#110
#110
名門女子大の裏手側にある、小高い丘。
手入れの行き届いたその草はらに寝ころび、ケイは高い空を見上げた。
……あの日と同じ、空の青……
過敏な状態の瞳に負担の掛からぬサングラス、それ越しにさえはっきりとわかる美しさ。
ここには街のにぎやかさも人のざわめきも届かない。ただ聞こえるのはそよぐ風の音ばかり。
「ここで初めて、君を見た」
囁くほどの小さな声。しかしそれは傍らに腰掛ける「彼女」にもはっきりと伝わる。
「大学の裏に、こんな素敵なところがあるなんて。偶然の出逢いってあるものなのね」
おっとりとした口調に、かつてのお嬢様然とした姿が重なり、ケイは思わずくすりと笑った。
「偶然?本当に信じてるの」
えっ、という表情で振り向く彼女に、ケイはますます笑いを止めない。
「もう!あなたっていつもそう。あのパーティーで逢ったときも私をからかってばかりで」
少しふくれたフリをして彼女…クリスティアナは同じように微笑んだ。
静かな時がゆっくりと過ぎる。
「偶然なんかじゃない。おれはAOKIの社長令嬢殺害を依頼されて、ターゲットを目視する為にここへ来た。スナイパーライフルなら一発だ、と耀司にそそのかされてね」
微笑みを浮かべながら物騒な言葉を告げる。それでもクリスは穏やかに受け流す。
「あなたは結局、引き受けなかった」
「いや、引き受けたよ。あーあ、上手くいっていれば今頃カリブの島を持てたのに」
こらえきれずにクリスは笑い声を立てた。サングラスの中の瞳も優しさをたたえたまま。
「司法取引なんてアメリカでしか行われないと思っていたわ」
そう…。結局は公開の場での事実審理、いわゆる裁判は開かれずじまいだった。トライアル前手続の場でケイから提出された証拠品を審議した係官らは、双方の弁護団に司法取引を持ちかけたのだ。
「お互いの罪を認める代わりにチャラにする過程までをも公開するのがアメリカ流ならば、それすら水面下で行ってしまうのが欧州なのかも知れないね」
エマーソンの存在を明らかにするのは、国つまり現政府にとってリスクが高すぎる。しかし、目の前にある証拠を無視するわけにもゆかぬ。
「『大英帝国連合』の名前なんか知られてみろ。あの場にいた連中の生命さえ危うい。まあ好意的に解釈すれば、そういうことなんだろうけどね」
原告団に説明されたのは、当たらずといえども遠からずのねつ造された事実。要は彼らが納得さえできればいいのだろうと。
「エマーソンというフリーメイソンの構成員がいた真実は隠された。しかし、偶然にもあの事故のあった場所のあの時刻に、英国陸軍は開発されたばかりの最新鋭のフェーズドアレイレーダー試実験を行っていた。極秘情報であったが為に道路封鎖も規制も掛けることなく」
偶然という言葉、それは真実を隠すのに使われる便利な道具にすぎない。すべての行動は何らかの意図を持っている。しかし、それを知る者は少ない。苦みを含んだケイの呟き。
「そうね。たまたまレーダーの実験だったというのに大規模な電波障害が起きてしまった。偶然…居合わせたエレン嬢のハイブリッド・カーに影響を及ぼすほどの」
彼女も不幸な偶然が重なったが為の被害者。軍に誤作動を起こす意図は全くなく、想定もしていなかった。AOKIは、これもまた市街地でここまで強い電波障害が起こることなど想定外だった。
「偶然が偶然を呼び、事故は起きてしまった。それで納得しろということなのね」
「ああそうらしいよ。お偉さん方は言い訳を取り繕うことに関しては天才的だね。悪魔的と言っていいほどだ。エレンの運転ミスではなく、軍の試実験が引き起こした事故。そして想定外とは言え、きちんとした電波障害に対する対策が遅れていたAOKIの責任。会社としても常識で考えられる範囲での過失はなかった。しかし事故の責任の一端は社会的道義として担うべきだ、とね。うまいもんだ」
公式の発表もされた。もっとも事故から数年は経ち、世間の関心も高いものではなかった。軍と政府は責任を認め、AOKIと協同して被害者と遺族へ対する十分な損害賠償を行うこととなった。
一番特筆すべきは、ミス・エレン・ラザフォードの操作ミスという、事故原因とされていた憶測がはっきりと否定されたこと。
「ラザフォード夫妻は喜ばれたでしょうね」
静かにクリスティアナが問う。さあ、どうだろう。ケイの声にならぬ声。
小首をかしげて彼を見つめるクリスに「あの夫妻はこれから何を目標に、生きていけばいいんだろうね」と呟く。娘の無実を信じ、ここまで闘ってきた。それははっきりと世間に公表され、他の被害者や遺族にもきっちりと説明された。向かうべき敵が消えた今、彼らの心は穏やかなのだろうか。
「きっと、お二人もこれで前を向けるわ」
きっぱりとクリスは言い切る。そうであって欲しいと願いながら。それならいい、とケイも頷く。信じるしかない。彼らのこれからを生きようとする精神力を。
「原告団から情報がもれることは?」
「それはないね。彼らにはあの試作品の意味さえわからないだろうし、恨む相手はエレンじゃなくて、黙って市街地なんぞで実験を強行した軍と結局は事故対策が不十分だったAOKI、ということだけわかればいいんだろうし」
本当はおそらく、十分暮らしていけるだけの補償が見込めるならと、そこで彼らの思考は止まっているはずだ。
すべての弔いも恨みつらみも、復讐でさえも……本来は生き残った者の為にある。
死者は常に静かだ。苦しみも涙も生ける者が持つのみ。
ああ、だからおれはヤツを殺さなかったのか。安息の地を与えるわけにはいかぬからな。
苦く重くどす黒い感情を、ケイは静かに心の奥底へと沈めた。
「あながち間違いとも言えないしね。結局、軍も情報部も『大英帝国連合』の存在は知っていやがった。それでいてヤツを泳がせてた。だからあんな風に英仏の二重スパイなどと呼ばれていたんだ」
デリック・エマーソン。
彼もまた、大きな濁流の中をもがくチェス・パーツでしか過ぎなかった。
「彼の…身柄は?」
淡々としたクリスの声色に、ケイは寂しげな視線を向けた。
「彼だなんて。実のお父様なんだろう?」
血のつながりが何をもたらすのか。ケイには欠片もわかりはしなかったが、それでもクリスティアナの心情を思うと切なかったのだ。
しかしクリスは、そっと俯くと……私の父は青木だけよ……とぽつりと言った。
彼女もまた、家族という名の収容所を転々とさせられたのだ。おれと同じように。ケイは一瞬口をつぐんだ。
もう一度、空を見上げる。
高く高く、吸い込まれそうな碧。ケイの瞳と同じスカイ・ブルー。
「結局おれは、エマーソンを世間に引っ張り出すことはできなかったよ。全部こいつのせいだと、石でも投げてやりたかったのにな」
わざとおどけてケイは言う。テレビのニュースで流してやりたかったのに。憎まれ口も付け加えて。
「身柄は情報部預かりなの?」
「おそらく、ね。ことは英国だけでは収まらないから、SISのみならず各国の情報機関が徹底的に絞り上げることだろうよ。一生、外には出さない。それが政府側と内密に交わした約束だ」
あなたが政府側と掛け合ったの?クリスティアナの目が見開かれる。
「全部、ネットでばらしてやるってゴネたらね。担当官がふっ飛んできて、どうかそれだけは、ってさ。ホントはEU非加盟国とかに情報を売り飛ばされでもしたら大変だ、と思ったんだろうね」
真実を知る者の強み。彼らは何よりもそれを良く知るからこそ、ケイを恐れたのだろう。くすくす笑うケイに、情報部なんかに目をつけられたらどうするの?と心配げなクリスの声。
「ねえ、今さらおれが?コンフィギュア事件の真相も今回の事実関係もすべて知り尽くした、名を馳せた元傭兵であり、かつ正式な英国子爵位を賜るザ・ヴァイカウント・オブ・ハミルトン。それを知らないあいつらだと思う?」
かつてのオッド・アイの悪魔は笑いを止めない。クリスの瞳が哀しげに曇る。
「約束する。もう何も危ないことはしない。まあ、この目じゃ、やれと言われてもできやしないけれどね」
「ケイ……」
そんなに心配なら、近くでおれをずっと見張っていればいい。ケイは思わず口にしそうになった言葉を飲み込んだ。
そっとスーツの内ポケットを上からなぞる。腕っこきの情報屋から仕入れた、極上の最重要機密。クリスティアナ・青木嬢の左手の薬指は、果たして何号のサイズなのか。
フローレスかつエクセレントな最高品質のダイヤを取り寄せて、品よく小ぶりに作らせた。どんなときでも大胆で物怖じしない彼が、どうしても取り出すことのできぬエンゲージメント・リング。
もっと気の利いた言葉を。いやそもそも、ここでいいんだろうか。雰囲気のあるホテルのバーか、それとも家に正式に招待して。
おおよそ彼に似つかわしくない悩みごとが、頭をグルグルと回る。思わずついたケイのため息をどう捉えたのか、クリスティアナは小さく笑い声を立てた。
「私は大丈夫、心配しないで」
えっ?彼の表情があまりに意外だったのか、クリスの笑顔がさらに広がる。
「大学へ戻るわ。ただし、専攻を経営学に替えてね」
「経営学?まさか…本気で後継者になるつもりなのか」
ふふ。クリスは意味ありげにまた笑う。涙も曇った顔も、やはり彼女には似合わない。はにかむようなこの笑顔こそが、一番クリスティアナを引き立てていた。
「親の七光りなどではなくてよ?正社員として入社してから、登り詰めてやるの」
君が?とても、かつては母親であるオフィリアの陰で下を向いていた内気な娘とも思えない。
「青木の父が持っている理念を正しく継承したい。労働者階級こそ一番欲しているはずの車を、安全で快適、さらに低価格で提供する。あの会社ならできるわ。私はそう信じてるから」
「善治郎はだって、社長を退陣すると表明したんだろう?素直に君が跡を継げばいいのに。あの会社はAOKIじゃないか」
クリスは意味ありげに首を振る。社名を変えるの、と。
「まさか、コンフィギュア…に…戻す…のか…」
ケイの声は震えていたかも知れぬ。伝統ある社名には違いない。けれど過去と呼べるほど昔のことではない、あの事件もまだ風化されてなどいない。特に彼らとおれたちにとっては。
クリスはケイの手をさりげなく取ると、細い指先でその掌に文字を書いて見せた。温かさとこそばゆさが彼を落ち着かせない。
f・l・o…r……a…
「フローラ!?」
素敵でしょう?静かなクリスティアナの声。
「フローラはとてもいい車よ。でも私たちは多くの犠牲を忘れてはならない。今までの教訓とし、AOKIが目指した初心に帰り。そして女神フローラのように、多くの人へと豊かな恵みを与えてくれることを願って」
花と春と豊穣を司る女神-フローラ。
彼女の与えた花は、神々の女王であるジューノーに子を与え、生まれし子どもは長じてのち軍神マーズとなったという。
神を騙る傲慢な人間は去った。もう復讐の神<ネメシス>は要らない。
奪うのではなく、与える神こそ今は必要とされているのかも知れぬ。
豊かな恵みを、階層階級を超えて多くの人々へ。確かにふさわしい名。『フローラ』
「じゃあ、君のお父様は…」
AOKI、今では旧AOKIと呼ぶべきか。すべての経営には関与しないという条件で、彼は過去を問われないことになったのではなかったか。
「新しい会社を興すんだって走り回ってるわ。今度は、地道に中古車を取り扱うんですって。新技術も世界相手の競争も、もうええわ、ってね」
母は持っていたドレスを全部処分して、スーツを買ったの。青木のあんな愛想のない英語を話されたら、売れるものも売れないわ!って言いながら、何だか張り切っちゃって。
「お母様は、オフィリアはなぜ…善治郎と結婚したんだ?憎んでもおかしくないのに」
すうっと息を吸い込むと、クリスティアナはシェイクスピアの有名な一節を暗唱した。
「To be or not to be, that is the question.」
「『復讐をするべきか、するべきでないか』。近づいたのは復讐の為?」
「最初はそうかも知れない。でも母はハムレットではなくオフィリアなの。男は過去に生き、女は未来を生きる。青木の父は恨むべき敵ではなく、利用されただけのお人好しで不器用な弱い人間と知ったからこそ、母はそばにいることを選んだのだと思う」
オフィリア…人の名の持つ不思議な力。それこそが、言霊たるゆえんか。人は名を与えられ、おのれを形作ってゆくのだろうか。
まるでケイの想いを見透かすかのように、クリスティアナは呟いた。
「名前って不思議ね。どの名にも名付けた人の想いが込められているのだから」
「だからこそオフィリアは、危険と知りつつも君にクリスティアナと名乗らせ続けたのかも…ね」
かつて愛したエマーソンと、複雑な感情を持ちつつも親友には違いなかったスザンナとの娘の名。そして今は、何よりも大切な自分の愛娘。
おれの名前は、どれがふさわしいのだろうか。多くの名を持ち、運命に翻弄されてきた自分の真実の名とは。
遠くを見つめる視線に気づいたクリスは、同じように空を見上げた。
「あなたはケイよ。他の何者でもない。そうでしょう?思い出して、あなたをケイと呼ぶ声の優しげな響きを」
サラ夫人の自分を呼ぶ声は、いつしかクリスティアナの声に代わり、ケイの心を満たしていった。
今なら言える。きっと言える。このリングを君に渡せる。
内ポケットに手を掛け、そっと呼びかけようとしたケイに、クリスもまた何かを言いかけた。
顔を見合わせ、お互いに苦笑い。
「どうぞ。英国はレディ・ファーストが約束だからね」
はやる気持ちを抑えて微笑みかける。そのケイに向かって、クリスティアナはあのはにかむような笑顔を再び浮かべた。
「逢って欲しい人がいるの。ケイもよく知っている人よ。あなたの過去を探す旅の途中で出逢ったのも、きっとケイが引き合わせてくれたのだと私は信じてる。一緒にいると、とても穏やかでほっとする方。ケイに一番先に教えたくて」
恥ずかしさからか一気にそこまで言うと、クリスは頬を赤らめてうつむいた。
貧乏子爵ケイ・ハミルトン卿は、引きつらせた笑顔のまま……その場にかたまり続けた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved
☆ああ、おケイさん…(_ _。)