#108
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「おせえなあ、うちらの大将はよ」
原告団の一人が下町訛りを隠すことなく呟いた。同席していたカークランドは冷ややかな視線をそちらに向ける。
咎めるわけではない。彼もまた、同じ不安を抱えていたからだ。
……ケイがこのうわっついた原告団をまとめなければ、調停の心証は悪くなるばかりだ……
遺族会の長を任されているラザフォード夫妻は、部屋の隅で身体を小さく丸めていた。娘のエレンの無実が晴らされるなら…その一念でここまで来たが、これではまるで針のむしろ。
ケイからの熱心な説得で事実は飲み込んだものの、エレン嬢を加害者と憎むことで精神のバランスをようやく保ってきた遺族も少なくないのだ。
彼らは、そのプロップ(支え棒)を急に外され混乱の中にいる。どこに怒りをぶつければいいのか。AOKIやら軍部やらの話は、初等教育しか受けてはおらぬ彼らには難しすぎた。
「逃げたんじゃねえの?こんな大騒ぎしたところで、どうせ金持ちの道楽だ。正義の味方でも気取ってみたものの勝ち目がねえ、ってな!」
アデルの父親が、ヤケ気味に吐き捨てる。何度も信じては裏切られた者の思考回路。誰が非難できようか。
担当弁護士として走り回されたウィリアムズ・パークスは、耳に当てていた携帯を力なく下ろすと、オドオドとした目を警部へ向けた。
「何度掛けてもつながりません。子爵にも、同行しているはずのミスター山下にも」
カークランドの表情が険しくなる。逃げるはずがない。ケイにしてみれば、ようやくここまでこぎ着けたのだから。ましてや今日は…あの試作品をも提示する予定だったのだ。
まさか、まさ…か…。
彼は誰にも聞かれぬようにと廊下へ出て、まずミミに連絡を取った。軽く舌打ち。こっちも出る気配がない。何を企んでいるのだ、あいつは。
ヤードの部下へとすぐさまかけ直そうとしたそのとき、シンプルな官製の携帯が震えだした。
急いで通話ボタンを押す。誰からか確かめる暇も惜しかった。情報が欲しい!何があった!?ハミルトン子爵!!
「警部!!事故の一報が入りました」
それは、事実上犯罪捜査部を干されている状態のカークランドにとあてがわれた、数少ない部下からだった。
「ロンドン市街の中心地を暴走した乗用車が、公園跡地の老朽洋館に激突し…」
「そんなことはどうでもいい!!誰がどうしたのだ!?報告は手短にしろ!!」
事故、暴走車…何があったというのだ!?カークランドほどの男がさすがに動揺を隠せない。
「運転手は複数の骨折と全身を打撲、意識不明ではありますが生命に別状はなく」
あまりの警部の剣幕に、たどたどしく伝えようとする部下を容赦なく叱りとばす。
「だから誰がと訊いているんだ!?運転していたヤツの身元はわかってるんだろうな!!」
「はいあのですから…有名フォトグラファーのミスター・ヤマシタと」
カークランドは思わず、持っていた携帯を強く握りしめた。
「同乗者がいたはずだ。彼はどうした?」
「いえ、車には一人しか」
もういい!!話にならん!!不慣れな部下の要領の悪さに電話を叩き切ると、すぐさま警部は交通部局へと連絡を入れた。事故の詳細を訊き出す。
……まるで話に聞いた悪夢の再現……
ケイが乗っていたはずだ。聞けば明らかに運転手のものではない血痕が残されていたという。
耀司の意識は今はない。いや、無理に聞き出さずともわかる。ヤツの向かった先は…。
あわててミミに再度連絡を取ろうとした警部の手が止まる。そういうことか。彼女らは既に。
原告団に事故を知らせれば、おそらく一般の立場のものより動揺が酷いだろう。何しろこのシチュエーションは、彼らのトラウマ性記憶を引き出してしまう。
この場に、原告団を把握できるだけの技量を持つ者が…パークス弁護士でははなはだ頼りなく、その上司では遺族らとの接点がなさ過ぎる。
俺はここを動けぬ、か。
頼む、無茶だけはするな。おまえが望んでいた結果は、じきに手に入る。それまではどうか、生き延びろケイ!!
カークランドは心の乱れを悟られまいと呼吸を整え、重い足取りで部屋へと戻っていった。
「子爵は別の関係者との打ち合わせが入り、少々遅れるそうです」
無表情に告げた彼の言葉に、遺族会の連中とパークスはとまどいつつ顔を見合わせた。
「すべてはこの瞳のせいだ、と」
多くの人の運命を狂わせた発端が、めったに現れぬ一つの漆黒の瞳であったのなら。おれは生まれてきてはならなかったのか。
ケイの腕がゆっくりと下ろされてゆく。
醒めきった脳の片隅で、冷酷な分析が始まる。
退屈な貴族の生活の中で出会った思想。それは過激であればあるほど、若い彼らにとって魅惑的であったはずだ。
輝かしき栄光を再び祖国へ。その一員としての活動は地下に潜れば潜るほど、儀式めいてゆく。たどり着くのは信仰という名の麻薬。教義はこの手で作り出せる。これほどの特権意識があるだろうか。
選ばれし者という誇り高き驕り。しかしそれは同時に、三人というごく限られた小集団の中でさえも階級を生み出す。
彼らが見つけ出した<nemesis>の女神は、次第に彼らの思考を縛り始め、支配していったのだろう。
神を名乗る者は一人でいい。それ以外の者は女神の粛清を受けるべし。では誰が…。
純粋と言うにはあまりに短絡的な少年のエマーソンにとって、わずかに芽生えた「独裁者」への憧れは日々強まり、心をかきむしるほどの嫉妬に変わっていく。彼の行動を見ればわかる。表面上は従いつつもその実、操っているのはおのが頭脳。威張りくさった子爵も、変人のリチャードも、見下していたはずの我が動かすただのピース。
おそらくその頃から、女神ネメシスはエマーソンにとって特別な存在だったのではないか。おのれ以外は、神を騙る不遜な者たち。制裁を加えねばならぬ。じっくりと練りに練った計画に沿って二人の持つ能力をすべておのがものにし、本物の<nemesis>の支配者として『大英帝国連合』の活動へ加わる。
動き始めた彼の計画はしかし、一人の幼子の瞳におびやかされた。
光り輝く碧き瞳と、漆黒の闇のオッド・アイ。彼こそが二面性を併せ持つ真の神の子。
おまえの罪はすべて知っているとばかりに、エマーソンを見つめ返す神秘の双眸。
そうやって勝手に神話的な意味づけをしてしまうヤツらのせいで、単なる形状の違いが人の心に畏怖や差別の感情を引き起こしてしまうのがわからないのか。
たかが虹彩の色が違うだけで、特別視されなければならぬ意味がわからない!!
おれはおれだのに。ただのケイであり、たまたま英国に生まれたイギリス人であり、ニコラス・ハミルトンとサラ・ハミルトンを両親に持つ平凡な子どもであったはずだというのに。
幸運にも合併症は併発してはいなかった。暮らしていくのに何の不自由もない。
『PAX3遺伝子の突然変異等により引き起こされるのではないか。なぜならメラニン生成には神経による刺激が必要で、変異によってこの経路が遮断されてしまうからであるという説が、今のところあげられている』
まことしやかに一部の専門書に書かれてはいても、実際のところ原因などわからない。微少な遺伝子の突然変異はしかし、実は誰もが持ち得ているもの。目立たぬだけで。
勝手に崇め、勝手に怯えていたのは、エマーソン自身の心の弱さのせいではないのか!!
もはや機能しない濁ったかつての黒い瞳は、今ほど涙を流したいと思ったことはなかっただろう。
何の、全く何の罪もない…ただのマイノリティ。おれが何をしたというんだ!?
人と違うということはそれほど許されないのか。知らぬものには恐怖を抱くのが当然なのか。
教えてくれ!!多様性を容認し、少数派が世の片隅でひっそりと暮らすことさえ、この国は人々は認めてはくれぬのか!?
ケイはだがしかし、もはや反論の声を上げる気力もなかった。
コックニー出身だからと排斥しようとしたかつての学友。生まれついた階級で将来が決まる。誰もがあきらめてしまっている動かし難い事実。
その中で力のない物珍しい生き物は、格好の獲物だった。
おぞましくも穢らわしい手によって、なで回される厭な感触。好奇な視線。或いは異物を見る嫌悪感。
ならばと力を得てみても、残るのはただの虚しさ。人の命を命とも思わぬ兵士が一人、造り出されただけ。
楽にしてくれ、エマーソン。あんたに少しでも慈悲の心があるのなら。
黒い瞳がすべての人の運命を狂わせたのだとしたら。凄まじい罪の意識と絶望の中で生き続けるくらいなら。
ああそうだ。何度もあきらめた。生きることを、生き抜くことを。
もういいだろうと。もう許してもらえるだろうと。苦痛のない静謐な世界へゆけるのなら。
「ふざけんじゃないわよ!あんたにはまだやらなきゃならないことが、たんと残ってるでしょうが!?全部見捨てる気?無責任にも程があるんじゃなくて!?」
幻聴か。そんな言葉を叩きつけられたこともあったな。甲高い声のヒステリックな、女。背が低いくせにおれの胸ぐらを掴んで、おれに生きろと強要した。
もう……終わりにしよう。
ケイの身体から力が抜けてゆく、そのとき。
彼はハッとした。幻聴!?幻聴などであるものか!!これだけうるせえ声を出せるのは、ヨーロッパ広しと言えどもおれは一人しか知らない。
余裕の笑みさえ浮かべていたエマーソンですら、驚愕の表情を隠すことはできなかった。
その視線の先には。
「この状況をどう説明なさるおつもりかしら、デリック・エマーソン元大尉?」
「……ミュリエル・ラファージュ……」
掠れたボスの声。覚えていてくださって光栄ですわ、ただの目くらましに使われただけの女を。ミミの言葉が突き刺さる。
「銃の不法所持および殺傷の意志が明確な殺人未遂。現行犯逮捕には十分すぎるほどの罪状ですわね」
思わず振り返ったケイの僅かな視界が捉えたものは、スコットランド・ヤードの武装警官部隊SO19を従えた、ミミの姿。
対テロ部隊の屈強な男どもに囲まれつつ、彼女は妖艶に微笑んだ。
(つづく)
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