#20
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自室で頬杖をついていたクリスは、わからぬようにそっとため息をついた。
窓は開けられぬように頑丈に留められてしまったし、ドアの向こうには屈強な警備の男たちが立ちふさがっている。
…これでは、私の方が犯罪者にでもなったみたい…
どこに出ることも許されず、ただこの部屋に居ることを命じられた。義父から。誰に狙われているのか、なぜそれが自分なのか。はっきり言ってクリスにはどうでもよかった。
青木の娘でいるということは、多かれ少なかれそういう目にも遭ってきているのだから。
それよりも。
あの澄み切った空のようなブルーアイと、漆黒の闇。私には確かに見覚えがある。その記憶がどこで何とつながっているのか、今のクリスにはまったく思い出せなかったけれど、胸の一箇所がトクトクと鼓動を速めている。
アノヒトハ、ダレ?
噂に聞くブラックという貴族の屋敷荒らしであることは、あとで聞かされた。でもここには貴重な美術品などない。大げさな絵画もすべてレプリカだ。義父の見栄。
それにあの人は、私たちの命を助けてくれた。やり方は酷く乱暴で残虐だったとしても。悲しそうな瞳をしていた。私の言葉であの人を傷つけてしまったのだろう。彼はああするより仕方なかったのに。
「謝りたい。でも、どうやって?」
誰もいないのはわかっていても、思わず小声になる。
黒い髪は南欧系なのだろうか。でも肌は白く、ゆえに瞳が余計目立っていた。
私は知っているの、あの人を。
そんなはずはない。犯罪者などに知り合いがいるわけがない。否定しようとすればするほど、イメージは鮮明になる。
プレゼントされて以来ずっと身につけている、アンティークのネックレス。落ち着いたルビーの赤が大人っぽくて、私には似合わないと思っていたのに。クリスはそれを見ながら、ケイに逢いたいとふいに思った。彼に聞いてもらえれば気持ちもスッキリするかも知れない。
何を?なんと言って彼に話すつもり?
私はブラックという犯人に会ったことがあると?青と黒の瞳を見たことがあると?あの人がどうしても気になるとでも?
言えるはずがない…。クリスは頭を強く振ると想いを追い出そうとした。
突然携帯が鳴る。私のもの。しかし部屋にいきなり入ってきたボディー・ガードの一人が、すぐさま番号をチェックする。ノックもしないつもり?クリスは悔しさと恥ずかしさで頬を染めたが、必死に呼吸を整えた。この人たちも仕事なのだ。それも私一人の身辺を守るという。
黙って渡された携帯のディスプレイには-k・Hamilton-の文字。
…この人は合格って訳ね…
慌てて電話に出る。物腰の柔らかいいつもの優しい声。どこかホッとした。
「大丈夫かい?知人に聞いてびっくりしてさ」
犯人を刺激しては、と報道管制が敷かれている。表だっては誰も知らされていないはずだ。しかしAOKIを快く思わない者にとっては格好のスキャンダル。ゴシップ誌に流れるのも時間の問題だろう。
このままでは私はともかく、お母様だって参ってしまうわ。いつも明るく笑顔を振りまく母が、あの日以来ふさぎ込んでいる。ブラックの姿を見てからというもの。
いえそうじゃない。すべてはあの瞳よ。
黒い黒い、何もかもを吸い込んでしまうほどの恐ろしい闇。美しすぎて怖いオッドアイ。
クリスは母に相談しようと、ボディー・ガードを引き連れた状態で彼女の元へと急いだ。
「なぜここに君がいるのだね?」
カークランドはあからさまに不快感を表情に出しながら、ケイに問うた。
セリフそのままそっくり、あんたにお返ししてやりたいね。ケイの心情が読めるのなら精一杯の皮肉が聞こえてきたことだろう。しかし彼は気弱な子爵の姿を崩そうとはしなかった。
こいつの前で下手なことはできない。お互いに腹に一物持ちながらの駆け引き。
「わたくしがぜひにと来ていただいたのですわ、カークランド警部。こちらはロード・ハミルトン卿、そのご友人である高名な写真家のミスター・山下。娘とは親しくしていただいておりますの」
まだ青い顔つきで倒れそうになりつつ、気丈にもオフィリアはそう言った。
…屋敷にとんでもない蛇どもを連れ込んでいるのが、わからんのか…
ハミルトンはともかく、山下耀司が裏の姿を持つことは明らかだ。ああ見えてアニーの調査能力は信頼が置ける。そうでもなければ、あいつの顔などわざわざ見に行くものか。
カークランドはなぜか背中にぞくっとしたものを感じながら、口元を歪めた。
いつの間にか子爵は、抜け目なくクリスティアナ嬢の左手を握りしめ、彼女を支えていた。
そういうことか。青木は貴族の称号をうまく利用しようというわけだな。さあ、こいつが何者かじっくり見せてもらおうか。
カークランドの思惑と裏腹に、ケイはおどおどと辺りを見回しながら怯えたナイトの役を懸命にこなしていた。
少し落ち着いてから、ということで延び延びになっていた詳しい事情聴取を屋敷で行うことにし、関係者を集めた。
はっきり言ってこいつらにだけは聞かれたくない。しかしいくらカークランドとて、確証のない貴族に向かって帰れと言うだけの権限はない。本人の能力や階級、家柄がどうであろうと、ここでは彼もただの一警察官でしかない。
「大変申し上げにくいのですが、ハミルトン卿とご友人には席を外していただけませんでしょうか」
その言葉にクリスは手をぎゅっと握り返したが、ケイは大丈夫だよと言いたげに肩を優しく叩くと、そっとその場を離れた。
彼らが出ていったのを確認してから、すかさず女性警官が、クリスティアナとオフィリアの身体を金属探知機と触診でチェックする。盗聴器がないかどうかだ。
彼女がうなずくのを見てから、おもむろにカークランドは切り出した。
「失礼な言動があったらお許しいただきたい。単刀直入に伺います。あなた方を助けた黒ずくめの男に見覚えは?」
その言葉に二人とも黙って首を振る。もちろん知らないという意思表示。
「知らないはずがない。私はそう思っておりますが」
冷ややかな響き。相手が社長夫人であることも令嬢であることも気に止めていないカークランドの態度に、クリスは眉をひそめた。
しかしオフィリアの反応は違っていた。おもむろに立ち上がると、彼を思いきり睨みつけたのだ。
いつも明るくその場を盛り上げる、上品でありながら愛嬌のある彼女の豹変に、誰よりもクリスが驚いた顔で母を見つめた。
「言葉は要りませんね。少なくともミセス青木はヤツをご存じというわけですか」
タバコを取り出しかけて、ほんの少し未練ありげにカークランドはそれをシガレットケースにしまい込んだ。ここで吸うわけにもゆかぬ。その代わり、視線をオフィリアに移して薄く笑った。
「し、知るわけがないでしょう!!なぜわたくしがあのような男を知らなくてはならないの!?あなたのものの言い方があまりに失礼だからですわ!!」
精一杯虚勢を張ってはいるが、彼女の行動はあまりに不自然だった。
「ではなぜ、美術品の窃盗常習犯であるヤツが、あなた方を助けなければいけないんでしょうね。意味がない。それも通りすがりに車の故障を直した程度ではない。文字通り命がけで。ミセス青木、もう一度お訊きします。あなたとヤツの関係は?」
今にも卒倒しそうなほど身体を小刻みに震わせて、オフィリアは怒りをあらわにした。
わたくしの方が教えていただきたいですわ!!と叫びながら。
「…お母様」
クリスがそっと彼女の肩を抱きかかえる。荒い息を整えるようにオフィリアは、クリスにもたれかかった。
意外だったな。オフィリア・オルブライトの詳細な調査も依頼する必要がある。いや、どちらかと言えばその方が近道かも知れん。
カークランドは満足のいく収穫に、一人うなずいた。
となりの部屋では、愛用の一眼レフの手入れをしながら右足でリズムを取る耀司が、耳元の音楽に熱中していた。薄い音楽専用再生機は、先程イヤというくらい警官に調べられたが、取り上げられずにはすんでいる。
見破られるようなヘマはするかよ。心の中で苦笑い。表に聴こえるのはただのパンクロック。しかしもう一本の細いコードの先には、デジタル信号で隠し録りのできる耀司お手製の特殊機材。瞬時に切り替えれば、取り調べの様子が手に取るようにわかる。
ケイは涼しい顔で文庫本を読んでいた。時間がかかることは承知の上。黙って待つのにも限度はあるし、警官どもに囲まれた中で会話をするのも憚られる。
お互い関心のなさそうな二人に、警備の警官どもも気を抜きかけていた。
ふいに、耀司の目が険しそうに歪む。気づかぬふりをしながらも、そちらに視線を送るケイ。
耀司の口元がほんの少しの動きで何かを伝える。読唇術。
「オフィリア」その単語だけが大きな意味を持つかのようにケイの目に飛び込んできた。
やはり彼女は何か…。
ナゼハミルトンキョウヲヨンダノカ。疑われているのか。あの警部は要注意だとは思ってはいたが。
ヤマシタヨウジニハキヲツケタホウガイイ。耀司の表情に緊張が走る。
彼は何かを掴んでいる。万が一にも、正体がばれるようなことがあってはならない。ここまで来たのだ。ギリギリとわからぬように耀司が歯を食いしばる。
警部が相手をどんどん追い詰めてゆく。彼を敵に回すとなると手強いな。いざとなれば、強硬手段をとることも視野に入れなくては。
鏡に映った耀司の口元を、ケイはそっと見つめ続けた。
強硬手段。おれに何をしろと言いたいんだ?答えのわかっている辛い問いかけ。
まだ襲撃犯の目星もつかない。それよりもクリスへの殺害依頼を命じた人物さえ、手がかりもない。耀司たちは焦りを感じていた。
彼女が殺されてしまう前に、何としてでも合法的にAOKIを訴えなければ。
意味もなく人が殺められる。もうそんな負の連鎖は必要ない。
矛盾してるな。心の中の苦笑い。そのために俺たちは自らの手を汚し、こうして犯罪に荷担し続けるのか。
何のために?
何の……。
耀司のヘッドフォンに足音が近づく。彼の背中を冷たいものが通り過ぎていく。
ばれたのか。
「お嬢さん、このネックレスはどなたから?拝見してもよろしいですか?」
カークランドの冷たい言葉。冗談じゃない。そこに仕掛けられた盗聴器を発見でもされたら!
パンッ!手を払いのける音が響いた。オフィリアの精一杯の怒りを抑えた声。
「これはオルブライト家に代々伝わるものです。わたくしがこの子に譲った大切な品ですのよ!そのような手で触らないでくださいませんこと!?」
カークランドの冷ややかな表情が容易に想像できた。
耀司はヘッドフォンを耳からはずすと、用心のためにカメラ機材の奥へ、ぐいっと押し込めた。
(つづく)
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