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#112(最終話)

#112(最終話)



「お待たせいたして申し訳ありません、ハミルトン卿」


セラピストのレイナーは応接室のドアを開け、ほんの少しばかり眉を上げた。


……表情に出さないとは、さすがはロンドン一の腕っこきだねえ……


ケイは苦笑しつつ、その節は大変お世話になりましたと告げる。


「レイナー先生のおかげで、あのときは非常に助けられました。お礼を申し上げるのが遅れてしまい……ああ失礼。ロナウド・ダルトンと名乗るべきでしたか」


わざわざ自ら名乗った偽名をあげて、ケイは右手をさっと差し出す。レイナー博士の大きく柔らかな手が、それを包む。


「私どもには守秘義務がありますから。しかし、お元気そうでよかった」


サングラス越しであろうと右眼の傷に気づかぬレイナーではないだろう。それでも敢えて彼は嬉しそうに微笑んだ。







「被虐待児に対する、私立の入所型治療施設の設立…ですか」


ケイはその言葉に軽く頷いた。ベテランセラピストが驚くのも無理はない。現代の英国において、親元へは置いておけないという保護措置を受けた被虐待児のほとんどは里親の元へと送られる。一時保護施設を持たないこの国では、それが一般的だからだ。


しかし、実際は「里親という家庭」に落ち着くことのできぬ子どもが少なからずいることも事実である。

そして、本来の法の目からこぼれ落ちてしまった子どもらは…篤志家や教会といった宗教関係団体の運営する養護施設での生活を余儀なくされる。



あの日の、キャリック=アンダーソン兄妹のように。




「イギリスの被虐待児に対する保護は手厚く、その整備も整ってはいます。しかし、書類上は…という事例はいくらでもある」


ケイは真っ直ぐにレイナーを見据えた。法では救えない子どもたちが流れ着くのは…最下層のスラム街。ほんの十数年の間に非常に治安も良くなり、今では流行の最先端を行くとされている東ロンドンでさえ、いや実際には南地区あるいは、最も安全とされている地域でさえも。

ゆくところも職も失い、閉塞感から投げやりで刹那的な生活を送る者だとて一定数はいるものなのだ。

彼らの抱えきれない激しいストレスは、そのままダイレクトに弱者へと向かう。それは国が違えども世界共通のことなのだろう。


「恵まれぬ子どもたちを救おうとなさるのですか」


「そこまで思い上がっているつもりはないのですが、博士」


ケイは一度視線を落とし、また彼を見上げた。自らの言葉を確かめるようにと。


「ただ…そこから抜け出し、自分の足で立っていけるようになるまでの数年間、たとえ数人でもいいから手を貸すことができたら。そう考える僕は傲慢でしょうか」


レイナーは口を開かぬ。そこは賓客を迎える応接室であり、今日の客人は貴族であると聞かされていた。しかし、まるでセラピールームであるかのように彼はじっとケイの言葉に耳を傾けるばかりだった。



「小規模のケアハウスを複数用意し、できるだけ一般家庭に近い環境で養育します。自立訓練を主とし、できるだけ早い退所を目指します。その為には保育士のみならず、さまざまな分野の専門家が必要とされる」


「被虐待児…特におそらくあなたは、一番扱いの難しいケースを想定なさっているのでしょう?」


具体的な言葉を遣わぬのは、ケイの心理的負担を考慮した彼の心遣いなのだろう。

なかなか公式の調査などでは表に現れぬ小児性愛の犠牲者に対し、少しでも支援の手を差し伸べたい。臨床心理学の権威にとって、ケイの思惑など先刻承知、か。


「とても生半可な知識や経験では、かえって子どもらの受けた傷を深めるだけ。確かに私は専門家ではあります。しかし実体験のない者に何がわかる、と仰りたいかも知れませんが」


レイナーが重い口を開く。彼らが受けた傷の深刻さは、何よりも目の前にいる子爵が身をもって知っていること。お気持ちは理解できるつもりですが、と言葉を濁す。


ですから。あくまでもケイは穏やかに言葉を続ける。こちらは別に、いっときの感情で動いているわけではない。それだけでも博士には伝えておきたかった。


「ぜひとも先生のお力をお貸しいただけないかと。我々は衣食住の提供だけではなく、彼らに生き抜く力をつけてあげたい。お忙しい先生を引き抜こうなどと大それたことは申しあげるつもりは毛頭ありません。職員の資質向上の為に、レイナー先生には顧問としてこのハウスに関わっていただきたいのです」


ほうっと、珍しく常に冷静なセラピストは息を吐いた。重い重いため息。



しかし誰かが一人でも手を差し伸べていたら、ケイは。いや、この上もなく温かい手が差し伸べられたからこそ彼は、ここまで生き延びてこられたのではないか。



サラ・ハミルトンという勇気ある母親が。そして彼を現世の煉獄から引き上げ出した、若き友人の手があったから。





「一つお訊きしたい。あなた自身はその施設で、どんな役割を担われるのですか。ハミルトン卿」


同じような境遇の子どもらを目にして、彼が救われるのか過去へと引き戻されるのか。現時点では予想も付かぬ。彼ほどの有能なセラピストであっても。


だがケイはフッと、まるで誰かを思わせるようなはにかむ笑顔を浮かべた。


「そうですね、調理全般と掃除は僕の役目でしょうか。建物の修繕も一通りできますし、まあcaretaker(用務員)辺りが一番僕には合っていると思っているのですが」


一瞬、目を丸くしたレイナーは、彼らしからぬ表情で笑い出した。大仰に両手を広げ、信じられんと言ったジェスチャー付きで。


「あなたは随分と変わられた。それもとても良い兆候ですね」


「あれ?僕はここにセラピーを受けに来たのでしたっけ」


二人して笑い合う。

研ぎ澄まされた野生の獣のような彼の瞳は、もうそこにはなかった。あるのはただ…碧い碧い宝石のような美しき眇目。




心理面での特別顧問を快諾してくれたレイナー博士は、最後に施設の名を問うた。

ケイは、重大な秘密を打ち明けるかのようにそっと告げる。その名を。


「『サラ・ハウス』と名付けました。僕の…最愛の母の名を取って」


素敵なお名前ですね。かつて、何もかもを振り切ろうとした彼を必死に引き留めたセラピストは、そう言って穏やかに微笑んだ。








あらかた組織というものへ吸い取られてしまった、本来のハミルトン家の財産。それでもフランス当局の尽力でニコラス名義の土地と少しばかりまとまった資金は、ケイの元へ。

サラ・ハウスの建物を造ることなど造作もない。問題は人的資源だな。


考えることもやることも山のようにある。しかしケイは、屋敷のリビングで頬杖をつきながら、飽くことなくフォトフレームを眺めていた。


それはちょうど、二枚の写真を入れられるようになっている。以前は夫人と先代の子爵の肖像写真が納められていた。見るのも辛いからと、それを取り外してからは……空のまま。


彼はそこに、新たに手に入れたものらを入れた。



一枚は、アマンダがこっそりと所有していた写真。

本当に生まれたばかりの赤ん坊を、慣れぬ手つきで若い母親が抱き上げている。



もちろんそれは……サラ夫人とケイ。



そしてもう一枚は。





「まーだ支度できてねえのかよ。ったく、タキシードやらドレスでも決め込むつもりか?たかが墓参りに行くのに正装はいらねえぜ?」


後ろから声を掛けるのは、いつもながら勝手にドアを開けて、ついでに冷蔵庫まで開けてパンを頬張る耀司だった。

ようやく怪我から自由になった手には、その辺の花屋で適当に見つくろってもらったフラワーアレンジ。今日こそはどうしても、というケイの運転手役を買って出たのだ。


ああ、と言う生返事だけをかえして、ケイはもう一枚に見入る。肩越しに耀司の視線。


「絞りが甘いなあ。露出ももうちょっとこう…」


現役の新進フォトグラファーらしく、色褪せた写真にいろいろと文句をつけ始める。それは、少しでもこの屋敷の空気を軽くしようとする彼の心配りなのだろう。


「いいんだよ、このくらいのボケ具合が。味があってさ」


何度見ても、見足りない。もっと心を抉られるように辛いかと思っていたのに、実際にケイの胸を満たすのは、ただただ思慕の念だけ。




クインシーの弁護人に無理を言って、どうしてもと手に入れさせた一枚の古ぼけたフォト。


向かって右の端には難しそうな顔つきのリチャード。彼の腕に無理やり絡まりつき、笑顔を見せるのはクインシー。少し離れて、フリルだらけの可愛らしいベビードレスにくるまれた赤ん坊を抱くのがスザンナか。そして。


一人家族と離れて、うつろな視線をカメラに向けているのが…キース・キャリック=アンダーソン。




「俺だったら、もう少し寄せて赤ん坊の顔が写るようにするんだけどなあ。さぞかし愛らしいだろうに」


耀司の戯れ言も遠くにかすむ。



いいんだって。顔なんか写ってなくとも。

思い出せる、この写真があれば。

必死で守り通そうとした大切な妹の顔を、脳裏に思い浮かべることができる。


あれは脳が見せた虚偽の記憶などではなく、本当にいた寄せ木細工のような家族。




サラ夫人は、ママは…僕をしっかりと抱きしめていてくれたよ。そして、僕にはちゃんと家族がいたよ。


今となっては、どの名もいとおしい。


生まれてから今までの自分というものがつながってゆくこの感覚を、ケイは初めて味わっていた。


黒い瞳がもたらしたものは、悲劇などではなく……平凡な少年の生育史。




写真はこれから増えるだろう。アルバムは積み重ねられてゆくだろう。先などないと、絶望にとらわれていたのはケイ自身。もうずっと遙か彼方の哀しき想い。



黒い復讐の女神<ネメシス>……妄想の中で膨れあがっていった巨大な敵は、現実という名の元に消え失せていく。




おれは生きている。そしてこれからも、生き続ける。過去と現在がつながった今、残ったものは「ケイ・ハミルトン」という名前。





「おーい!日が暮れちまう前に早いとこ行こうぜ。サラ夫人の墓参りにさ!!」


耀司の声に、ようやくケイは立ち上がった。

名残惜しそうに写真をもう一度振り返ると、彼は大きくて重たい扉を押し開けた。



ようやく行ける。彼女の墓前に。この花を添えて報告をするのだから。



祈るのは復讐を誓う神にではなく、何ものをも生み出す花と春と豊穣の女神…フローラへなのだから。



屋敷の外はロンドンらしい曇り空。

ケイはサングラスを外すと、厚い雲の上にあるはずの輝かしい太陽を思い浮かべながら、目を細めて空を見上げた。




            <了>    ご愛読ありがとうございました。


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved  18.Aug.2010

思いがけず長い長い物語となりました。今後の彼らの幸せを祈って……。

ご愛読に心から感謝いたします。


            北川 圭

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