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#26

#26



ロンドン市街から電車で二時間ほどの郊外にあるパブリック・スクールは、規模こそ小さめだが歴史を感じさせる厳かな雰囲気があった。


ハミルトンの屋敷に引き取られ、ずっと家庭教師との学習しかしてこなかったケイにとって、それは初めての正統な社会の集団生活だった。


下町でガキどもを集め、その日の食糧を確保する。そんな破天荒なメンバーばかりのグループを力で統率していたケイだったが、ここではいかんせん勝手が違いすぎた。

それが今までいた生徒たちには、おどおどとした態度に見えたのだろう。子爵とはいえ、現在のハミルトン家の地位がどれほどのものか、彼らにもわかる。階級社会と言えども実際に力のない家柄には、人は寄りつかないものなのだ。


知らぬ者が傍観する限りでは、ケイは一人で狼どもの集団に放り込まれた幼き子羊だった。真実を知る者から言えば、事態は全くの逆で、ケイこそが最強の狼だというのに。


大人しくしていなければ、夫人に迷惑がかかる。彼はめいっぱい緊張してできるだけ気弱な少年を演じた。





「ようこそ。ここは希望制の宿舎があるから後で案内するね」


ケイへと気さくに声を掛けてきた少年は、見るからに聡明そうな広い額に、濃いブロンドの前髪がはらりとかかっていた。

微笑みながらとまどう彼の荷物をさっと持つ。スクールのさまざまな手続きを終え、教師に送られて校舎へと足を踏み入れたケイは、その瞬間から好奇な視線にさらされた。

唇を噛み下を向く彼を気遣ってか、少年は朗らかに言った。


「僕は寮長のウィリアムズ・パークス。ウィリーでいいよ。君の名前は?」


その声の明るさに気後れし、ケイは何も返すことができなかった。それでもウィリーは気にすることなく前をゆく。おそらくそんな編入生などいくらでも見慣れているのだろう。


重厚な建物も、黴びた空気も、ここで暮らしたたくさんの少年たちの複雑な感情と淀んだ想いを抱え込んでいるように感じられた。


年かさのウィリーと別れ教室に入ると、無言の重苦しい圧力に余計ケイの口は重くなった。本当なら今すぐこの瞬間にも、踵を返し、温かいハミルトンの屋敷へと帰りたい。おれにはもうちゃんと戻るべき家があるのだ。


ケイの思いを知ってか知らずか、担任は彼の背中を押して皆の前へとさらし者にした。無論そんな気など欠片もないのだろうが。

冷ややかな視線がケイに突き刺さる。それに精一杯虚勢を張り、あごを上げてにらみ返した。


木製の机と椅子。簡素すぎるほどのそれは、あちこちから悲鳴を上げているようにきしんでいた。声を出さない少年たちが発するほんの少しの身じろぎが、ケイを責め立てる。


寄宿舎で同室になるはずのクラスメートが、隣の席を空けて待ちかまえている。彼だけは穏やかな微笑み。ケイの頑なな心がわずかばかり緩む。


足を進めた彼に、どこからかすっと差し出された底意地の悪い靴先。一瞬で視線を向けるケイがとらえた、口元を歪める悪意に満ちた顔つき。

ケイは咄嗟にそれをかわすと、わざとらしくよろけたフリをしてかかとの部分でそいつの足先を踏みつけた。


「ouch!」


顔をしかめるそいつに、ご、ごめんなさい!としおらしく謝る。


周りの空気が瞬時に凍った。こいつは…敵だと。


黙って席に着くケイに、何の屈託もなく隣席の少年は声を掛けた。


「大丈夫だった?けっこうおっちょこちょいなんだねえ、君は」


のんびりした口調にやわらかな瞳。おれをこれっぽっちも疑ってないのか。この教室の空気が読めないのか。

ケイはなかば呆れて、サイラスと名乗った少年を見つめた。

茶系の赤毛にそばかす。いかにも人の良さそうな地方のお坊ちゃま、か。

コックニーにでも迷い込んでいたら、すかさずカモにしていたタイプだな。ケイはいつもの癖で物騒な想像をめぐらせた。あんなくだらない嫌がらせ、かわせない方がどうかしている。


一風変わった編入生を抱え込んだ教室は、一触即発の気体を充満させたまま何ごともなかったかのようにカリキュラムをこなし始めた。





「…そしてここが寄宿舎に向かう通路。部屋へはあとで同室のサイラスくんに案内させるよ。右側が食堂。早口すぎて説明がわかりにくかったら遠慮しないで…」


ウィリーがてきぱきと校舎内を案内するのを聞くともなしに聞いていたケイは、不意に強い視線を感じて顔を上げた。


さっき足を踏んづけて差し上げたくだらないクラスメート。そしてその取り巻きたち。

おれはこんなところで何をしているんだろう。ケイは殴って済むものなら早くそうしてしまいたかった。貧相な体格の彼らに腕力で負ける気はしない。

しかし彼らはケイをじっとにらみつけると、薄ら笑いを浮かべた。


「これはケイ・ハミルトン子爵殿。先程はどうも大変失礼を致しました。僕が名乗るのを忘れていたので、きちんとご挨拶しておかなければと思いましてね」


くすくす笑いは多分に毒を含んでいる。ローデリック・レイヴィンリーと自らの名を告げたあと、彼は「レイヴィンリーは伯爵位を賜っているのでね」と付け加えた。

のちのちローデリックは伯爵家を継ぐ跡取りだ、と言いたかったのだろう。ケイは拳を握りしめた。


歴然とした階級社会。別にたかがパブリックスクールの狭い空間で、子爵も伯爵もありはしないと思いたかったが、卒業してからあとあとまで学校名はついて回る。何よりもハミルトン夫人に迷惑が掛かる。ケイは自分を必死に抑えた。


「さっきはごめんなさい。あの、ケガはなかったですか?僕はあまり視力が良くないので、本当に申し訳ないと…」


無理に作らせたカラーコンタクトは、確かに目の中で違和感を訴え続けていた。弱々しそうにつぶやくケイに、ローデリックは手を差し出した。


「寮長、あとはクラスメイトの僕らが彼を案内します。早くお近づきになりたいので」


もう友達ができたんだね、ハミルトンくん良かった。ウィリーの声が弾む。


どこまで自らを律して手を出さずにいられるか。ケイが奥歯を噛み締めるのを恐怖の表情とでも捉えたのか、ローデリックらの目が輝く。

もちろんそれは、弱き獲物を見つけ出した喜びにあふれるキツネの瞳。


ばかばかしい、キツネが狼にかなうものか。だがおれは、ここでは何一つ力のない野ウサギ。

ケイは大きく息を吸い込むと、固く目をつぶった。





彼らが案内したのは当然、寄宿舎などではない。ありふれた展開の校舎裏。確かにここならいろいろな意味で死角になるだろう。いろいろな意味で…ね。


六人ほどの同級生に囲まれたケイは、身体をなるべく小さく縮め震えて見せた。

腕を組んでまるで舌なめずりをするかのようなローデリックたちは、見下すような表情でニヤニヤしている。


無意識にケイの中で計算が始まる。一番ガタイがでかいのは、ローディの隣にいるヤツ。そいつまで二歩。まずケリを入れて沈めてから、その横の二人を地面に叩きつける。そこまでで十秒、まあ十五秒は要るまい。あとの三人は逃げ出すだろうから、下っ端らの髪を掴んで引きずり倒す。ローディは最後の最後。恐怖心が一番高まったところで…。


ケイは軽く頭を振ると、物騒だが自分の身体になじんだ考えを追い出しにかかった。初日から何をするつもりだ、ケイ・ハミルトン。おれはここでは大人しく時間をこなすことだけを考えろ。


「子爵ごときが生意気なんだよ。何となく癇に障ってしょうがない。少し大人しくできるように君にはここのルールを教えておこうかと思ってね」


ローディの声を受け、でかい少年が一歩踏み出す。反応しないように身体を抑えるのが辛いほど、ケイの神経は尖りきっていた。できるだけ力を抜く。どこから来ても痛みが最小限になるように。


案の定、彼はケイの真新しい制服の胸ぐらを掴むと、腹部へと一発こぶしを入れてきた。その瞬間だけ、筋肉を収縮させる。実際ケイには何のダメージもない。それでもさも痛がっているかのような演技。彼は地面に転がって見せた。笑い声は大きくなる。


「何だよ、それでもう降参かい?君もずいぶん情けないね」


靴底でケイの端正な顔を踏みつけ、頭上から冷ややかな声を浴びせるローディ。

足ごとすくって、関節技でも掛けてやりたい。力で負けたことなど無いケイにとって最大の屈辱。それでも耐え抜いたのは、ひたすら夫人への思い。




…あなたはこのハミルトン家の正統な後継者なのですから。きちんと学業に励むのですよ…




優しい声が頭に胸に響く。このくらいの我慢、彼女のためならいくらでもしてやる。

おれを愛して、抱きしめてくれる温かい腕のためなら。


「ご、ごめんなさい。僕が何か失礼なことを…し、したのなら謝ります。だから」


たどたどしく、弱々しく。おれは野ウサギ、もしくは子羊。狩られる側であり、文字通りのスケープゴート。

彼らはケイを引きずりあげて立たせると、その頬に平手打ちを食わせた。





「ねえ、大丈夫?ケイって呼んでいいよね。医務室でもう一度手当てしてもらった方がいいんじゃないの?」


サイラスはどうしていいかわからず、頬を腫らしたケイの周りをうろうろするばかりだった。

転んだんだ。その言葉を単純に信じ、初日から何度もこける君のドジぶりも大したもんだけどさと心配する。


…人が良すぎるというか、単細胞というか…


今までよほど恵まれて育ったんだろうな。善意の中だけでぬくぬくと。それはそれで幸せなことに違いない。


ケイは切れた唇からの血を舐めると、その味に辟易した。顔を引いて避けることもできた。ふっと手前で攻撃力を抜くことも。

だが、彼らに見える形で跡が残らなければ、おそらく何らかの不審は抱くだろう。悟られてはすべてが台無しだ。

頬で済めば、あとは彼らに形ばかりでも服従していれば。ケイはため息をついた。


ちょっと待っててと言い残して出ていったサイラスは、手に何やら大事そうに抱えて急いで帰ってきた。

黙ったままふてくされていたケイは、不意に当てられた布の冷たさにびくっとした。


「ごめんごめん、痛かった?少しでも冷やした方がいいかと思ってさ」


サイラスが間近で微笑む。頬には濡らしたタオル。


「あ…ありが…とう」


下町で知り合った連中の荒々しい親愛の情とも、耀司の気さくな心遣いとも違う、素直で温かな優しさ。


ケイは、その真っ直ぐなサイラスの笑顔にとまどいながらも、照れくさそうに笑った。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009  keikitagawa All Rights Reserved

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