#107
#107
「ようこそ、我が要塞…ホワイト・プリズンへ。久しぶりだな、ブラック」
開けられたドアの中央から、ケイを狙うはウェブリー&スコットの銃口。構えるのはもちろん……デリック・エマーソン。
「あくまでも伝統ある、かつてのイギリス軍御用達拳銃ですか。いささか骨董品趣味ですね」
静かに、しかし侮蔑を込めてケイは言い放つ。挑発するつもりは毛頭ない。銃そのものにも罪はない。人を殺傷する為だけに改良を重ねられ続けてきたもの、自分だとてその恩恵にあずかってきた。非難する資格なぞない。
「しかしお年を召された方が、何もわざわざ実戦に直接関わることもありますまい」
人を勝手に年寄り呼ばわりするな。エマーソンは苦く乾いた笑い声を上げた。
「余裕だな君は。鏡を見たかね?あくまでもエレガントさが重要とされる英国紳士とも思えぬ姿だよ」
確かめてはいないがおそらく血まみれのおのが身体。そうしたのは、どこのどいつだ?ケイ自身も敢えて穏やかに問う。
「あなたにおれが撃てますか。何も同情を引き出したい訳じゃない。おれをレジィヨン・エトランジェール-フランス外人部隊-随一のスナイパーに育て上げたのは、あなた自身ではありませんか」
ほう、と微かに息をもらす。それは嘲笑のため息か、それとも何かの感傷故か。
「君はもはや、動かぬ標的一つ撃ち抜けぬ。その瞳ではな」
「おれを……オッド・アイの呪縛から解放してくれたことについては、心から感謝していますよ」
見える方の碧き瞳を細める。ケイ自身はベレッタすら構えてはいない。
「私は何度も君を救おうとした。そのチャンスは幾度もあった。すべて潰してしまったのは君だよ」
何を言い出すのか。ほんの少しばかりケイの眉がひそめられる。
「大切なニコラスの忘れ形見だ。いや、彼が存命中からその機会はいくらでも与えてきたつもりだった。君という希有な存在を、世俗にまみれた現世に置き残すことはあまりにも残酷だ、とね。清らかで静謐な世界へと早く送り届けることこそが私の使命だったはずだのにな」
ケイは奥歯を噛みしめた。肩を一度だけ大きく上下させ、気を鎮める。こいつの挑発には乗らない。
「つまり…現世からの解放。おれに死を与えるペルセポネーの女神役を買って出たというわけですか。あなたほど男性至上神話にとらわれた人もいないだろうに。権力と身体的能力を兼ね備えた支配者に、憧れていたのではないのですか」
ギリシャ神話における冥界の女王-ペルセポネー。その名の持つ意味は……破壊者。
「どれほど美しく生まれつこうが、君の持つ原罪は消えることはない。その瞳は…神に背きしもの…現実には存在してはならぬネメシスの具現化」
言葉なんぞ、飾らなくていい。あれだけ派手に目立ったオッド・アイでは、あんたの信じるフリーメイソンから仲間ごと切られる可能性があった、というだけでしょう?ケイの自虐的な嘲笑。
「あんたの持つ優生思想は、『大英国帝国連合』からの借り物ですか?その組織だって、存在するかもどうかもわからない。有能で家柄のある同級生から使いっ走りをさせられてきた、コンプレックスのかたまりだった少年が描いた、壮大な妄想の可能性の方が大きいってのにね」
冷静なはずのエマーソンが発した銃弾は、僅かにケイの髪をかすめた。
「当たりませんねえ、実戦から離れると。そもそもあんたはコマンダー(指揮官)を気取りたいだけ。あんたにおれは撃てないと言ったでしょう?」
妄想ではない。静かな怒りを含んだいらえ。ケイはわざと嘲りの色を濃くしてゆく。
「へ…え。各国のエージェントが血眼になって探しても、噂さえ掴めぬ秘密結社ねえ。脳内フリーメイソンですか。いいと思いますよ、終身刑の独房では、さぞかし暇がつぶせる格好のアイテムになり得るでしょうね。その妄想ならば」
「東西の緊張緩和でたるみきった情報部くんだりに何がわかる?我々はその姿を表には決して出さない。だからこその秘密結社だ」
得意げな口調に、ケイの失笑がかぶさる。
「では、その徹底した秘密主義を無様にさらけ出してしまった第一号が、あんたというわけですか…ボス。どうか事件の全容をすべて吐いてから、フリーメイソンとやらの粛清は受けてくださいね。それがあんたの残された大事な仕事だ」
もう一発。今度は腕をかすめた。服辺りにじりっと言う音がして、焦げたニオイが立ちこめる。当たったのかどうかさえ、この血まみれ姿では確認のしようもない。ケイの感覚すら、今はエマーソンとの攻防戦にすべて使われてしまっているのだから。
慣れた者には何と言うことのない、盤を使わぬ仮想のチェス。その駒の一つ一つが生きた人間であり、人生という人々の想いが込められていたことを除けば…平和でありふれた光景。
「だから君を生かしてはおきたくなかったのだ」
エマーソンの苦々しい顔。
「ご自分の手だけは汚さずに、ですか」
ものの言い方がニコラスそのものだな。今度は明らかな憎悪の念。そうか、エマーソンはリチャードと先代の子爵を憎んでいたんだな。奇しくもおれの父親と呼ばれた二人を。
「ニコラスの元から離せば、あの変人のリチャードのところにいれば、弱々しい君など生きてはいけぬと思った。彼の息子のクインシーは気性が激しいことを知っていたからね。しかし君は最低限の世話を受けつつも、大して心にダメージを受けることもなく成長していってしまった。あれだけの孤独の中を」
ケイが歯を食いしばる。こいつは何もかも計算済みで。おれがどんな思いであの家で暮らしたか。記憶の底に閉じこめてしまうほどの、恐ろしい原始的な恐怖。
「事件の夜、君だけはあの家にいたはずだ。浮気相手の子どもだと信じ切っていたスザンナが、よもや君をかばうとは思いもよらなかった。あのとき命を落としていればな」
そうさ、おれはこれほど苦しまずに済んだ。毎夜毎夜、うなされることもなく。
「孤児となれば、オフィリアが出てくることは想定済みだった。あの異常人格者のオルブライト男爵に引き取られて行っても、孤児としてコックニーをうろつくことになっても、どちらにしても生き残ることなど不可能だ。しかし……思惑は外れ、君は生き延びた。あれだけの過酷な生育状況の中を、な」
ひと思いに殺してくれていれば良かったものを。握りしめた手に爪が食い込む。
「ハミルトン夫人の執念は凄まじかった。おかげでこちらは何ら手を下すことなく、子爵を葬り去ることができた」
「財産はそっくり、あなたが横取りして。ですよね」
自分を抑えていられるのが不思議なくらい、ケイは辛抱強くボスの話を聞き続けた。ヤツも話したいのだろう。心に押し込めたどす黒いものを黙っていられるほど、人は強いものではない。
じきに死にゆく者。おのが手で殺そうとようやく決心した者になら、ようやく心を開けたのかも知れぬ。この孤独な独裁者は。
「私の私利私欲の為ではない。もちろん第一は組織の為。そして財産の一部はリチャードの開発資金として。そして残されたクインシーの留学の為にも使われた。君は気づかんかったかもしれんが、ハミルトン家への援助も行っていたのだよ。私が自分の為にあの金に手をつけたことなどない」
その金で…クインシー兄様と目くらまし要員としてのミミらは、フランスのエリート養成学校へと進め、おれはパブリックスクールに通えたという訳、か。血まみれの手で握りしめられた薄汚い軍資金とやらで。
「ただ、ハミルトン夫人はあまりにも事情を知りすぎた。自分の夫が何に怯えていたか、何故生まれた子どもを手放させたか。お嬢様育ちの彼女に何ができる、と高をくくっていたが、夫と義理の息子を手に掛けた事件を見て考えが変わった」
彼女は危険だ、とね。このままでは本当の息子の為に、すべてを調べ上げかねない。
「だから、殺し……た」
無意識に発せられたケイの呟き。そんなことの為に、あの温かい手は永遠におれから奪われたのか。
「無駄なことは嫌いでね。フェーズドアレイレーダーがどれほど実戦的かどうかも確かめたかった。また、せっかく手駒として使おうとしていた青木がのさばっているのも目に余る。私はすべてを知っているのだ、私には適わぬのだというところを知らしめておかねばな。彼なら、あの事故の持つ意味を十分理解するだろうと。実際、あれからAOKIは非常に扱いやすくなった。ほんの少し、事故の件をちらつかせればいい。私が表に出なくとも。たった一つの誤算と言えば……」
銃口はケイから外れない。エマーソンとて軍人としての訓練を受けてきた身だ。ケイがすぐれたスナイパーであったのは、怪我以前のこと。いつでも胸を撃ち抜かれる可能性はある。生殺与奪の権を握る…それこそがエマーソンの一番の喜び。人を駒のように操り、おのが意のままに。神を騙る思い上がった人間。
「君があの事故で生き残ってしまったことだよ、ブラック。いや、ケイ・ハミルトン君」
「…おれ…も…一緒…に…?」
片付けるつもりだったのか。だから、平日にもかかわらずスクールを休ませ帰宅させた。電車が到着する時刻を見計らって、夫人が通りかかるように彼女の普段のスケジュールを把握していた。そして…たまたまその時刻に通りかかったというだけで、エレン嬢は加害者とされ、多くの人々は事故に巻き込まれた。
「なぜ…なぜそのときひと思いに殺さなかった!?おれを!!」
やっと叫んだケイの声は、酷くしゃがれ、潰れていた。思いがせり上がってきて喉元を締め上げる。
彼らは、彼女らは、おれたちは、たかがこんな男の思惑の為にこれほどまでに苦しめられてきたのか!?
「だから君を、早く解放してやろうと考えた。生きるのが辛いのであれば、死ぬこともできぬのであれば、君にふさわしい死に場所を用意してやろうと」
「それが、ご自分の所属されるレジィヨン・エトランジェールへの入隊を勧めた本当の理由です、か」
「たかが貴族のお坊ちゃんが、あの過酷な環境で到底生き残れるはずもない。君は、自分の命を絶つ勇気も必要とすることなく、軍人としてその生を終えられる。言っただろう?君には何度も救いの手を差し伸べた、と。私からの誠意ある温情をすべて無駄にしたのは、君自身だ」
エマーソンの声が遠のく。おれがどの作戦でいつ命を落とすか。ボスはそれを常に望んでいた。意に反して、おれは生き残ってしまった。
おのれに残されたのは、深い深い復讐心と人殺しの才能だけ。
「生へのあくなき執着。君を滅ぼすのは結局、その見苦しいまでの我執だよ」
おれが生き続けてきたのは、この手に微かに残る、幼く守らねばならなかった妹を抱きしめた感触の記憶。そして、本当の母の愛ではないと怯えつつも、心を癒されたハミルトン夫人の遺された悲しみや憎しみを代わりに晴らすため。
我にしがみついて離れようとしなかったのは……。
「そのお言葉は、そっくりあんたにお返ししますよ。ミスター・デリック・エマーソン。おのれを軽んじ、いいようにこき使った二人の『親友』を見返したかった。おのが優位を見せつけたかった。あなたの脳内には存在しているのでしょう、『大英国帝国連合』への手みやげとして。妄想で作り上げた<nemesis>という大仰な組織の代表として」
ゆっくりとケイは、腕を上げていった。ピエトロ・ベレッタM92。視界の多くを奪われてもなお、おれはこいつを撃ち殺すことができる。
これ以上の犠牲者を出す前に。
エマーソンも動かない。チェスでの手詰まりを意味するステイルメイト。だがな、あんたも打ち手なら知っているだろう。
ステイルに持ち込んだことで、形勢はいかようにも転びうるということを。
「一つ教えてくれ、ボス。なぜおれを、これほどの手間を掛けて追い込んだんだ?何故ひと思いに始末しようとはしなかったんだ?」
エマーソンの目が、ケイを捉えたままぎこちなく歪んだ。言うか言うまいか。激しい葛藤と逡巡。
彼が口にしたのはだが、たった一言。
「たぐいまれなそのオッド・アイが…怖かったのだよ」
……私を責め続ける<nemesis>の瞳が……
涙腺さえ傷ついたはずのケイの右眼から、一筋の真っ赤な涙がこぼれた。
それは額から流れ出ていた、彼自身の血であった。
(つづく)
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