#23
#23
ハミルトンの屋敷に久々に花が飾られ、夫人の好きだったポピュラー音楽が流れる。ケイにはよくわからなかったけれど、彼女が若い頃にはよくソシアルダンスを踊っていたと聞かされた。
…その頃はこんなにぽっちゃりおばちゃまじゃなくて、もう少し可愛らしかったのよ…
少女のように微笑む夫人に、今でも十分可愛いのにとは照れくさくて言えなかった。十代のおれには。
手慣れたもので、さっとオードブルとメインディッシュを飾りつけると、ケイは一人ワインの栓を抜いた。デザートはちゃんと冷蔵庫で出番を待っている。彼女の好きなベリータルト。
今日だけは、今夜だけは陽気に過ごそう。
毎年そう決めて、ケイはソファに寄りかかって脚を組んだ。自然とメロディーを口ずさむ。
「よう、おまえってば本当に音痴だよなあ。これだけ毎年聴いてて音程取れないって、どんだけだよ?」
いつものように重い扉を難なく開けて、耀司も明るい声を出す。
ケイの顔がひくりと引きつる。てめえにはデザートなしな。冷たい宣告。言ったところで、大食いの耀司にあらかた食われてしまうことは目に見えているのだけれど。
「あーあ、今年も相手がおまえかよ。最悪だな。たまにはとびきりのレディと二人きりでしっとりとだな…」
はっ!鼻で笑いながら耀司は勝手にオードブルに手を出そうとする。その甲をパシリとはたきながら、まだ早いとケイはとがった声を出した。
「まずは神に祈らねば、だろ?」
ハミルトン夫人は誰からも愛された心の優しい女性。今ごろは天国で穏やかに過ごしているだろう。だからこそ神への祈りは、彼女の元へと届く。そう信じている。
そしておれたちは、たとえ命を落とそうとも、生きながらえようとも…ゆく先は常にウェルギリウスの案内する深い地の底。救いなどありようもない。
「いつくしみ深い神である父よ、あなたがつかわされたひとり子キリストを信じ、永遠のいのちの希望のうちに人生の旅路を終えたサラ・ハミルトンを、あなたの御手にゆだねます。
私達から離れてゆくこの姉妹の重荷をすべて取り去り、天に備えられた住かに導き、聖人の集いに加えてください。別離の悲しみのうちにあるわたしたちも、主・キリストが約束された復活の希望に支えられ、あなたのもとに召された姉妹とともに、永遠の喜びを分かち合うことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。」
そっとつぶやきながら、手を組み合わせる。最後のアーメンの言葉はいつも、声にならない掠れたささやき。
しばらく固く目をつぶっていた二人は、あうんの呼吸で顔を見合わせるとフォークを持って臨戦態勢に入った。
「では」
「行きますか!」
二人は、耀司に教わった日本式のいただきますをでかい声で叫ぶと、ケイご自慢のごちそうに突撃していった。
「オードブルも食え!せっかく作ったんだから。耀司!肉だけ拾って食うな!!」
「うるせえ!弱肉強食って言葉があってだな。作ったヤツが責任持って食いやがれ!!」
日頃のマナーも行儀も何のその、すっかり子どもに返った二人は大騒ぎをしながら食事に夢中だ。
そんなときでもかつてのハミルトン夫人は、「まだたくさんありますからね」とほほえましげに見つめるばかりだった。
あえて過去の話も想い出も封印し、二人は陽気にはしゃぎ続けた。
仕込みから丸一日掛けて作り上げたローストビーフも、小じゃれたパテもすっかり食い尽くされ、皿は見事に空になった。がぶ飲みしたワインは、もうすでに三本目が開いている。
「…デザート行くか?」
はなはだだらしない格好でごろりと横になったケイが、耀司に声を掛ける。
普段なら何てことのない量にも関わらず、すっかり酔いの回った彼は首を振った。
「この屋敷ってさ、こんなに狭かったっけ?」
初めて足を踏み入れたときは、天井の高さにおののいたものだ。初めて見る貴族の館。たとえそれが没落した旧名家であろうと、下町の野良猫どもにしたら豪邸にしか思えなかった。
「裁判が終わったら、売ろうと思ってるんだ」
何でもない世間話のように、ケイはさらりと口にした。耀司は彼の顔をまじまじと見つめる。どういうことだ?と。
「ロード(称号)も返上する。それができなければ正統な後継者を捜し出す。そして彼にすべてをゆだねる。おれの最後の仕事はそれだと思っている。この命がそこまで持っていれば、な」
ケイ…。耀司は絶句した。
「おれが何者であるかなど、わからなくたっていいさ。ただ一つわかっているのは、おれは本物のケイ・ハミルトンではないということ。被害者を、夫人の名誉を救うためには必要な肩書きだから今はまだ使わせてもらうけれど、おれはおれでいたい」
戻るつもりか?あの場所へ。耀司の言葉に、それもいいかもなと明るく返す。
「耀司が手に入れたフォトグラファーとしての地位は、おまえの実力だろ?子爵は違う。おれには荷が重すぎる。勝手に舞い込んできた偽りの称号。自分に嘘をつき続けるのには、もう疲れたんだ」
プラチナブロンドの髪が風に揺れる。その下で輝く、オッドアイ。
黙って聞いていた耀司が、重い口を開く。
「そこまでおまえが言うのなら。断っておくがこれは俺の推測にしかすぎない。何の根拠も押さえている訳じゃない。しかし、もし仮におまえの言う本物のケイ・ハミルトンが存在したとして、夫人の事故を知っていたとしたらどう行動すると思う?」
「!?」
ケイは目を見開いた。
「被害者全員の身元調査は、何度もくり返しやってきた。すべて中低層階級のごく普通の庶民だ。あの事故だけを考えて金を出せるとしたら、少なくとも彼らには無理だ。もし、もう一人のケイがいたとしたならば、クリスティアナとおまえを狙うのもおかしな話じゃない。おまえがブラックだと知らないとしてもだ。最初の狙撃事件、あれは完全にクリスだけじゃなくおまえをもターゲットにされていた。もしそうならどうする」
「…依頼人が…本物のケイ・ハミルトンだ…と?」
「その可能性もある、というただの仮定の話だ。気にすんな。おまえがあんまり深刻に考えてるからよ、おれはいろいろな角度から物事を…」
ケイはその賢しげな額に手を当てて、深く考え込んだ。可能性、でもそれが真実ならば。
ふうっとため息をつきながら、耀司は付け加えた。
「じゃあもっと仮定の話をしてやろう。一つの事柄は多角的に考えろと、ボスにさんざん仕込まれただろう?先入観や思い込みは自分の動きをガチガチに狭める」
「どういう…ことだ…」
酔いなど、とうにどこかに消え失せた。今日くらいは何も考えずにいたかった。しかし時は満ち、すべては動き始めてしまっているのだ。
「ブラックとしてではなく、自分自身でさえ知らぬおまえの本当の姿を知っているものがいたら。その敵にとって、おまえが生きていることが不都合であったなら。どういう経緯があったかなど何もわからない。でも少なくとも幼いおまえと本物の両親が、青木善治郎とつながりがあったとしたら、クリスとおまえが狙われるのも荒唐無稽ともあながち言えないだろう」
「おれは何も知らない!!家族は関係ない!!」
問題は敵もそう思ってくれるかどうかだ。耀司が冷たく言い放つ。彼らしくもなく。
「おまえの過去を、そろそろ本気で調べていく必要があるんじゃね?」
耀司はわざとふざけた声で、あっけらかんとそう口にした。デザート取ってくるわ、と言い残して。
優しかったハミルトン夫人、そしてなぜか幼い自分を庇った背中しか記憶に残ってはいない母。
そして、おれの…過去?
細く長い指で顔を覆いながら、ケイはやりきれなさに下を向いた。
クリスはオフィリアの頬にそっと唇をつけると、行ってらっしゃいと声を掛けた。
あなたを残して出掛けるのは心配だけれど、いつまでも家にいるわけにはいかないのよ。
寂しげにそういった母親に、ケイがいるから大丈夫、と気丈にも微笑んで見せた。
多忙な青木の代わりに、オフィリアはさまざまな会合に出ては義理を果たさなければならない。クリスは危険だからと外出を止められているが、家の内外にはセキュリティの強化とボディー・ガードの人員を増やすことで何とか対応しようかと、青木は考えたらしい。
それでも不安を隠せないクリスのために、オフィリアはケイを呼んだのだった。
「僕でよければ何なりと」
にっこりと微笑むケイに対し、オフィリアは「娘の心の拠り所になってもらえれば」と期待した。はなから緊急事態に彼が助けてくれるなどとは考えていない。居てくれさえいれば、クリスが落ち着くのなら。それは特にあの「ブラック」に出会ってから、強く感じていた思いだった。
…信頼されているというか、よほど人畜無害と思われてるというか…
内心複雑な気持ちではあったが、ケイらにとってはまたとないチャンスだ。いかに不自然でなく内部を探れるか。特にあの警部、カークランドと言っていたっけ、彼にだけは気をつけねば。
呼ばれたのはケイ一人。クリスの部屋でケイはオフィリアの帰りを待つことになった。もちろん二人きりではない。お付きの女性と、ドアの外には屈強な男が二人。
倒すのは簡単だ。しかし、ここではあくまでも気弱な子爵を装わなければならない。
隙を見て、中からセキュリティの一部を解除し、耀司を招き入れる。
なるべく異変を外のボディー・ガード達には気づかれないように、中の見張りどもだけを戦闘不能にしておく。
できるだけダメージを与えず、それでも耀司が善治郎の部屋に忍び込んで作業をするだけの時間は確保しつつ。
ケイが屋敷の中にいればこその作戦だった。
「本当なのそれ?今では信じられないわ」
「泥だらけになって遊んで、母からは何度も嘆かれたよ。オタマジャクシを何十匹も捕まえてくるのは止めてちょうだいってね。温厚な母だったから怒りはしないけれど、成長したそれが屋敷の中で跳ね回ったときには、よくあちこちから悲鳴が聞こえたな」
ケイの軽やかな語り口調に、クリスは笑顔で応えていた。来ていただいてよかったとメイドは感謝の言葉を口にする。
何も疑わない彼女らに、ケイの良心がほんの少し痛む。
作戦開始まであと少し。ケイは失礼と声を掛けると、静かに立ち上がった。
廊下に出ると警戒の視線を痛いほど感じる。まずはこいつらの始末だ。できるだけ穏便に、万が一にもハミルトン卿が疑われることのないように。
廊下にわずかずつ、気化しやすい麻酔薬を散布する。ケイ自身が吸い込まないように細心の注意を払う。
声も立てずに男達が倒れ込むのを確認すると、あらかじめ確保しておいたルートから耀司を招き入れる。
ほとんどの警備は外からの侵入を想定しているので、内部は善治郎の部屋のロックだけを解除すればいい。
耀司がほんの小さな起爆スイッチに手を掛ける。ケイは彼と目を合わせつつ、静かにコンタクトを外した。
(つづく)
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