#17
#17
どんな延命措置をとったところで、もって三日。残酷でもそれが現代医療の限界だと宣告された。
しかも、そのためには高額の治療費がかかる。いくら重大な交通事故だとはいえ、被害者は夫人一人ではないのだ。
どのみち彼ら二人で決められることではないと、いったん屋敷に戻ったケイと耀司が見た光景は、信じがたいものだった。
ふだんは夫人の一人暮らしで、ちょくちょく耀司が訪ねていくだけのはずの家に、見知らぬ人間どもが声を荒げて口論していた。
あわてて部屋に入ると、耀司が止める間もなくケイは大声を出した。
「何なんだ、あなたたちは!?ここは僕の家だ!!誰の許可を得てここへ入り込んだ!?」
そのまま磨き抜かれたテーブルに両手をバンと叩きつける。一瞬だけの静寂。
中央にいた背の高い紳士が、ゆらりと立ち上がった。
「あなたこそどなたですか?ここはハミルトン家の屋敷ですよ。何かお間違えでは?」
ケイはその瞳を見開き、表情を凍らせた。ダレナンダ、コイツラハ。
耀司が静かに前に出る。彼の友人だと断って。
「彼はご存じのとおりケイ・ハミルトン子爵です。今現在、ハミルトン夫人は危篤状態です。悪い冗談はやめてもらえませんか?」
あなたですか、しち面倒くさい爵位を継いでくださった、どこの馬の骨ともわからぬケイを騙る息子さんとは。紳士の言葉にその場にいた男女らへ失笑が広がる。
思わずかっとなるケイの肩を、耀司はぐっと押さえた。ここで怒鳴っても意味はない。
先代のハミルトン子爵の弟だと名乗った紳士は、冷ややかな目で彼らを見下した。
「誤解しないでいただきたい。何も我々は君がニセモノだと糾弾しに来たわけではない。こんなやっかいな子爵位を継いでくださったことには、感謝しているくらいですからな」
まあまあ、皆様落ち着いてくださいまし。恰幅の良い年配の男が穏やかそうな声を出す。
「継承問題については、あのとき既に彼が本物の息子さんであると皆様お認めになったでしょう?今はそのことよりも今後のことを考えていただくためにここへお集まりいただいたわけでして」
申し遅れました、わたくし弁護士の…。差し出した名刺には目もくれず、ケイはギラギラした眼で辺りを睨め付けた。
「今後のこととはどういうことですか?あなたたちは何がおっしゃりたいんですか!?母の見舞いにすら来なかった人たちのくせに今さら!!」
「決まってるじゃない。この屋敷含めて、あたくしたちでどう遺産を分配するかという話よ。まあ、大したものはないとわかってはいるけれど、いただけるものならきちんともらっておかなくてはね」
真っ赤なルージュだけがぱくぱくと動く様を、ケイは呆然と見つめていた。遺産…、遺産て何のこと、だ?
「遺産などありません。母はまだ生きているのですよ?屋敷も土地もすべて売るつもりです。母にはこれから治療費が必要なんです。これほどの方々にお分けできるものなど何もありません!!」
我々が何も知らないとでも思っているのかね。冷たい響きの声は続く。
「脳死に近い植物状態。どんなに治療を施したところで二、三日と聞いているが?そんな状態で病院へ金をつぎ込むバカがどこにいる」
意識が戻ることはないんでしょう?生きている意味などないじゃない。甲高い女の声。子どもの戯言など聞いていないで、さっさと事務的な処理を進めてしまいましょうよ。喧噪が始まり出す。
たまりかねてケイは、ローテーブルを思いきり足で蹴り飛ばした。上に載せてあった細々とした書類とともに。
「やめろ!ケイ!!」
羽交い締めで止める耀司を振り切るように、身体をよじる。
大人達は急いで立ち上がると、あわてて壁へと避難する。
「いい加減にしてくれ!!母はまだ生きているんだ!!たとえ意識がなくとも、これから先、一生目を開けなくとも、そこに居てくれさえいればいい!!まだ温かい血が流れている人間なんだ!!僕の、僕の大切な母だ!!僕から奪う気か!?僕から…ぼく…か…ら…。みんな出ていけ、早く…早く出ていってくれ!!ここの当主は僕だ!!」
握る手は温かい。もう二度と僕の髪をなでてはくれないかもしれない。それでも、母の体温を感じられるならそれでいい。
目を開けて「お帰り」と言ってくれないのが現実だとしても、まるで少女のように頬をほんのり染めて、眠っている母の姿を見られるだけでいい。
もう僕は誰も失いたくない!!二度と、ニド…ト?
僕は誰を失ったというのだろうか。ケイの頭がどくどくと音を立てて脈を打ち出す。目眩がして足元が危うい。
それでも、ここだけは守らなければ。夫人だけは、母だけは、僕が守り切らなきゃならないんだ。今度こそ!!
「…話にならんな。それでは義姉とのDNA鑑定でも行うか?今からでも君と義姉の親子関係を否定して、身ぐるみはがして君を追い出すことも可能なのだよ?よしんば本当に君が本物の息子であったとしても、鑑定書を発行してくれるのは我々の仲間だ。それでも君は闘うつもりか?たった三日ほどの、義姉が生きている間に」
ぞっとするような冷酷な言葉。これがハミルトン家の血筋だというのか。
ケイは強く唇を噛みしめた。
「悪い取引じゃないと思うけど?屋敷ぐらいは残しておいてあげてもいいわよ。何の価値もない、税金ばかりかかるこんな家。縁起が悪くて住みたいとも思わないしね」
女の高笑い。その向こうで夫人の宝石箱をあさる女ども。
「めぼしい石はないわねえ。このルースとダイヤくらいかしら。分けるのなら三人で平等よ?」
宝石屋を読んで鑑定してもらわなくては。家具も絵画も、高いものはとうに先代の子爵が売り飛ばしてしまったから。まるでスターのゴシップでも話すかのように、何の痛みも感じず会話を進めるニンゲンの形をしたけだものたち。
ハゲタカ、いや、ハイエナ。
死肉をかすめ取るハイエナこそが、彼らの尊称にふさわしいだろう。
ハミルトン夫人は、それでも一週間呼吸を止めることなく生き続けた。
朝日が昇るというまさにそのとき、看取っていたのはケイと耀司ただ二人。
葬儀には、ハイエナどもの誰一人として参列しなかった。遠慮がちに下町の住人らが花をたむける。
ケイにはもう、涙を流す気力さえ残されていなかった。
何もなくなった、がらんどうの屋敷に二人座り込み、何時間もそこでただ黙り続けた。
耀司が何の気なしに手にした新聞には、警察の事故調査結果が載っていた。
最初事故を引き起こした女性の乗っていた「flora」には、何の欠陥もなく、従ってそれまでAOKIが自主的に進めていたリコールを打ち切るという公式の発表。結局すべては、彼女の運転技術の未熟さから来る操作の誤りが原因であると、結論づけている。
操作の誤り?たった一人の若い女性に責任を押し被せるのか。死者は何も反論できない。ならばなぜ、120kmものスピードが出たのだ?ブレーキ痕がなかったのではないのか?
事故の直後、彼らの知らぬところでAOKIの全車種に対する安全性への疑問が噴出していたのではなかったのか?
耀司は新聞を握りしめた。何かがおかしい、どこかが違う。それが何なのか若い彼にはわからない。しかし、、このやり場のない哀しみと怒りをどこへ持ってゆけばいいのだろうか。
そのとき、ずっと押し黙っていたケイが口を開いた。
「どうした、ケイ?」
そっと視線を向ける。細い身体がもっと細く見え、彼らのときがまだ動いていないことを伺わせた。
しかし彼の口調には、少年らしさも、あどけなささえも、微塵も感じさせない厳しさがあった。
「…からが欲しい」
歯を食いしばり、その間から吐き出すようにつぶやく。えっ?と訊き返す耀司に、今度は顔を上げてはっきりとケイは言った。
「力が欲しい。あいつらに、ハイエナどもに負けたくない。夫人を見殺しにしたあいつらと、こんな大事故を引き起こした連中を、僕はこの手で殺してやる」
「ケイ!おまえ…」
「事故車を運転してた彼女じゃないんだろ?本当に悪いのは誰なのか、僕は、いやおれは必ず見つけ出してやる。本当に憎むべき敵は何なのか、必ず、必ず!!なあ耀司!おれに力をくれよ!!闘えるだけの力をこの手に、頼む!!おれは……」
あとは、言葉にならなかった。
力などない。それは痛いほど二人ともわかっていた。
何もかも失って、残されたのは空っぽの屋敷とコックニー育ちの二人だけ。
力が欲しい。闘えるだけの。
その想いだけがケイを支えてきた。
どれくらいのときが経ったのだろう。耀司は薄暗い車内の中でようやく目を開けた。
ここまでやっとたどり着いたのだ。もはや二人は、丸腰で膝を抱え、震えている子どもらじゃない。
もう一度耀司は、後ろを振り返った。
スカイブルーアイと漆黒の闇のような瞳。オッドアイの悪魔の胸にある想いは、いったいどんなものなのだろうか。うかがい知れないポーカーフェイス。
俺たちはあのときから、人の心すら捨ててしまったのかも知れないな。
お互いの時計を合わせ、視線だけで意思の疎通を図る。
「さあて、行くか」
ケイのその落ち着き払った態度に、耀司はほんの小さくため息をついた。
(つづく)
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