイはどうしていいかわからず、下を向いて唇を噛んだ。
みんなには、黙ってて……内緒にしておいてくれない…か。とぎれとぎれにようやくつぶやく。サイラスは、わかったよとにっこりした。
「眠れない?ボクもここに来てからずっと、眠れなかったり泣いていたりしてたんだ。今は平気だよ?ケイがいてくれるから。ボクが見ているから眠ればいい。怖い夢が出てきたらまた起こしてあげるからさ」
こいつも所詮はただのスケープゴート。代わりの羊が来たから安心しているんじゃないのか?
そう思いたかったのに、サイラスのまっすぐな視線にケイは混乱した。
夫人の仕草など知らぬはずなのに、彼はケイの絹糸のようなプラチナブロンドの髪をなでた。
この温かな手があれば、おれは眠れるのか。
いつしか二人は狭い寄宿舎の片方のベッドで、仔猫のように背中を丸めて眠り込んでいた。
(つづく)
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