#25
#25
床に倒れ込んだクリスを痛ましげに見つめていたケイは、再度の電子音に慌てて廊下へと出た。扮装を解き、カラコンを入れる。手慣れたもので鏡も要らない。
元のハミルトン子爵の姿に戻った彼を見て、耀司はニヤニヤした。
「ずいぶん時間がかかったじゃん。いかがでした?お二人の時間は」
からかいの言葉にぎろっと耀司をにらむ。実際、気持ちは何一つ治まってはいなかった。
気弱な子爵の演技などすぐにできる。普段の彼になら。
なのに、青い瞳のケイはギラギラとした殺気をだたよわせたままだ。
クリスの言葉が、頭から離れない。優しい声が、かき抱いた身体の華奢な手応えが。
「収穫はあったのか」
ブラックの声。似合わないから止めろよ。耀司はまだにやついている。腹が立ったが仕方ない。確かに子爵にはこの声色は似合わないだろう。
耀司は答える代わりに、小型のカメラを振って見せた。
「データはばっちり。この耀司様がヘマをするはずないだろ?それよか、さっさとここから出たいんですが心の準備はいいでしょうかねえ」
はあ、深いため息をついてケイは彼に背を向けた。反射的に攻撃してしまわぬよう、自分自身を弛緩させる。おれはブラックじゃない。ケイ・ハミルトンだ、と。
「お願いだから痛くしない・で・ね。頭蓋骨陥没だなんてしゃれにならないぜ」
はん、こっちだって素人じゃないんだからさ。もうちっとパートナーを信じろよ。第一この作戦考えたの、おまえだろ?
口ではどうの言っているが、明らかに耀司は上機嫌だった。ちっきしょう、あとで覚えてろよ。ケイは来たるべき衝撃に備えた。
「では、失礼して。しばしゆっくり眠っててくださいな」
言うが早いか、耀司は持っていたFNファイブセブンを取り出す。貫通力を落とした民間用モデル。それでも接近戦には十分な威力を持つ。まあ、今必要とされているのは性能ではなく、ある程度の重みさえあれば十分だったが。
がつっ!
ケイの後頭部めがけて、銃が振り下ろされる。日頃の恨みとばかり、かなり激しく。
…いってえ、という声が聞こえたかどうか。ケイはその場に崩れ落ちた。加減はもちろん知っている。これで当分は意識も戻らないだろう。
物音しない屋敷でケイを一瞥すると、複雑な思いで耀司はその場を離れていった。
…どういうことだ。屋敷は襲撃を受け、それでも何の被害もない。犯人の目的は何だ。それよりもいったいこれを仕掛けたのはどっちだ…
スコットランドヤードの一室で、カークランドはあがってきた書類に目を通しながら考え込んでいた。
電子ロックシステムを解除するつもりで、配電盤の一部を破壊したのではないのか。善治郎の部屋に侵入された形跡は確かにある。しかし、何も持ち出されたものはない。
クリスティアナの警備に当たった者だけが倒されているのに、彼女自身の命に別状はない。おまけに呼ばれた子爵までもが、廊下に転がされているとは、な。
どう解釈すべきか、今の段階では情報が足りなすぎる。意図が掴めない。苛立たしさにタバコを取り出すが、オフィスで吸うわけにもいかない。
「分煙だ、禁煙だと、人の思考力まで奪う気か」
立ち上がり、喫煙ルームへと向かおうとしたカークランドは、若い刑事に呼び止められた。
「情報提供者?会う予定も何もないはずだが」
相手はすでに、会議室で彼が来るのを待っているという。
「代わりに訊いておいてまとめてくれたまえ。報告ならあとで聞く」
「それが、『ぜひともダリル・アンドリュー・カークランド警部にお会いしたい』とおっしゃっているのですが…」
困惑気味な若手の言葉に、カークランドは眉をひそめた。
普段めったに遣わない私のミドルネールを知っている、情報提供者だと?
背中にイヤな予感めいたものを感じつつ、足音も高くカークランドは指定された部屋へと向かった。
まさか、な。
あんな派手ななりをした男が、スコットランドヤードの正面玄関を通過できるとも思えん。
実際、素通しのドア越しに見えた服装は、涼やかなベージュのスーツに同系のホンブルグハットをかぶり、おおよそ至極常識的なもの。カークランドは胸をなで下ろした。
しかしフルネームで呼ばれたことへの不安感はぬぐい去れない。
どこの誰だ。情報提供者だと名乗る男は。
「お待たせして申し訳ない。警部のカークランドです。失礼ですが…」
言いかけたカークランドは、振り向いた相手を見て思わず反射的に胸のホルダーから銃を取り出していた。
相手もつい、両手を挙げる。それから、ゆっくり下ろすと甘い声でささやいた。
「ちょっとお、やっぱり職場で見る男は最高ね。オフィシャルな物言いがぞくぞくしちゃう。ねえ、もう一度言ってみて?警部のカークラン…」
相手に最後まで言わせず、警部は銃口をそいつの口の中に押し込めた。
これ以上何か言ったら、本気で撃つぞ!ふごふご言いながら首を横に振っているのは、もちろん、アニーだった。
「何よ!ちゃんとした格好をしてこいって言ったから、こっちの主義主張を曲げて髭まで剃ってきたってのに!!」
だったらついでに髪も生やしてこい!カークランドの怒りは治まらない。
アニーを会議室から引きずり出すと、彼は自室へと連れ込んだ。誰にも入るなと周りに怒鳴る。
「誰がヤードにのこのこ入り込めと言った!?いい加減にしろアーネスト!!だいたいなあ!」
「あんたが怒ってんのは、ダリル・アンドリュー・カークランドって呼んだからでしょ?まだ根に持ってんだから。執念深いったらありゃしない」
くすくす笑いながらアニーは流し目を送る。タバコを取り出しかけたところでカークランドにへし折られる。彼はそっぽを向いてぼそっと一言添えた。
「何よ、アンドリューお・う・じ」
王子と呼ぶなあ!!座っていた回転椅子を持ち上げようとしたところで、コーヒーを持ってきた事務員に抑えられる。
「お、落ち着いてください警部。何でしたらどなたかに立ち会っていただきますか?」
あまりのカークランドの変貌ぶりに、周りの署員たちも笑っていいものか止めるべきか困惑していたのだ。しかし彼らは耐えきれず、なるべく警部に見つからないように肩を震わせた。
ようやく周りを見回す余裕を取り戻し、カークランドはネクタイを締め直した。咳払いを一つすると、事務員の提案に「それには及ばない。下がってくれ」と冷静に伝える。
おそらくドアの向こうでは、私のことをネタにして大笑いしていることだろう。カークランドはそれを思うだけで、腹の虫が治まらなかった。ふざけやがって、すべてはこの目の前の男…男のせいだ!
見るとアニーは誰よりも笑い転げていた。
「パブリック・スクールで王子様の仮装をさせられたこと、そんなにイヤだったの?断れば良かったのに」
「うるさい!!その前に私に酒を飲ませたのは誰だ!?私はな、相手がおまえだからイヤだったんだ!!」
彼は実は強面のくせに、酒にからきし弱い。
学生時代の彼は、一見冷たげだが実は正義感あふれる性格と、その整った容姿から、男子校にも関わらず憧れの目で見られることも多かった。実際、寮長として学校を統率する立場になると、彼はその能力を遺憾なく発揮していた。
そんな彼のお堅い面を少しは崩してやろうと、悪友たちが計画したわる巧みが…。
「ちょっとパーティーでアンドリュー王子の仮装をしてって頼んだだけじゃない」
「私は海軍のパイロット姿だと信じていたし、皆もそう説明したはずだ!だましやがって」
アラお言葉が悪くてよ、王子。くすくす笑いは止まらない。
英国のアンドリュー王子と言えば、王室の一員にも関わらず海軍兵士としてフォークランド紛争へ従事した人物として知られている。
それならばとしぶしぶ引き受けたカークランドに、しっかり酒を飲ませたあげく昔ながらの王子様の扮装をさせ、よりによって姫君役をアニーが受け持ったのだ。もちろん本人の熱意ある希望の元で。
それ以来、彼は王子と呼ばれるのを本気で嫌がり、さらにはミドルネームでさえもめったに名乗らなくなった。スクールの同期たちは未だに陰で「王子」と呼ぶのが当然であったが。
アニーは、いざとなったらあの写真をウェブで公開してやるから、とカークランドをいたぶるのを楽しみにしている。だからというわけでもないが、今一つ彼はアニーに強いことが言えないでいるのだ。
「こんな戯れごとを言いに、わざわざここまで来たという訳じゃないだろうな」
やっといつもの表情に戻ると、カークランドは凄みを利かせた。こちらも暇ではない、情報があるのなら早く言え。
「急がせないでよ。あたし一人じゃ手に負えない。そう思ったから相談に乗ってもらおうとしたの。電話でできる話でもないし、ましてや店で話したところで解決するもんでもなさそうなのよね」
「もったいぶらずとも、金ははずむさ」
お金なんて…。アニーの目が潤むのを、精一杯にらみつける。下手に店で酒を飲まされるよりはマシか。
「言えばいいんでしょ。せっかちな男は嫌われるのよ!」
ふうっとアニーがため息をつく。そしておもむろに切り出した。
「ケイ・ハミルトン卿について、今のところ疑ってるのはアンタだけなんでしょ?」
「一応、貴族様だからな。おまけにあの気弱そうに見える外見と浮ついた行動から、大層なことができる人柄ではないと、皆口を揃えてそう言う。だが、おまえの言ったこの間の」
「二人いるって話でしょ?それだっていくら敏腕警部であろうと、組織で動くからには勝手に調査できるものではない。そうじゃなくて?」
まさに図星で、カークランドは苦々しい顔でコーヒーを飲んだ。まだ上に進言できるほどの具体的な証拠は何もない。
「サラ・ハミルトン夫人はAOKI製の自動車が引き起こした事故に巻き込まれた。恨んでいてもおかしくはない。彼がその気なら遺族たちをまとめることも容易だろう。しかし」
「訴えるだけの証拠があるかどうか、でしょ?素人が事故調査委員会の決定を覆すだけの新しい証拠を見つけられるとは思わないし」
「合法的な方法では、な」
なるほどね。アニーはそこでニヤリと笑った。髭などないスッキリとした顔立ちが、途端に裏社会のそれへと変貌してゆく。
持っている資料を全部出せ。カークランドの声が響く。アニーは薄いブリーフケースから一束の書類を取り出した。
「ケイ・ハミルトンが通っていたスクール時代の調査書よ。これを調べるために何日店を空けたことか」
彼の繰り言など聞いてはいなかった。ページをめくるのももどかしげに、カークランドは書類に目を通してゆく。
その横顔を、満足そうにアニーは見つめていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009 keikitagawa All Rights Reserved




