#111
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「ちょっとお!!店が壊れるから止めてって言ってるでしょ!?」
いつもながら怪しげな煙の漂う店内に、アニーの金切り声が響き渡る。周りの客はいるにはいるが、壁に張り付き、顔をこわばらせていた。
「はん。おれを誰だと思ってる!?元フランス外人部隊特殊工作班随一のスナイパーだぜ?」
アニーが叫んだ相手は、我関せずと負けぬほどの大声を出した。客どもが目を見合わせる。
「これだからミリタリーマニアってのはたちが悪いのよ!!ああ今は軍事ヲタって言うんだったっけ?すっかりその気になっちゃって。あんたみたいなひょろひょろが、仮にも正式な軍隊であるレジィヨン・エトランジェールに入れる訳ないでしょうが。オンラインPRGの妄想も大概に!!」
なおも口を開きかけた「彼」の胸ぐらをぐいとひっつかみ、アニーは小声でドスを利かせた。
「その辺にしておきなさいよ、おケイちゃん!どこで誰が聞いてるか、わかったもんじゃないんですからね!!」
すっかり酔いの回ったケイは、艶めいた視線をアニーに向けた。
「へえ、心配してくれるなんて優しいじゃん」と、手に持った金属製のダーツのポイントをいきなり的に向かって投げつける。薄闇の中、視野が極端に狭く遠近感もない彼の投げた矢は、当然のことながら全く別の壁に突き刺さった。
そばの客がダッシュでその場を離れる。
衰えたのは視力だけ。力任せに本気で刺されたらどれだけのダメージを喰らうか、わかったもんじゃない。
「ああもう!!営業妨害だわよ、この八つ当たりの酔っぱらい!!何さ、たかが女一人に振られたくらいで」
アニーの毒気たっぷりな言葉に、ケイの目が据わる。
「……悪かったな、八つ当たりで。どうせ女なんか肩書きがすべてなんだよ!!そりゃあ、しがない貧乏子爵より伯爵様の方がいいだろうさ!!」
まあちょっと落ち着こうよ、二人ともさ。ギプスの未だ取れない耀司が、複雑な表情で割って入る。
「アタシは何も興奮してないでしょうが。へえ、ミス・クリスティアナのお相手は伯爵様ねえ~」
涼しい顔でさらに挑発するアニーに、矢を弄んでいたケイは腕をぶんと降り投げた。
ひいい。
店中の者の声なき悲鳴。
殺傷能力すらあるのではと思われるダーツポイントは、最悪のタイミングで開かれたドアに突き刺さってその全体を揺らせた。
「……随分とまあ、ご丁寧な客の迎え方だなアーネスト。強制捜査の候補リストではこの店をトップに入れておいてやることにしよう」
さすがに顔を引きつらせたダリル・カークランド警部が、その矢をついと抜きながらそう言い放つ。
「ほらまた。ここにも来たわよ~、おケイちゃんのお仲間が。御左遷あそばされて八つ当たりなさりたいそうだから、お二人で取っ組み合いでも決闘でもしてくればあ。お・も・て・で!!」
人聞きの悪いことを言うな!カークランドが吐き捨てるのに同調するかのように、隣へ寄り添っていたミミが付け足す。
「あら、左遷ではなくてよ。SOCA(重大組織犯罪対策機構)への出向よねえ」
一言いうたんびに、しなだれかかるんじゃないわよ!!噛みつかんばかりのアニーをさらりとかわしてミミは、ご栄転って言ってあげてよとさらに甘い声を出した。
「何が栄転だ!私はあくまでも警察官僚だ」
それ以上はここで言えるはずもなく、カークランドは口元を曲げて黙りこくった。確かに地位的には上がったのだろうが、本人にとってはいささか不本意であることは明白だった。
「SOCA…ねえ。2006年にできたばっかで、何だかきわもの扱いじゃない。国家犯罪対策局と国家犯罪情報部、あと歳入税関庁も関わってたんだっけ?」
結局寄せ集めであわてて作ったって感じ。わざとらしく煙を吹きかけるアニーに向かって、ダリルは冷ややかな目を向けた。
「忘れてないか、アーネスト。SOCAの一番の目的は…麻薬や不法移民犯罪、密輸、詐欺などの取り締まりだ。だから言っただろう?この店をまずは見せしめに…」
「ちょ、ちょっとお!!組織犯罪の撲滅が目的でしょうが!こんな場末のバーを摘発なんて、それ何の嫌がらせ!?」
二人のやりとりを耳にした客らが、そうっと帰りかける。アニーはそれに「帰れるもんなら帰ってみなさいよ!!二度とここには来れない身体にしてやるから!!」と怒鳴りつけた。あわてて席に戻る客らに、満足げな流し目を送るのを忘れないのはさすがオーナーとでも言うべきか。
「…組織…犯罪対策?」
警部たちの言葉にケイが反応する。手にはダーツポイントを握りしめたまま。いいからあんたたちはこっち!アニーは奥の事務所に彼らを引っ張り込んだ。
SOCAとは知る者も限られた組織ではあるが、イギリスで2005年に成立した「重大組織犯罪及び警察法(Serious Organised Crime and Police Act)」によって設置され、2006年に活動を開始した。主に麻薬や不法移民犯罪、密輸、詐欺などの取り締まりに当たっている。
「イギリスのFBI」という異名も持つ。それ以前に設立されていたいくつかの先行機関が、統合されてできたものであることは間違いない。
国家犯罪対策局(National Crime Squad:NCS)や、内務省の麻薬担当部門を改組して作られた国家犯罪情報部(National Criminal Intelligence Service:NCIS)、歳入税関庁(Her Majesty’s Revenue and Customs:HMRC)の麻薬取引部門や、移民局の関係部門など、関係部署は多岐にわたる。
また、SOCAは、イギリスの「フィナンシャル・インテリジェンス(financial intelligence)」において中心的な役割を果たし、これはマネー・ロンダリングなどを監視する役割があるため、対テロ政策にも大きな役割を担うのではと期待されている。
「まあ、要はあれね…」
すっかり主のような大きな顔で、ミミはソファにどっかりと座り込んだ。アニーが苦々しそうな表情を向ける。
「『大英帝国連合』対策の為の引き抜き、というところですか」
そこだけは自由になる指先で一眼レフの手入れをしながら、耀司が苦笑する。それに向かって「私はあくまでも警察官僚としてだな!」とダリルが言い張る。
「まあでも、どっちかって言うと情報畑よねえ。同業が増えて何よりだわ」
神経を逆なでするようにミミが笑う。
ただ一人、真剣な顔でケイはカークランドを見据えた。その視線を十分に感じながら、警部は咳払いをした。
「エマーソンが、かの組織でどんな地位にいたのかはわからん。だが、野に放つことはしない。それが約束だったのだからな、おまえと政府との間では。目付役が一人くらいいたっていいだろうが。ふん、事が終わればすぐにでもヤードに戻ってやるさ」
その頃にはせめて警視くらいになってるといいわねえ、戻れればの話だけど。アニーが鼻で笑う。
すっかり酔いの醒めたケイの碧い瞳が、空を彷徨う。
「勘違いするなよ、おまえ一人の為などではないからな」
幾多の犠牲を強い、多くの人々の運命を狂わせた一人の男…デリック・エマーソン…。
その上部組織であるフリーメイソンを気取る『大英帝国連合』の捜査に、いよいよ政府も本腰を入れることになったのだ。
「これ以上、苦しむ子どもを増やしてはならない」
ほんの微かな警部の呟き。他の誰にも聞こえはしなかっただろう。唇を読むケイがとらえた、カークランドの本音。
ほうっとケイは思わずため息をついた。それは決して諦めや絶望ではなく、おのれのしたことが他を動かし、見も知らぬ将来の子どもを助けるかも知れぬというわずかな希望。
誰もが黙りこくる。カークランドがすぐにでもヤードに戻れると呑気に構えている者などいない。それでも、噂話などすぐに忘れてしまう世間ではなく、見えないバックヤードとはいえ…国際社会という表舞台にヤツらを引っ張り出すことができたのだ。
闘いはこれから。そして、それらは自分たちの手を離れ、大がかりな捜査組織へと確実に引き継がれた。
ダリル・アンドリュー・カークランド警部のいる限りは。
ミミの横に深く腰を下ろし、万感の思いでケイは瞳を閉じた。
……終わったのだ、おれたちのできうることは何もかも……
慈母のような温かなまなざしでそれを見つめていたミミは、不意にいたずらめいた表情へと代わり、ケイの耳元へ囁いた。
「ねえ、クリスティアナに振られたってホントなの?」
ぴきっ。穏やかな顔つきだったケイの面がこわばる。
その話題には触れない方が…。耀司のこわごわとした提案は即座に却下され、もうちょっと詳しく教えなさいよ!とミミは甲高い声を上げた。
「さっき確か伯爵とか言ってたわよね?どこの伯爵?あたくしたちの知ってる人!?」
「うるせえなっ!何でてめえに教えなきゃなんねえんだよ!!」
下町訛り丸出しでケイが怒鳴る。言葉遣いから直さなきゃダメなんじゃない?「マイ・フェア・レディ」のDVDでも貸しましょうか。それはそれは嬉しそうにミミが絡む。
「ホントにヤな女だなあ。警部はよくこんなのと付き合ってられるよ」
吐き捨てるケイの言葉に「付き合ってるわけないでしょ!!まとわりつかれて困ってんのよね!?」とアニーまでもが叫ぶ。
無言のままのカークランドに「何で黙ってんのよ!?はっきりと否定しなさいよ!!」と凄む。
「俺に飛び火させるな!!俺が誰と付き合おうが、ケイが誰に振られようがいいだろうが!!」
珍しい警部の大声に、ケイを除く全員があわてた。当の本人と言えば……。
思い切りやさぐれていた。
失言に気づいた警部は、掛ける言葉もなく余計に押し黙った。やり過ぎたかなあ。ミミは必死にフォローに入った。
「でもほら、結局のところ子爵家はケイが正式に継いでいることには変わりないんでしょ?」
やさぐれの本来の意味は家を離れること。ケイは未だにハミルトンの屋敷に住み続けている。
「あれは…ウィリーが弟を離さなかったんだ」
事が済んだら子爵位を譲ると言い張ったケイに、パークス兄弟は「その必要はない」とはっきり告げた。
「当初の訴えは取り下げることにするよ。よくよく検討した結果、今さら弟に因縁のついた子爵位など必要ないだろうと。まあ、法的にも君が継ぐことが正しいのだろうからね。それでいいじゃないか」
ウィリアムズ・パークスの涼しい顔。「おのれの微少な罪の発覚を恐れて」と本人は言い訳じみてそう言ったが、あんなもの、ケイ本人の犯した犯罪に比べればかわいいものだ。しかし、どこにも出さない、捜査もしない。君も僕も在野で罪を償っていくべきだ、と。
血のつながりのない兄弟の精神的な深い絆。どこか羨ましいと思ったのかも知れぬ。
あの歪みきったウィリーが見せた素直さが。
「キャリック=アンダーソンの兄妹として、ではなく…自分の心に正直になれたのね」
邪推を含まぬ言葉通りの意味で、ミミは愛おしそうにケイの頭を抱えて引き寄せた。
「ああ。過去の記憶の欠片だと思いこもうとした。愛ではなく情だと。でもおれは、経済的な舞台で闘おうと決めた彼女のそばで守っていたかった。いや、それも余計な言い訳だなきっと。ただ、優しいあの声を聞いていたかっただけなのかも知れない」
ケイ、と呼ぶ甘い囁きを。
不思議な縁で結ばれた兄妹ではなく、ともに支え合うパートナーとして。
「で、正式にプロポーズでもしたの?恋多き遊び人の貴族様の戯れ言だって、本気にされなかっただけじゃないの?」
とどめを刺すかのようなアニーの言葉。力なく下から見上げるケイに対して、耀司は苦々しげに文句を言った。
「だから様子を見てからにしろっつったんだよ!このおれが断られるはずがねえだろとか何とか言って、人に英国王室御用達の宝石店まで行かせておいて!!」
「あんたまさか…ガラード(Garrard & Co. )みたいなとこから超高級ジュエリーを盗んだんじゃ…」
蒼くなる周りに耀司は睨みを利かせた。
「ざけんな!!まっとうに一ペニーも値切らずに言い値で買わせといて、こいつはそのエンゲージメント・リングをどっかにぶん投げやがったんだよ!!」
ずっと捜したって見つかりゃしねえ!!耀司の声に、んなみっともねえことできっか、とケイは逆ギレした。
…………
「何を投げたの?」
丘の上から空高く舞うそれは、ロンドンには珍しい晴天の光を受けて美しく輝いた。
「幸せになる為のまじない。新しいコインをね。式には呼んでくれ…よ。腕の立つブライダル・フォトグラファーも連れて行くから」
ケイの微笑みに、クリスティアナは穏やかに彼を見つめた。
一つ訊いていいかな、ためらいがちのケイの問い。小首をかしげる仕草さえ胸を締め付ける。
「なぜ、彼を?」
目を伏せながら、クリスはゆっくりと言葉を選びながら応えた。それはまるでおのれに言い聞かせるかのように。
「あなたに守られていたことに、ずっと気づけずにいた。」
私を通してあなたは過去を見る。どれだけ強い意志でそれを避けようとしても避けられぬ運命。
どうかもう、すべての鎖から解放されて…ケイ。
…………
彼女の言葉を、一つ一つ反芻する。すべての鎖を解くのは、君の温かい手。そして、優しいおれを呼ぶ声。それはもう…望むべくもないものなのか。
沈むケイに、相手の伯爵様って?とミミが訊く。恋愛は自由よ、あきらめることなんてあるかしら。そんな言葉まで付け加えてみせる。恋に生きる女の強さか。
「どうあがいても勝てるとは思わねえ…」
弱気ねえ!そんなんでどうするの、天下のハミルトン子爵が!アニーはわざとちゃかして声を掛ける。
「伯爵?まさかそれって、パークス家のどっちかとか?」
ざけんな!!近寄らせるかってんだ!!
「あの、パブリックスクールにもいたわよねえ。一人くらい」
ローディ?兄としてもぜってー反対だね!!
「だってケイのよく知っている人なんでしょう?ああ、ここにも伯爵家の三男坊はいるけれど」
そう言ってアニーが指さしたのは、ダリル・カークランド警部だった。
皆の視線を浴び、ふ、ふ、ふざけるな!!と怒鳴り返すのは本人。あり得なくね?皆が笑う。
「じゃあ、あと貴族といったら…」
周りをぐるりと見渡す。ここにいるのは、ケイを入れて五人。耀司、ミミ、カークランド。そして……。
「アタシがもらっちゃっていいのかしら。まあ、ノンケの女の子と付き合うのは初体験だから刺激的だけど」
ころころ笑って「さあてと、やけ酒ならここで飲んでよね」とアニーは部屋を出て行った。とっておきの一本を持ってくるからと言い残して。
「まさか、ねえ」
「ちゃんと正解を教えなさいよ!」
ケイの口は重い。見かねて耀司が、もういいじゃないかよ言いたくないんだろうからさ、と助け船を出す。
「ガキは引っ込んでなさいっての!この経験豊富なお姉様が、恋愛の駆け引きを伝授してやろうって言ってるのに」
彼らは、すっかりこの重い話題を笑い話に変えてしまおうと思ったのだろう。ケイでさえも。
「わかったわかった。でも闘う気はないよ。クリスにだって、ほっとできる相手の方がいい」
穏やかにケイは微笑んだ。それはあきらめよりも心からの祝福のように。
「サイラス・ラングレー。パブリック時代、おれの唯一かつ自慢できる親友だ」
皆は目を丸くして、しばらくしてから一斉にため息をついた。たしかに……癒されるには違いない。彼となら、ケイとは真逆ののんびりとした世界が待っている。
「こりゃ、強敵だわ」
「経験豊富の指南役じゃなかったのか」
「ケイだって、落ち着いた生活を続ければまだ勝ち目は!!」
言いかけて、耀司ですら口をつぐんだ。
時を待とう。何よりもケイがすべての悪夢から解放され、過去から未来へと目を向けられるようになるまでは。
ケイ自身がそれを望んでいるのなら。
話を無理に変えるかのように、ミミが突拍子もない声を上げる。
「ねえ!そう言えばアニーってダリルの同窓生なのよね?」
だから何だと言わんばかりのカークランドの目に、てことは彼もどこぞの御子息よね、と言わずもがなのことを訊く。
廊下にまだアーネストの気配がないことを確かめてから、ダリルは声をひそめた。
「ヤツには内緒だぞ。いろいろうるさいからな」
ゴシップ誌に群がる女どものような表情で、皆が彼を見つめる。
「シャーウッド家は公爵位だ。それも、現王室の遠縁につながるらしい。まあ、家からは絶縁状態のヤツは戻る気もさらさらないだろうがね」
「こ、うしゃ、く!?」
シーーーッ。大声を出しかけたケイを皆が必死に止める。
「なあに?ほら、おとっときのバランタイン!これでパアッと…」
ドアからスコッチの瓶とスキンヘッドだけをのぞかせたアニーを見て、思わず他の四人はこらえきれずに吹き出した。
「人の顔見るなり、失礼なヤツらよねえ!!」
そう言いながら、彼も笑い出す。
中には、ケイの笑顔をも含めて……夜は更けゆく。彼らにとってつかの間の穏やかな時が。
(つづく)
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おそらく次で最終回となる予定です。どうか最後まで。よろしくお願いいたします。