#2
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閑静な住宅街は、いかにも高級感あふれる歴史を感じさせるような建物が整然と並んでいた。
その一番奥に、ほとんど目立たぬようにひっそりと建っているのがハミルトン子爵邸だった。貴族の屋敷とはいえ装飾もほとんどなく、部屋数も少ない。今となればそれがある意味救いだったが。
橋を一本渡れば、もう庶民的な住宅がひしめいている。
耀司はいつものように、そこだけは重厚なドアを勝手に開けて陽気な声を上げた。
「よお!ケイ。おまえってば、ここに来るたんびに掃除してんのな」
「うるさいんだよ!仕方ないだろ?使用人をやとう余裕なんてないんだから」
ケイは柔らかな髪をいつもより上の方でくくり、必死にモップを掛けていた。白いシャツは腕をまくり、もちろんふだんは綺麗にプレスされたスーツのスラックスもめくり上げられ、すべらないように白いスニーカー姿。
耀司はわざと、空の手で写真を撮る真似をした。
「グラシアあたりの女性ゴシップ誌にでも売りつけるか。人気が出るぜ、そのイケメンでその格好ってところのギャップが、カワイイーってな」
「はん!おれの顔が売れてどうする!?仕事がやりにくくてしょうがないだろうに」
耀司はくすくすと笑い声を上げながら、手伝うでもなくその辺のソファにどっかりと座り、何でもないような声で付け加えた。
「そのお仕事ですがね、別件で臨時にお願いできますか?できれば今夜」
ケイはふいにモップの手を止めると、耀司の見えない方向へ大きくため息を吐き出した。そして手にしていた掃除用具を放り出すと、へいへいと、あまり行儀よいとは言えない返事をかえす。
「臨時のお仕事はオプション料金がつきますが、それでもよろしくて?」
ソファにわざとしなだれかかって見せると、ケイは商売女のような声を出した。耀司がその瞳の中をじっと見つめる。
「カラーコンタクトってヤツは、至近距離だと透けて見えちまうんだな。気をつけた方がいいんじゃね?」
「……どう見えるって言うんだよ」
一転して、低く唸るような声。耀司は今さらケイの変化には驚きもしない。
「漆黒の闇のようなブラックアイを、澄み切ったブルーにするのは無理があるって言ってんだよ。どうせならふだんから、どっちも黒にしとけばよかったのに」
「ド金髪で由緒だけはある子爵様が、ブラックアイズか?ふざけんな」
カラコンはな、目が乾いて辛いんだからな!ケイはぶつくさ言いながらそばの手洗い場に向かう。
程なくして戻ってきた彼の瞳は、美しく神々しいまでのオッドアイだった。
左眼は明るく光るスカイブルー、そして右眼は漆黒の闇。それは彼の生まれついての奇跡的な芸術品。
ブルーのコンタクトを入れていた右眼を揉みほぐすように、長い指でなぞる。本来の黒い瞳が輝く。
「ほんの数年でカラコンの品質も上がったけどな。がっこー行ってる間は辛かったな」
「パブリック・スクール時代か?」
「は…、コックニーの小汚いガキがパブリック・スクールなんてさ。ハミルトン夫人もそんなとこに金掛けるから、おれがこうやってあとで苦労するんだよ」
ハミルトン夫人か、気のいいおばちゃんだったよな。耀司の声がほんのわずか湿り気を帯びる。俺みたいな無名の自称写真家を気に入ってくれて、よくメシを食わせてもらった。
「あの人は疑うってことを知らなかったんだから。本当に貴族のおひいさまだよね。金があるうちはいいさ。ひとたび没落すればこの通り、誰も寄りつかなくなる」
二人とも無言だった。夫人への想い出はそれぞれの生き様にもつながるから、よけい切ないのかも知れない。どこをどう間違えて、おれたちはこんなことをしているんだろう、と。
「さてっと、それじゃあオプション料金つきのお仕事の概要を、説明していただきましょうかね、ミスター山下?」
わざとふざけた声で言いながらケイがソファをまたぐ。行儀が悪いも甚だしい。その声に、耀司は骨董品級のテーブルへと、ある屋敷の見取り図を広げた。
黒ずくめの伸縮性のある服に、黒の手袋。靴は音のしないしなやかなラムスキン製。ケイは手袋の端をぎゅっと引っ張ると、袖のボタンを留めた。ふわりとしたブロンドの髪をきつくひっつめ、その上から長い巻き毛のウィッグをかぶる。決して途中で取れないようにと、あちこちに頑丈なピンで留めるようになっている。
なぜこんな手間を掛けるかと言えば、作業中に毛髪が一本でも落ちれば、致命的な証拠を残すことになる。こうしていつも同じ人毛のウィッグならば、今ごろはすでにスコットランドヤードに、架空の犯罪者ファイルが一つ作られていることだろう。
シルエットも、ふだんのケイ・ハミルトン卿とは似ても似つかぬ姿。
彼は仕上げに、大きなゴールドのピアスを右耳につけた。
「そこまでコスプレしたいんだったら、マントでもかぶれば?」
茶々を入れる耀司にうるせえと小声で返し、オッドアイの悪魔はニヤリと笑った。
今やどこの貴族も台所事情は似たようなものだ。よほど由緒正しき、王室へとつながるような、また大領土を所有している立派な貴族様ならいざ知らず。
ある伯爵家は、自宅を美術館に改造して入館料をぶんどっているし、他の侯爵様は豪華を売り物にしたホテルとして開放している。
だからそんな映画に出てくるような、部屋中にレーザー光線を張り巡らした赤外線センサーをつけた屋敷など、そうそう有りはしない。もちろんセキュリティ会社と契約しているところがほとんどだから、下調べは入念に行う。その担当は、いつまで同じ場所で粘っても怪しまれない有名写真家の耀司の仕事。
そして、実際に屋敷に忍び込んで依頼品をいただいてくるのが、通称「ブラック」…ケイの役割だ。
身軽さと傭兵時代に身につけた技術で、彼は高い壁でも門でも細いダイナミックロープ一本で登ってゆく。
今回のターゲットは美術館仕様の屋敷だったので、陽の高いうちに目星をつけておいた窓にもう既に切れ込みは入れてある。あとはそこから、侵入するだけだ。
音を立てずに軽々と塀を跳び越えたケイは、そのまま壁を垂直に登り始め、目的の部屋へとあっさり入り込んだ。
念のための対赤外線ゴーグルを装着する。高性能ビデオ部品を改造した赤外線探知機を腰にくくりつけ、接続してある。
もちろん、部屋の一箇所だけにセットされている防犯用レーザーをよけるためと、自らの目に光線が直接当たるのを防ぐためだ。
「防犯に金をけちると、こういう羽目になりますよっと」
ケイは皮肉げに独りごちると、ちょうど人の頭の高さにセットしてあったレーザー光をよけるように、ぱっと壁を蹴った。
決して狭くない一室には壁一面に美しい絵画。どれもこれも歴史的価値はあるが、オークションに出しても買い叩かれるであろう代物。それならば何もわからぬお上りの観光客に見せびらかす方が、ずっと金は入ってくるだろう。
ただ一つ、中央に置かれガラスケースに入れられた本当に小さな天使像を除けば。
いくら金を積まれても、この所有者が手放そうとはしない唯一の貴重な文化財。だからこそ欲しくなるヤツも現れるわけで。
なぜ欲しいのか、そんなことはおれには関係ない。おれはただ、言われたとおりこの美術品を手に入れて依頼人に渡せばいい。
これはゲームだ。
ケイはそう自らに言い聞かせ、ガラスケースに近づいていった。案の定、ケースの周りに何も防犯的処置は取られていない。
細いガラスカッターを取り出すと、ケイは慎重に上部の周辺に傷をつけていった。一周したところで、軽く指で押す。斜めになった一枚の板をそっとはずす。
彼は背中に背負っていたワンショルダーの薄いバッグから、おもむろに鉄の塊を掴みだした。
「時間があれば、このお美しい天使様の贋作を作って差し上げたのに」
独り言を言ってはくすくす笑う。オッドアイの悪魔は楽しげに作業を進める。
この天使像の土台は、重量センサーがついている。重みがなくなれば途端に防犯ベルが鳴り響き、警備会社に連絡が行くことだろう。
ここだけは真剣な表情で、ケイは二つの物体を瞬時に取り替える作業に入った。
許されるタイムラグは、0.5秒か、それとも……。
狭いガラスケースの中で長い指を器用に操り、彼は天使像と鉄の塊を真横に並べた。すっと、鉄を置くと同時に像は引き上げられる。
ベルは鳴らなかった。
ほうっと、思わず息をもらす。ケイは天使像を柔らかいセーム革で包むと、丁寧にバッグにしまった。
仕事が終われば長居は無用だ。来たときと逆の順序でやすやすと部屋から出てくると、彼はダイナミックロープを器用に木に巻き付け、そのまま塀を蹴り、やわらかく道路へと着地を決めた。
わざとらしく音も立てずに耀司が拍手をする。それを下から睨め付けるようににらむと、ケイはニヤリと笑った。
耀司の車の中で変装をとき、自宅まで送られたケイは大きな扉を開ける。
…子どもの頃は、一人で開けるのもままならなかったな…
ほんの少しの感傷。そんなときはあわてて足音が飛んできて、中から夫人が迎えてくれたのだ。
軽く頭を振ると、彼は古い記憶を打ち消そうとする。
誰もいない、ケイにとってはだだっ広い屋敷。音一つすらしやしない。まとっていた衣類をその辺に脱ぎ捨て、靴さえ放り投げる。どうせ明日も誰が来る訳じゃない。今夜の急な仕事で身体はくたくたに疲れているに違いない。
このまま深く眠れ。何も考えずに。
タンクトップにボクサーパンツというラフすぎる格好で、ケイはベッドに倒れ込んだ。シャワーすら浴びずに、目を閉じて眠りにつく。
今夜こそ、今夜こそ朝まで静かに眠れたら。
規則的な呼吸音だけが、たった一人の部屋にわずかに響いていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved