#15
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それから何度か口実を作っては、彼ら二人で青木家を訪れた。シャイなクリスにとっては、ケイと二人きりよりも三人で会う方が気楽なのだろうと、オフィリアも耀司を歓迎した。
若い年代の持つ華やかな笑い声が久々に青木家の屋敷にも弾けるようになり、母としては心からホッとしていたのだ。
ケイがクリスを庭へと連れ出す。そのほんの隙をついて耀司が配電室に入り込む。いくらセキュリティの厳しい屋敷とはいえ、たかだか電気系統を管理する部屋にまで監視カメラを設置したりはしない。常に点検も行われるだろうし、そもそも屋敷内部に入り込むことが難しいのだから。善治郎の部屋だけが厳重なのは、それだけ部下も家族をも信じてはいないのだろう、本人が。
耀司はそこに、小型の爆薬を仕掛けた。証拠も残らぬほどの小ささ。調べても原因不明のショートとして処理されるはずだ。
彼がフランスでの部隊に所属していた頃、いくらでもさせられてきた作戦の一つ。
エマーソン大尉率いる特殊部隊は、表だった活動は何も公表されず、現実にはほとんど情報機関の実務を担当してきたというのが内情だったのだ。
敵側の基地あるいは重要な建物に忍び込み、情報をかすめ取る。そのための工作部隊。
耀司は手先の器用さを買われ、腕のいい後方支援部員として作戦に従事した。
そしてケイは……。
ここを破壊すれば、屋敷中のすべての電気がやられる。もちろん入り口の電子ロックも、善治郎の書斎にあると思われる重要機密書類のキャビネットボックスの施錠も。
デジタルデータをあくまでも信じない善治郎は、大切な設計図面などの書類を必ず印刷させた上で自宅に保管している。そこまでは耀司が調べ上げた。
…皮肉なもんだ。そこまでデジタルを信じないのなら、セキュリティだって昔ながらの錠前にでもすりゃあよかったんだ…
いくら耀司やケイが腕のいい工作員だったとしても、錠前破りだなんて古くさい技術を持っているはずもない。苦い笑い。
黒いワンボックスの中で、耀司は後部座席を振り返った。着替えをすませ、手袋をしっかりとはめるケイと目が合う。
「よう、コスプレ王子。準備はいいのかい?」
巻き毛の黒髪を揺らし、妖艶なオッドアイがきらりと光る。ケイはその瞬間からブラックへと変わっていた。
「センスないね、そのネーミング」
薄笑いを浮かべて吐き捨てる。その表情はいつもの仕事とは違うように見えた。
緊張でもしているのか。口にすればけんかっ早い彼のことだ、殴られるだけですむかどうか。
耀司は心の中でつぶやくにとどめ、視線を屋敷へと戻した。
今夜は闇夜、屋敷に家族はいない。
青木善治郎は相変わらず会社へ詰めているし、夫人と令嬢はやや遠方のパーティーにお呼ばれだ。泊まりがけで帰るのは明後日。そう調べはついている。
決行日は決めてあった。新月の夜。警備も手薄。
ふと気付くと耀司自身もハンドルに掛けた指先が冷たくなっていた。
緊張しているのは俺の方か。不意に笑いがこみ上げる。
ようやくここまで来たのだ。青木を、いや英国で業績を伸ばす日系企業AOKIを追い詰めるこの日が。
忘れられるはずもない光景。耀司はそっと目をつぶった。
「わざわざ駅まで迎えに来なくたって!」
憎まれ口を叩きつつも、ケイは自分の荷物をどさりと耀司へ手渡した。二週間ぶりの帰省。昔のパブリックスクールのように、すべての生徒が寮に入らなくてはいけないという決まりも、今ではだいぶ廃れてきた。
毎日自宅通学する生徒すらいるが、ケイの入った学校は郊外ということもあり、月に二度ほどこうしてハミルトン夫人の待つ家に帰るのが習慣になっていた。
「別に暇だったしね。ママンに早く逢いたいマザコン坊やの顔でも見てやろうかなと」
ニヤニヤしながら荷物を肩に担ぐ耀司を、ケイは思いきり背中からどついた。
十八歳になったケイは、この次の試験が終われば大学への進学が待っている。別に行かなくともと言いはるケイに、優しくハミルトン夫人は諭した。
「ケイ?あなたはこのハミルトン家の当主なのよ。それ相応の教養と知性を身につけなければ、ね?」
ふっくらとした丸顔にふわりとした笑顔、見るもの誰もがホッとする人の良さが感じられる夫人は、いつもケイのサラサラとした髪をなでながらそう言ったものだった。
思春期の男がそれでいいのか?耀司には笑われるが、ケイはされるがまま目を閉じて、ソファに横になるのが好きだった。膝枕とは言わないが、そばには微笑む夫人がいる。
温かい母。僕のママン。たとえそれが誰かの代わりであっても。
スクールになど行かなくても、ずっと夫人とともに暮らしていたかった。後になってどれだけそれを悔やんだことか。しかし夫人は、伝統あるハミルトン家にはそれにふさわしい学校でなければと、そこを選んだのだ。
ケイにとっては決して居心地のよいところではなかったが、夫人に言えるはずもなく、こうやって二週間のたびに訪れるこのときを待ち望んでいた。
…マザコンでも何でもいいよ。好きなように呼ぶがいいさ…
重い荷物を耀司に託して、ケイは文字通り飛ぶように大通りを駆けだした。
「ふざけるなよ!この野郎。人に重い荷物持たせておいてさあ!!」
あとから耀司が必死に追いかける。それを笑顔で振り返りつつケイはスピードを上げる。
ほら、この大通りの交差点を渡れば橋が見える。その先は、ハミルトンの屋敷だ。
ひっきりなしに車が通りすぎる。英国車もあるにはあるが、よく見かけるのは日本の小型車だ。燃費もよく小回りが利く。お世辞にも広いとは言えないこのロンドンの街には、小ぶりな車が似合いなのだろう。
その中でもひときわ目立つ…AOKIの新車「flora」。
鳴り物入りの低価格車で、幅広い階層に受け入れられている。それが裏でどういう評価を受けているかまで、若い彼らが知るよしもなかった。
信号機がせわしなく点滅する交差点で、ケイはあわてて立ち止まった。視線の先には見覚えのあるフレアスカート。
「ママン!!」
聞こえるのかわかりはしなかったが、ケイは声を限りに叫んだ。となりで耀司が笑い転げている。笑いたきゃ笑えよ、僕はママンに心から甘えたいんだ。初めて僕に愛情をくれた人だから。
幼いくせに眼だけをギラギラさせ、泥だらけの野良猫だったケイを、いやそのときはただブラックという愛称でだけ呼ばれていた彼を、力いっぱい抱きしめてくれたのはハミルトン夫人だった。
「ああ、ケイ。ケイが帰ってきてくれたのよ。おお神様、ケイを私の元へとお返しくださってありがとうございます。心から感謝いたします。もうどこへも行かせないわ、私の大切な息子!」
そう言って、ハミルトン夫人は彼を抱きしめ続けた。篤志家で貧しい家々を訪ねては、寂しい老人の話し相手になってあげていた優しい彼女を慕う下町の人びとは、そのあまりの痛々しさに言葉もなかった。
その子が本物のケイ・ハミルトンではないと、残酷な宣告をできる冷たい人間など、そこには誰もいなかった。
行方不明になってひと月、もうみながあきらめていたケイが戻ってくることも考えにくかった。
確かにサラサラのプラチナブロンドと色白の整った顔立ちには、ケイの面影がなくはなかった。
しかし何よりもの違いは…妖しいまでも美しいオッドアイ。
本物のハミルトン家の息子の目は、どちらも穏やかなブルー。
ブラックと呼ばれた野良猫は、泥だらけの顔に意志の強いきらめくブルーアイに、神秘さをも持ち合わせた漆黒の瞳。
誰も何も言わず、警官でさえもそれを見て見ぬふりをした。トラブルの絶えないハミルトン家には、ふだんから親類どもも近寄らず、財産と言ってもわずかなものでしかない貧乏子爵の行く末など、気にする者もいなかったことも幸いだった。
その日からブラックは、ケイとなった。泥酔して消えた父親とともに、行方のわからなかった夫人の息子として。
愛したいと渇望する母親と、たくさん愛されたいと願った少年は、その日から親子としての生活を始めたのだ。
どれだけ愛されても足りない。ケイの想いは貪欲で限りがなかった。それほど飢えて枯れかけていたというのだろう。そこへ根気よく愛情を注ぎ続けたのは心優しきハミルトン夫人。
臆面もなく息子を愛していると言って回る彼女に、誰もが微笑みを向けた。野良猫は日を追うごとに人間へと変貌を遂げていった。ほら、笑うとケイそっくり。下町の者の失言にあわてて周りが諫める。夫人が幸せならば。みながそう願った。
下町で暮らしていた兄貴分の耀司は、観光客からかっぱらったカメラで花や虫を撮るのが何よりも好きという、一風変わった友人だった。
おそらく英国で働いていた日本人同士の親から生まれ、そのまま英国籍を持ち、それでも放り出されるように捨てられた孤児。
彼もまた両親の愛を知らない。夫人は彼をも、ケイを愛するように愛した。
誰にも分け隔てなく惜しみない愛情を注ぐ、いつまでたってもお嬢さま気分の抜けないお人好し。自嘲気味にのちにケイ達は、夫人をそう呼んだ。親しみと哀しみをこめて。
今日は彼女に会える。週末は思いきり甘えられる。それのどこが悪いんだ?
開き直ってケイは耀司を睨みつけた。彼はまだクックと笑い続けている。
「ヨウジだって遠慮しないでママンと呼べばいい。彼女はそれを断る人じゃないよ?」
夫人に養子縁組を申し込もうかと、真面目にケイが彼に訊ねたことがあった。
当主より年上の兄貴がいたら、ややこしいだろうが。笑って耀司は相手にしなかった。
大きなかごに野菜やパンの端が見える。今夜はごちそうを作るつもりなのだろう。道路の向こう側で笑顔の夫人が手を振っている。立ち止まり、ケイが来るのを心待ちにしているのだ。
はやる心を抑え、ケイは信号が変わるのを待った。
もうすぐ、もうすぐあの温かい言葉が聞ける。
…お帰り、ケイ。待っていたのよ…
僕の帰りを待つ人がいる。満たされていく想い。スクールでささくれ立ったケイの心が、緩やかにほぐされてゆく。
青になったら飛び出して、彼女の元へ駆け寄ろう。耀司も同じ気持ちでケイの背中を押している。
3,2,1…ほら!!
そのとき、辺り一面が爆音につつまれた。
(つづく)
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