#27
#27
初めて迎える寄宿舎での夜。ケイは何度も寝返りを打った。
野良猫生活をしていた頃は、文字通り猫のように誰もいない場所をさまよってねぐらとした。悪夢に蝕まれ、無防備な姿をさらした状態では己の身が危険すぎる。
ハミルトンの屋敷にいれば、あの優しい手がいつでも背中を頭をなで続けてくれた。
いつしか眠りに引きずり込まれるまで。
この新しい環境では、あまりに勝手が違いすぎる。
サイラスはいいヤツだ。それは疑うべくもない。だが、おれの叫び声を聴いてしまったら。
…おれはここで、眠ることさえできないのか…
隠れてそっと外したコンタクトは、枕元にしまい込んだ。オッドアイの瞳を閉じるのが怖い。
昼間の緊張で身も心もくたくただった。なのに疲れすぎて余計眠れないのと、周りの攻撃から自分自身を守り抜くためについてしまった習性からとで、ケイは落ち着かずにいた。
部屋の反対側のベッドからは、気を許し抜いたサイラスの規則正しい寝息が聞こえてくる。
何の危機感もなく眠れる幸せ。
そんな日がおれに来るのだろうか。少しばかり感じたケイの寂寥感。
それでも、いつしかケイは睡魔と呼ばれる忌まわしいものへと、その意識を受け渡していった。
そっと、そっと…。
忍び寄る恐怖を払いのけるだけの手だても力もない幼きケイは、しだいにいつもの見慣れた光景へと近づいていった。
リアルな感触と耳について離れない声。顔中にべっとりと張りついた血と黒い空洞の…瞳。
「うわああああ!!」
絶叫をあげるケイに、よく眠っていたはずのさすがのサイラスも跳び起きた。夜半も夜半、眠い目をこすりながらそれでもケイに近寄る。
「どうしたのさ!?何かヤな夢でも見たの?」
もう既にケイは歯をガタガタ言わせて震えていたが、それでもあわててさっきのタオルを右眼に当てる。この瞳を見られでもしたら、おれは。
声がよほど大きかったのだろう、寮長のウィリーが飛んできた。
そしてベッドの片隅に丸まって怯えているケイを認めると、ふっと微笑んだ。
「さっそくホームシックかい?無理もないよね。大丈夫だよ、僕がついていてあげよう」
そう言いながらベッドへと歩いてくるその様が、血みどろで手を伸ばす母に重なる。
ケイはさっきよりもっと酷い叫び声を上げそうになって、必死に口元を押さえた。歯を食いしばる。
ここはスクールだ。あれはただの夢だ。言い聞かせても何をしても、一度引き起こされた身体反応は止まらない。
おれはここで、見知らぬ少年という名のけものたちに囲まれて狂ってゆくのか。
狭いベッドの上を後ずさりする。純粋な善意で手を広げる心配げなウィリー。
来るな、来るな!!
そのとき、彼の後ろからさもおかしくてたまらないといった顔つきの連中が、こちらを見ているのにようやく気づいた。
あれはローディ。
彼の姿を認めるや否や、すっとケイの体内温度が下がった。ぞっとしたからではない。冷静さを取り戻し、彼らの思考パターンをなぞる。
はん、そういうことか。おれが殴られて恐怖におののいているとこいつらは思いたいわけだな。
皮肉なもので、その瞬間ケイは自分をすっかり取り戻した。
大声を出して逆に笑い出したくなったほどだ。バカバカしい。
吠えたてるキツネほど弱いものはない。その場はぎゃんぎゃんと騒ぎ立て、勝ったつもりで図に乗ってのぼせ上がっているだろうが、しょせん狼の敵にはならない。
確かに野ウサギにとっては恐ろしいものだろう、しかしおれにとっては…ただのカモ。
せいぜい今のうちだけでも、いい気分にさせておいてやるよ。おまえらがどれだけ不利な戦いを仕掛けたのか、おそらく叩きのめされてからでなければわかるまい。
そう思った途端、ケイはさっと仮面をかぶった。わざとらしく痛む頬を押さえるように、右の瞳を隠す。
そしておどおどと、こう付け加えるのも忘れずに。
「ぼ、僕は何も怖いことなんかありません!僕は、誰にも…何にも…」
えっ?と、とまどいがちな表情を浮かべてウィリーは小首を傾げた。それにも大丈夫をくり返す。
ローディたちの薄ら笑いは止まらない。
「とにかく、落ち着いたのなら良かった。心配は要らないよ。誰だって最初は心細いものさ」
あくまでも爽やかに微笑むと、ウィリーは部屋を出て行った。サイラスの肩をぽんと叩き、よろしくねと付け加えるのを忘れずに。
野次馬どもとともに、ローディたちも出ていった。この上なく嬉しそうに。
全員が出てゆくと、ケイはたまらず大きなため息をついた。
サイラスに詫びの言葉を入れ、毛布をかぶる。
もちろん、もう眠ることはできないだろう。
ハミルトン夫人の温かくも優しい手のひら。大人になるということはそれを手放すことなのか。
寂しさを抱え、ケイはオッドアイのまま壁のしみをにらみ続けていた。
日々の授業は退屈きわまりないものだった。
わかりきった授業に答えがすぐに出てしまう数式。なぜこんなにも時間を掛けるかさえわからない。
それでもケイは、目立たぬよう力を抜くように彼らのお勉強に付き合った。
数学教師に当てられて、たどたどしく答えるサイラスに苦笑い。下を向いたケイにすかさず教師は名前を呼びつけた。
「あ、あの…」
何とかわからない演技を続ける。周りからは嘲りの無言の笑い。
目立ちたくはない。しかし単位を落とすわけにも行かない。加減が難しい。
「ハミルトンくんは入って間もないからね。無理はないだろうが、気を引き締めて学習を進めなさい」
殊勝に頭を下げて腰を下ろすと、隣のサイラスはにこやかに微笑んだ。
学食で一人トレーを抱えるケイは、常に冷たい視線にさらされていた。本人にとけ込もうという意識が全くないので、話しかけることもしないからだ。
下手なことを言って過去を探られても困る。必死に叩き込んだクィーンズイングリッシュ。それでさえもいつボロが出ることか。
ほんの数年間、それでも食卓はいつも夫人の温かな笑顔と穏やかな声につつまれていた。陽気な耀司の声がにぎやかにそれを彩る。
元に、昔に戻っただけさ。
ケイはそっとテーブルの一番はしにトレーを置いた。
「隣座ってもいいかい?ケイってばすぐに教室を出てしまうから。捜したんだよ」
後ろから声を掛けられ急いで振り向けば、そこには人の良さそうな表情を浮かべたサイラスがいた。
「僕なんかと関わると、他のみんなから何を言われるかわからないよ?それでなくとも同室だってだけで迷惑掛けているのに」
むっとして彼にははっきりと告げた。他の連中の前では猫もかぶれるが、この善意の固まりの少年に対しては、ケイもどう接していいかわからずにいたのだ。
その言葉に軽い笑い声を上げると、サイラスはにこやかに言った。
「ボクだって友人ができて本当に嬉しいんだよ?あの部屋はこのところずっと一人空いていたし、同学年のケイが入ってきてくれて、ボクがどれだけ喜んだことか」
ケイには彼の真っ直ぐさがまぶしいと感じたのと同時に、確かにこいつが他のヤツと話すところは見たことがない、というイヤに冷静な状況判断が心を占めたことも事実だった。
サイラス・ラングレー…。
ケイは気のいい彼にまでそんな見方しかできない自分が、心底イヤになっていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009 keikitagawa All Rights Reserved