#21
#21
ケイら二人が呼ばれたときには、部屋全体に重苦しい空気が漂っていた。
オフィリアはぐったりと椅子に座り込んでいたし、心配そうに母を見守るクリスは身体をかがめて彼女をのぞき込むようにしていた。
「ご婦人方への取り調べは終わりですか」
ケイがやや皮肉気なニュアンスをこめて警部に言葉を投げつける。
「取り調べとは心外ですな。彼女たちは被害者です。もし仮に犯人を隠匿したり庇ったりしているのでもなければ、ね」
涼しい顔でカークランドはそれを受け流した。ケイの表情がわずかにゆがむ。
そのとき、玄関先で何やら騒がしい声がし始めた。
ドスドスという無遠慮な足音。オフィリアの優雅さや庭の美しさと相容れない騒音。
バタンと急に開けられた大きな扉から、背の低いずんぐりとした男の姿が見てとれた。
ケイと耀司は、思わず息を飲んだ。
青木善治郎。
資料で雑誌で、そしてマスメディアのあちこちでイヤというほど見ているはずなのに、こうやって目の前にするのは初めてだったのだ。忙しさに屋敷になど寄りつかぬ主。
彼はお付きの男どもを従えて、身体に似合わぬするどい目つきで部屋中を見渡した。そしてカークランドを認めると、急に相好をくずし、そばへとすり寄っていった。
「これはこれは、警部さん。お忙しいところお待たせしてしもて。女房と娘の証言は役に立ちそうでっか?」
日本人特有の母音だらけのきつい発音。rもlも区別のつかぬ訛りの強い聞き取りづらいだみ声。それでもたたき上げの経営者である善治郎は、臆することなくカークランドに話しかけていた。
警部と何やら話している姿は見える。確かに網膜に情報は伝わっている。
しかしケイは目眩と吐き気を抑えるのが精一杯だった。足元がぐらつく。倒れてなるものか。その思いだけで立ちつくすのみ。
ガキの悪夢などあてになるものか。東洋人の顔はみな同じに見える。区別もつきやしない。
理性は理屈はそうやって冷静になれと、必死になってケイに呼びかけてくる。
なのに…なのに。
黒いフードの陰に隠された、小柄で陰気な男のぎらつく目。それはただ己の欲望のためならば、手を血で染めようと何もためらわぬ強く醜い意志。
忘れられるはずがない。
ケイの視界をどす黒い血で埋め尽くしたのは、この男。
何の確証もない。そんなことはわかっている!!ケイは自分の理性も何もかもかなぐり捨てたくなった。コンタクトを取り外したオッドアイで睨みつけてやれば、相手は思い出すだろうか。いや、こいつはターゲットの子どもになど興味はなかっただろう。
おれの煮えたぎるほどの想いは、こいつにはかけらも届いちゃいないのだ。
…落ち着け、ケイ…おそらくそんな気持ちをこめて肩に置かれた、耀司の大きな手。
ケイにとって、善治郎はハミルトン夫人を死に追いやったとされる、自動車会社の社長なのか。
それとも、悪夢の中でしか存在しない、記憶に残らぬ本物の両親を殺した犯人なのか。
ふわりとケイが倒れかかる。その瞬間、ようやく彼らのことを思い出しでもしたかのように、善治郎はケイと耀司の方をふり返った。
奴とケイの視線がぶつかる。
ケイは唇を噛みしめながらも冷静さを保とうとした。早く仮面を、今必要とされるペルソナを早く!
無理やり口角をほんの少しばかり持ち上げる。見方によっては笑顔に見えなくもない。荒い息は隠し通せ。はち切れそうなほどの胸にたまる怒りは、そうっと吐き出せ。
こいつが犯人である証拠がどこにある。夢で見ましたと?毎晩こいつの顔を見てはうなされてますと?
偽証罪で捕まるより先に、苦笑いで家に帰されるだろう。君はこのまま病院へいったらどうか、とね。
ケイの苦しい想いを知るよしもなく、善治郎は彼らに近寄って手を取った。
「これは子爵さん、娘を助けてくださったお礼も言わんと。大変申し訳ない。これからもどうか娘と仲良うしたってください」
もうどこか感覚が麻痺していた。触られたはずの手は力が抜け、握り返すこともできなかった。
それを見て取った耀司が素早く善治郎の腕を引き寄せ、自ら握手を求めた。
「ハミルトン卿の友人で、山下耀司と申します」
わざと日本語で。それだってとても流暢とは言えない。何せ彼自身、一度も日本になど行ったこともないのだ。
しかし善治郎は、おお、あなたが有名なカメラマンの!と感嘆の声を上げた。同胞として誇りに思いますよと世辞を言うのを忘れない。
三人のくだらぬ芝居を、カークランドが冷たい目で見つめていることはわかっていた。
大警部様には一生わからないだろうよ。耀司は心の中でつぶやく。
俺たちはこうやって生きてくることしかできなかった。あんたら本物の特権階級の人間と違って、毎日どうやって食い物を手に入れるか、それしか考えられなかった。貴族になりたかった訳じゃない。有名になりたかったわけでもない。のし上がること、成功者になること、そんなことはどうだってよかった。
力のないものは、のたれ死ぬだけ。
それでもいいと思うには、彼らはあまりに強く、生き延びようとする本能と研ぎ澄まされた能力を持っていた。
手負いの野良猫どもが、優しいハミルトン夫人の元でようやく手に入れた穏やかな生活。
そんなささやかな幸せさえ、このどう猛で陰気な男の野望の元に、いとも簡単に壊されてしまったのだ。
すべての線はAOKIにつながる。そしてそれは青木善治郎へと。
「ミスター青木。それではお話しを伺えますでしょうか」
冷酷なほど落ち着き払ったカークランドの声に、何事もなかったかのように事情聴取は再開された。
「ナイトb3へ」
爽やかな声が真白い部屋によく響く。そう広くはないけれども装飾品の全くないホワイト・プリズン(白亜の牢獄)。
「ちょ、ちょっと待ってくれブラック」
焦ったようなセリフの主は、デリック・エマーソンであった。
「…何度でも待ちますが、あなたのクイーンもビショップも大切なキングを守ってはくれそうにないですね。あきらめも肝心ではありませんか?エマーソン大尉」
だから君に黒駒を渡すのは嫌だったんだ。なおも未練がましくブツブツ言い張る。
ケイとエマーソンは、例のオフィスでチェスに興じていた。エマーソンとてかなりの打ち手であったが、いかんせんチェスでケイにかなう者はいない。
「フランス防御(チェスの定石の一つ)に執着する。以前のクセは変わってはいませんね、大尉」
「もう大尉ではないと何度言えばわかるのだね、君たちは」
リザインですか?ふっとケイが少しばかりの笑顔を見せる。
「ああ、もう投了だ。ついでに『The game is over.』だ。満足かね?ブラック」
まだ何一つ終わっちゃいません。黒いナイトをもてあそびながら、ケイは独りごちた。
気づかぬふりで紅茶を一口含んだ元大尉は、わざと視線をそらせた。
「君に会わせるわけにはいかん。それが今までのルールだ。違うか?」
「おれには言えない依頼人というわけですか。よほどの高名な人物か、それともおれの近辺にいるとでも解釈すべきか」
解釈などいらんのだよ、君の知らない人物だ。エマーソンは即座に言ったが、何とも歯切れが悪い。
「向こうは約束を守らずに、おれ以外にもスナイパーを雇っている。大変不愉快ですね」
「他人のことを言えた義理か。なぜあの娘を庇う?」
瞳の見えない黒いサングラスに、くくった黒髪。ラフな服装からはふだんのブラックもハミルトン卿もイメージさえできぬ姿。
ケイはそのフレームをそっと押し下げて、わずかなすき間からオッドアイを光らせた。
「獲物を横取りされて喜ぶハンターはいませんよ」
「三ヶ月も待てる狩り主もおらんだろうがな」
エマーソンは全く動じない。そしてケイ本人も。
「それだけあればすべては終わる。依頼人の欲しがっているのはあの娘の命でしょう?仕事はきちんと果たしますよ。ただ、それは今じゃない。おれが、おれたちが何年待ったと思っているんです?」
「君らの事情と、我々の仕事とは何の因果関係もないと思うがね」
では、この瞬間にでも契約を打ち切りますか。おれたちはフリーとしてAOKIを追う。それならば文句もないでしょう。窓のわずかな光を目で追いながら、ケイはうそぶく。
「それは君らの自由だ。ただし、そのときから我々はお互い敵同士と言うことになる。私は君らと戦いたくはないがね」
おれもあなたに今さらライフルは持たせたくないですよ。思わず苦笑いで応える。
「なあブラック、いやケイ。一つ訊きたかったことがある」
エマーソンはチェス盤のあるテーブルに身を乗り出した。
「青木善治郎やAOKIを合法的に訴えて、そのあと君らはどうしたいのだ?」
裁判は長引くだろう。証拠の入手方法も厳しく問われるだろう。それで裁判に勝てるとでも思っているのかね?彼なりの心配なのだろうか、それとも。
「奴を殺すつもりはありません。おれたちが知りたいのは、…真実です」
エマーソンは自分の頭に手をやると、大きなため息をついた。
「真実が裁判ごときで明らかにされるとでも、君らは本当に信じているのか」
「人を殺めても何の解決にもならない。ならないんです。おれたちは被害者と、事故の当事者とされてしまった彼女の無念を晴らしたい。闇に葬られた真実を、おれたちまでもが闇で片をつけてしまったら、AOKIではない別の化け物を呼び起こすだけ。そうではありませんか?」
それだけではないだろう?少しだけ声が和らぐ。君の悪夢の正体を知りたいのではないかと。
ケイは寂しげに微笑んだ。
「もし本当におれの両親を殺した犯人の一人が青木だとしたら、おれは彼を殺すのでしょうか。そうすれば今度は、青木の娘がおれを殺すでしょうね。おれに係累はいないから、連鎖はそこで止まる。だとしたら一番それがいいのかも知れない」
私が言えた義理ではないがな、ケイ。エマーソンの声は先程の元上官とは異なる感情がこめられていた。
「君にも耀司にも、これから先の未来があるのだよ。君はハミルトン子爵として。そして耀司はフォトグラファーとして、な。このミッションを最後に君らとは契約を解除しよう。今さら君らを止められるとも思えんしな」
思わずケイはサングラスを外し、エマーソンの顔をまじまじと見つめた。
しかしすぐに哀しげな表情を浮かべると、未来など……とつぶやいた。
風もないこの部屋で、所在なさ気な白のクイーンがカタリと音を立て、倒れて落ちた。
(つづく)
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