#12
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「三メートル以上、離れて歩け!」
カークランドは小声でもよく通るするどい言葉を、彼に投げつけた。
横でにやにやとカークランドの表情をおもしろがって見つめているのは、無論アニーだった。
「何よう、冷たくすると腕組んで歩いちゃうわよ!このロンドン界隈のメインストリートを!」
やめてくれ。比喩ではなく本気で身体を震わせると、この若き警部は顔をひきつらせた。
アニーがカラカラと笑い出す。
「本当に免疫ないんだから。いい加減あきらめたら?スクール時代からの仲じゃない」
おまえがゲイだとわかっていれば、最初から近寄らなかったさ。悔し紛れの捨てゼリフ。しかしどう見ても形勢が不利なのはカークランド警部の方だった。
「あら、差別反対よ。リベラリストじゃなかったの?」
「差別ではない、区別だ!私にその趣味がない以上、おまえと近寄って歩くメリットは何もない!」
あーら、じゃあ何であんたは女と結婚できないのかしら?アニーの言葉に、二の句も告げずに立ち止まる。
「で、できないのではない!!しないだけだ!!する必要も今は感じてはおらん!!」
細いストライプのスーツを着こなし、颯爽と歩く警部と、スキンヘッドに無数のピアスをつけたアニーのコンビは、確かに道行く者の目を引いた。ここまでちぐはぐな二人もそうはいないだろう。
「だいたい、もうちょっとはマシな格好をして来いと言ったはずだ」
「アタシの持ってるワードローブの中で、一番地味めを選んだつもりだけど?」
アニーは悪びれず、グロスの光る唇でにこやかに笑った。
「何が地味だ!どこの世界にスカル模様のラメにチェーン付きの服でこんな真っ昼間に出歩くヤツがいる!!」
「その真っ昼間に、呼び出したのはどこのどいつかしら、ね?」
アニーの表情からにやけたからかいが消えた。残るはある種の世界に生きる者だけが持つ独特な、獲物を捕らえるときの細くとがった瞳。
それだけせっぱ詰まっているってことなんでしょう?アニーだとて、だてにこの世界に長く居るわけではない。ましてやいつもならば、陽の当たる場所でカークランドと会うなど、あり得ないことであった。二人の関係を知る者もいないわけではないが、できれば公にしたくないのが警部の本音であろう。
カークランドが表情を変える。冷たさを抱えた灰色の瞳。口元が引き締まる。
「子爵のフランス時代の記録が全く残っていない。在学記録などの公式書類は完璧だ。卒業したことも簡単に証明が取れる。しかし」
「あんたはそれをひとかけらも信じちゃいない、ってことでしょう?根拠は?」
しばらく躊躇したカークランドは、それでもためらいがちにこう口にする。
ただの勘だ、と。
研ぎ澄まされた視線がしばしぶつかり、しかししばらくして目を逸らしたアニーは、皮肉そうにニヤリと笑った。
「確かに超現実主義のあんたが言うセリフではないわね。それで?アタシがこの目でしかと見ろと?とうとうヤキが回ったか、あんまりお役所仕事が暇でぼけたんじゃないの?ダリル・カークランド警部殿」
私をバカにするがな、アーネスト。珍しく素直にカークランドが言葉を発する。一目見ればおまえにもわかるはずだ、彼には何かがあると。
「惚れたって訳ね、要は。こりゃ笑えるわ」
放っておけば本当に大声で笑い出しかねないアニーを、ようやくたどり着いた駐車場の濃紺のジャガーに押し込め、カークランドは深くため息をついた。
重めのステアリングの感触を確かめるように車を出した彼は、まっすぐと子爵、ケイ・ハミルトン卿の屋敷へと向かった。
「おまわりさんが勝手に単独行動なんてしていいの?」
「この件に限らず、私は非公式ではあるがその権限を与えられているからな」
淡々と口にするが、それだけカークランドの実力が認められているということなのだろう。
スモークガラスで覆われた車内は、外からは容易に中を伺うことはできない。
屋敷のだいぶ手前でジャガーを止めると、カークランドはハンドルに腕をかけ、その長い指を組んだ。
そっとアニーが手を伸ばし、彼の左手を包み込むように触る。
全神経を屋敷に向けていたカークランドが、文字通り飛び上がった。
「な!!何をする!?」
少しは場をわきまえているのか、アニーは声を出さないように腹を抱えて大笑いし始めた。
「あんた、本当に免疫なさ過ぎよ。今、どれだけ自分が危険な状態かわかってんの?こんな高級車は音が外にもれやしないし、シートも寝心地がいいわ。押し倒されても知らないわよ?」
こん…の…。カークランドが顔を真っ赤にしてアニーを睨みつける。
くすくす。それでも必死に笑いをこらえるアニーは、平気な顔で前を向いた。
「それで?金持ちのお坊ちゃまたちはどれ?」
彼がそう言った途端、大きな扉が開き、中から現れたのはもちろん、ケイと耀司だった。
「あらまたこれは、可愛らしいボンボンだこと。こんなのに振り回されるようじゃ、ダリル様も……」
不意にアニーが言葉を切った。あまりの不自然さにカークランドが不審気な目を向ける。
「あの男…、堅気じゃないわね。見覚えがあるもの」
「なん、だと?」
アニーの視線の先には、カメラケースを軽々と担ぐ耀司の姿があった。
(つづく)
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