#24
#24
屋敷の一部分だけがふっと暗くなる。表門を警備している連中には気づかれぬよう。
暗闇の中で耀司はナイトビジョンゴーグルを装着すると、黙って目標箇所へと向かった。
そして、ケイ……ブラックは。
急に部屋の灯りが落ちた自室で、クリスは悲鳴を上げまいと必死にこらえていた。何かの異常、侵入者があったような騒ぎはない。だとすれば、黙っていればじきに回復する。
そう信じたかった。
もしくは万が一、何者かが忍び込んだとして私を狙っていたのなら、声を出すのは自分の居場所を知らせてしまうこと。
暗がりの中で、彼女は何とか身を隠す場所はないものかと手探りで這い回っていた。立っているままではいけない。哀しいけれど、襲撃は一度や二度ではない。
…私は青木の娘でいる限り、こうして見ず知らずの人びとから恨まれ続けなければならないの?…
口には出せない悔しい思い。誰にぶつけて良いのかもわからない。母に言えば傷つけるだけ。義父とはほとんど顔も合わせない。私は会社のことなど、何一つ知らないのに。
消えたときと同じように、不意に灯りが戻った。あまりに急だったせいで、しばらくクリスの視界は戻らなかった。目をしばたたかせる。
「キャス?何があったの?ねえ、起きてちょうだい!キャスったら!!」
気づくと、いつも側にいてくれる使用人のキャサリンが倒れている。クリスは彼女の身体を精一杯揺すって起こそうとするが、目を覚ます気配がない。規則正しい呼吸音が聞こえるだけ。
何らかの薬物で眠らされている?あんな短時間の間に何ができたというの?
ぞくっとクリスは身を震わせた。
灯りは煌々と輝き、まるで何もなかったかのようだった。しかし、今ここで目覚めているのはクリス一人。
いや……、顔を上げるとそこには!!
「!?」
思わず息を飲んだクリスの視線の先には、黒い豊かな巻き髪と黒ずくめの服と、そして妖しいまでの…オッド・アイ。
「ブラック!!」
「へえ、おれの名前もずいぶん知られたものだな。こんな可憐なご令嬢までもが口にしてくださるとは」
ブラックは腕を組み、分厚いドアに背をつけながらクリスを真っ直ぐに見つめていた。
口元には皮肉げな笑み。しかし、何ら殺意の感じられない表情。
瞳の色が違うだけで、これほどまでにイメージが変わるものなのだろうか。
ケイとブラック、いや違うのは瞳の色だけではない。ブラックの持つ激しい想いが、彼の表情を全く普段と変えてしまっているのだ。
求めるものは真実。胸の内にあるのは深い深い憎悪。
クリスには、あのおっとりとしたケイと、今目の前にいるこの男とを結びつけることは不可能だった。
「どうして?あなたも私の命を奪いに来たの?」
震える声でクリスが問う。まさか。ブラックはつぶやいた。
「じゃあなぜ!?キャスに何をしたの?屋敷の者たちには?あなたがしたことなんでしょう!!」
「意識を失っているだけだ。傷つけてもいなければ、まして殺してなどいない。屋敷の外では何も変わらず、警備のヤツらが突っ立ってるよ」
何が目的なの…。こらえきれずにクリスはそう言った。この部屋に価値のあるものなんてない。それにどうして私だけ、こうして彼に向きあわなければならないの?
不思議と怖さを感じない。それがたまらなくイヤだった。大声を出して人を呼べばいい。助けを求めればいい。ここから走って逃げることもできるはず。どれもしようともしない自分こそが一番不可解だった。
黙ってクリスを見つめていたブラックは、つと視線をはずした。彼女が思わずほうと息を吐く。それほど強い、魔性の瞳。
再び目を向けたブラックの表情には、幾分やわらかさが含まれていた。そう、私は彼に助けられたんだわ。そのお礼とお詫びをするはずだったのに。クリスは回らない頭でそんなことを考えていた。
「あの…」
「覚えてると言ったな、あの晩」
低く唸るような声に、彼女は口をつぐんだ。
「おれの顔に見覚えがあると、この…瞳を見たことがあると、な」
ええ言ったわ。きっぱりとクリスは告げた。確かに私は見たことがある。美しい青と漆黒の闇を。
「いつのことだ。それはどこでなんだ?教えてくれ…ないか」
どうして私にそんなことを訊くの?彼女の言葉にブラックの表情が歪む。
「おれはあんたに会った憶えなどない。オッド・アイを見せる機会があろうはずがない。なぜ言い切れる!?教えてくれ!!おれは誰なんだ!?」
思わず吐露した彼の心情。こんなことを言いたかったんじゃない。口にしてから激しい後悔。何も言わなくとも伝わってくるブラックの乱れた感情。クリスは目を見開いた。
「あなたは…、自分が誰だかわからないとでも言うの?家族は?どこに住んでいたの?小さい頃の記憶をたどれば、自分が誰かなど容易にわかるでしょう?いつから…こんな危険なこと…」
「じゃあおまえは、自分が何者なのか、はっきりとわかってるとでも言うのか!?」
冷静に敵の身体を撃ち抜いたブラック。ここへ来たあの落ち着き払った態度。彼が固く目をつぶると、それらの気配がすべて消える。いるのはただ、何かの辛さに耐え続けている一人の…かつての幼い少年。
クリス自身にもわからぬ感情が、彼女を支配していた。
ゆっくりと彼に近づいてゆく。手を伸ばせば触れられるほどまでに。
顔を上げたブラックに、クリスは微笑んだ。
「私はクリスティアナ・オルブライト=青木。母が再婚する前はオルブライト家の一人娘。小さい頃はまだ実の父もいたわ。三人で庭で遊んだことすら覚えている。あなたに会うわけがないわよね。でも、確かに私はあなたを知っている」
「…その記憶は本物だと、どうして無防備に信じ切れるんだ…」
とぎれとぎれの苦しいつぶやき。この人は何に怯えているのだろう。私は私であることを疑ったことなどないのに。
「もっと幼い頃はどうだ。覚えてないだろ?オフィリア・オルブライトが自分の母親だと、なぜ断言できる」
「何度も見せてもらったわ。たくさんの写真には、ほんの小さな私と母の笑顔が。生まれたばかりの私だと、大事にしまい込んでいたアルバムを取り出しては、悲しいときにいつも見ていたの。どんなときも二人で生きてゆけるようにと」
これは本当だった。実父と母が別れ、突然青木の家に入ることになり、たくさんの誹謗中傷にさらされたときも。事故が多発し、人殺しと非難される日々が続いたときも。
そんなとき、決まって母はアルバムをめくるのだった。ほら、このときあなたはね…。
「おれにはない、何もない!小さい頃の想い出も写真も、何一つない!!おまえに会うはずがない!!」
じゃあ今までどうしてきたの?記憶を失ったままで生きてきたというの?激昂するブラックとはうらはらに、クリスは優しく声を掛けた。
「気づけばどこかの保護施設にいた。幼い赤ん坊たちが次々と引き取られてゆくなか、おれは誰からも選ばれなかった。ただ一人残され、そこを逃げるように出た後は、ずっとコックニーで野良猫のように生きてきた。あんたには縁のない世界。下町になど足を踏み入れるわけがない!!やらなければやられる。そこでは力のない者は生きられない。そんな生活など、全く接点もなければ知りもしないだろう!?」
叫ぶブラックの瞳が燃える。しかしクリスにはそれが寂しげに見えて仕方なかった。
「ずっと、そんなふうに辛い思いを抱えて生きてきたの?」
違う…。そばに寄らなければ聞こえないほどのかすれ声。つかの間の穏やかな日々は、AOKIが壊…した。ブラックのつぶやきに、クリスはひとすじ涙をこぼした。
「あなたもAOKIを、そして私たち家族を恨んでいる一人なのね」
不意にクリスは、力強く抱きしめられた。もがいても逃げ出しようもないほど強く。
そこに何ら敵意がないことは伝わってくる。むしろ、切ない哀しみ。
ブラックは黒髪を彼女の肩に埋め、背中に腕を回して胸にかき抱いていた。母を求める幼子…。細身に見えた身体は鍛え抜かれ、服の上からでもその存在を主張していた。
なのにクリスには、微塵も恐怖心すら沸かなかった。
そっと彼の頭に手を乗せ、ふんわりと包み込む。
贖罪のつもりなどない。
彼の肩が細かく震えるのを、だた優しく守り続けた。
そのとき、微かに聞こえた電子音が、二人を現実へと引き戻す。
身体を無理やり押しのけられ、クリスがよろめく。その腕をぐいっと掴むブラックの表情は、もはや先程の弱さはかけらも見受けられなかった。
「ブラック…」
絶句する彼女に、この上もなく冷たげにブラックは言い放った。
「それではお嬢さん、近いうちにまたお目にかかりましょう。今度こそ、あんたから何もかも引き出してやるからな」
私は何も!!叫ぼうとしたクリスは、身体中から力が抜けていく感触にとまどった。
何かの薬物?これもブラックの仕業…?
次第に意識が薄れゆく中で、すべては私を欺くための芝居だったのかとクリスは思い込もうとした。それが真実ではないことを、頭のどこかで確信していたけれど。
ブラックは本当に…。
それきり彼女の記憶はなかった。
(つづく)
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