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#104

#104



トライアル。英米法の適用される国で行われる裁判のことを指す。

民事事件においても事実審理は行われるが、まずトライアル前手続という作業が待っている。訴えを起こしたからといってすぐに、いわゆる一般的に思い浮かべるあの裁判シーンが繰り広げられるわけではない。

証拠開示、争点の確定など細々としたやりとりの間に和解が成立してしまえば、事件はそこで終了となる。

さらに言えば、争うまでもないと判断されたのであればサマリ・ジャッジメントという判決一つで一審手続は終局してしまうのである。


無論、AOKI側が狙うのはサマリ。多少の金は払っても事を大きくはしたくないはずだ。クリスティアナを除いては……。

彼女はあくまでも「AOKIの過失は全くない」と主張する気でいるが、その為には軍との関連性を世に問う必要性が出てくる。青木善治郎の過去の犯罪までをも明るみに出すだけの勇気があるのか。


おそらくAOKI側は、重役連中の説得により『偶然が重なった上での現場付近の雑電波による誤動作』という線を打ち出してくる可能性が高い。ウィリアムズ・パークスはいっぱしの担当弁護士として、したり顔でそう説明した。


「その辺で手を打ったらどうだい?ハミルトン子爵殿。これなら君の願いの一つでもある、エレン嬢の過失という根も葉もない誤審も撤回することができる」


ざわめきの中の弁護士事務所で、彼はゆっくりと説明した。その表情には、どうかこれで納得してはくれないか、という想いも込められていたのだろう。


クリスの狙う意図のためには、過去の善治郎の罪さえ暴かれる。

逆に、ケイがあくまでも主張する「すべてを法の下で明らかに」を実現するには……彼自身の罪をも問われることになる。

将来ある子爵として生きるべきケイ・ハミルトンが、元傭兵であり強奪犯でありスナイパーであった事実。できれば伏せておきたい。ケイ以外の皆が望むのは、彼の平和で穏やかな生活。贖罪など、彼のこれまでの生き様を見れば十分過ぎるほど償ってきたではないか。そもそも、ケイが背負うべきであったものなのかどうか。


しかしケイは、到底納得できないという顔でウィリーを睨み返した。


「それでは、あの古狸を引っ張り出せない」


「古狸?…ああ、エマーソン氏のことかい?」


声をひそめ、ウィリーは囁いた。無茶を言うな。彼のことは情報部にでも任せておけよ、と。


「陰で暗躍していたヤツを陰で始末するんじゃ、何も変わらないだろうが!?」


軍や情報畑に渡す気はさらさらない。そんなことをしてみろ、エマーソンに利用価値があると判断されればヤツはのうのうと生き延びる。それだけは絶対にイヤだ!!


大仰にため息をついて見せたウィリーは、諭すようにもう一度ケイへと向かう。


「もう少し大人になったらどうだ?我々とて彼を野に放つことはしない、とカークランド警部も話していたじゃないか」


二重スパイという容疑をかけつつも、平気でヤツを泳がしていたのは軍も警察も同じだ。今さら信じられるか。


ケイはどうしても、公衆の面前でデリック・エマーソンの仮面を引き剥がしたかった。善良な市民を装いながら、人を人とも思わぬその思想で多くの人間の人生をも狂わせた男。願わくば社会的な抹殺。それが叶わぬのならこの手で……。



「言っておくけれどね、ハミルトン卿。君がこれ以上犯罪に手を染めることだけは反対だ」


まるで見透かすように、ウィリアムズはケイへと声を掛ける。


「……なぜ?裁判が不利になるからか」


否定することもなく、低くうなるようにケイが応える。ふん、と鼻を鳴らしたウィリーはいつもの皮肉げな貴族様の口調で言い放った。


「曲がりなりにも、大切な僕の弟の係累だからな。僕は民事が専門で刑事事件に手を出す気はない。君の弁護人なんか、まっぴらごめんだ」


心から人を信じることもできずにいたウィリアムズ・パークスが示した、彼なりの精いっぱいの気遣い。わからぬケイではない。ふっと頑なな表情が緩む。


「どうせ、もう二度と銃は持てない。この目ではね」


必要もない。ケイ、そして耀司が何度も自身を危険にさらしてもなお危ない橋を渡ってきたのは、すべてはハミルトン夫人の為なのだから。

過去が解き明かされた今、誰かを傷つける為に銃を取ることはない。あいつ以外には。


「……わかったよ。上司にはもう一度、デリック・エマーソンの産業スパイ容疑について検討してもらうことにする。証拠品としての例の試作品の出どころだが…」


「クインシーとアンディに被ってもらう。それではどうだ?」


下から睨め付けるようにケイは陰惨に嗤った。黒き瞳を永遠に失わせた当の相手。ある意味、感謝はしているさ。だがおれは、いつまでも弱虫キースではないのだ。

一瞬言葉を失ったウィリーは、何とか面目を立て直そうと冷静さを装った。


「君は、その頭脳をもう少し社会的に有意義な形で使った方がよいのではないかい?」


やや震えがちなその声は、ケイの芯の強さを思い出したからか。


「てめえに言われたかねえな。これは失礼、敬愛する大先輩にはとても適わないと申し上げておくべきですね」


くすくす。ケイはようやく普段の気弱な子爵を演じながら、憎まれ口を叩いた。





原告団である遺族会が一枚板ではないこと、それはケイが一番よくわかっていた。

あくまでも娘であるエレンの無念を晴らしたいラザフォード夫妻、そして真実を聞かされてもなお、彼女を憎まねば生きてはゆけぬ被害者の身内。現実的に生きてゆく為の金が欲しいと切実に願うアデルの家族のような者たち。誰を責める気もない。それが本音であり、彼らにも自分たちにとっても長い歳月であったのだ。


けれど、ようやくここまでこぎ着けた。


AOKIの研究所が襲撃され、極秘機密が盗まれた。それにはどうやら産業スパイが関与しているらしい。その情報を付け加えた結果、サマリだけはどうにか免れた。





「襲撃したのは、どこのどちら様でしたっけねえ」


運転席で笑いをかみ殺しているのは、陽気さを取り戻した耀司だった。


正式なトライアル前に、それぞれの事情聴取がある。何度か行われたその手続の場で、双方の主張は真っ向から対立した。表向きは。

つまり、原告団はあくまでもAOKIの「利益重視を強引に推し進めたが為に、安全性が犠牲になった」点を追及するという姿勢を崩さない。

AOKIはAOKIで、あらゆる科学的なデータを持ち出して、全く過失はないと言い張るばかり。その為には大学から権威ある研究所に至るまで、調査を依頼して証拠を揃えてきた。

論議が激しくなればなるほど、矛盾点が明らかになる。事故が起こるはずのないものだったという矛盾が。



ケイは、手元に視線を落とした。


『軍事転用可の次世代リチウムイオン一次電池』その試作品。厳重にくるまれたその重みを手にずしりと感ずる。

これを司法がどう扱うか、よもや不用意に本トライアルに掛けるような真似はしまい。どれだけ裁判所が独立性を保っていようが、この事実を国民…ひいては全世界に明らかにするだけの度胸はないだろう。

しかし、その場にいる人間にだけでもいい。少なくともおれはこの事実を知っている。それを閉じられた空間とはいえ公に知らしめることで、エマーソンの利用価値は地に墜ちる。

あくまでも噂に過ぎなかった二重スパイの存在は現実のものとなり、一般市民の知るところになったヤツに軍部の救いの手は伸びない。

あとは、誤作動の原因をどの辺で落とし込むか。その判断はお上に委ねるさ。

おれなりの最大限の譲歩だ。




ケイの視線が車窓から外へと向かう。自ら運転するには、狭められた視界を訓練によって広げる必要がある。効果があるかどうかはわからぬが。

可能性があるならばと、愛車は手放せずにいる。未練がましい。それまで生きているかどうかさえも望み薄だのに。


情報はとうにエマーソン側に伝わっているはずだ。クリスティアナ率いるAOKIの思惑も、おれたちの動きもすべて。

狙われることを十分予測して、この車は防弾ガラスを入れてある。シャーシもちょっとした装甲車並みだ。

ハンドルを握るのは、軍でさんざん鍛えられた耀司。彼は裁判には直接関わりがないからと参加する必要もない。お抱え運転手だな、と笑顔を見せる。


よもや市街地でスナイパーライフルを撃ち込まれることもないだろうと踏んではいる。しかし相手は、デリック・エマーソン。どう出るか。このまま黙っているはずもない。



ハミルトンの屋敷から裁判所までの道が、やけに遠く感じる。

それまで襲撃もなければ家を荒らされることもなかった。静かすぎる。それがなおのこと、ケイたちを苛立たせた。


「高をくくってんじゃねえの?軍は自分を見捨てない。或いは頼みの『大英連合王国』が守ってくれる、とよ」


「大英国帝国連合だよ…」


ケイの苦笑い。カークランドにしたらよほど屈辱的だったろうに、SISにまで頭を下げて訊き出そうとした『大英国帝国連合』の情報。しかしそれは、文字通りの地下組織であり、構成員一人たりとも掴めてはいないようだった。


もしこれで、エマーソンがはっきりと関わりがあると知ったら。


「SISが今度は黙っちゃいないだろう。だからこそ無茶だけはするな」


警部にすら釘を刺された。殺してしまえば解決する問題ではないのだと。わかっていてもなお、かつてのボスを目の前にしたとき、おのれが冷静でいられるかどうか。


ケイは、知らず掛けていたサングラスをそっと下げた。曇り空のロンドン。その僅かな光でさえも眩しい。

ブルーのコンタクトを入れるまでもなく、黒い瞳の片鱗も見えない。



すべての運命の歯車を狂わせるきっかけの一つ。それは確かなこと。神が与えたもうた神秘のオッド・アイ。

二つの違う輝きが、おれをママから引き離し…あまたのひしめく人々の中から見つけ出すマーキングサインとなった。


ハミルトン夫人……ママ。僕はもうオッド・アイじゃない。ただの碧い瞳だけを持つ平凡な英国人だよ。子爵なんかに生まれなければよかったのかな。どこか下町の片隅で、ママとありきたりの食事を取り、泥だらけになりながら耀司と遊んでいられたかも知れないのにね。


あのまま事故が起きなければ、そんな生活もあり得たかも知れないね。

それぞれが重い罪を抱えながら、温かな笑顔だけで暮らしていけたのかも……わからないのにね。






ふと、ケイはおのが耳に違和感を覚えた。初めて聴くような、逆に慣れ親しんだかのような不快音。

極端に狭まった視界と視力低下は、ケイに鋭敏な聴力をもたらした。その失われた機能を補うかのように。


「変な音がする。聞こえるだろ?耀司」


耀司にそっと呟く。静かな車内でもしかし、それはあまりに微かな囁きだったようだ。


「あん?何か言ったか!?」


「ノイズ、っつうか可聴音域を超えてるような変な音だよ!!」


「そんなもんまで聞こえるのは、おまえかコウモリくらいなもんだ」


あくまでも陽気にいらえを返す耀司に、ケイはサングラスを投げ捨てて視線を向けた。


「本当に聴こえないのか!?これだけ人が苛つくような厭な音がさ!!」


「だから何…」


耀司はその先を続けることができなかった。瞬時に顔色が変わる。音を捉えたわけではなさそうだ。



それどころか。



彼はハンドルを必死に握り直した。何度も持ち変えるが言葉も出ぬまま。異変を察したケイは、大声で呼びかける。


「耀司?おい!!どうした!?」


「うるせえ!!でかい声出すな!!ハンドルが、ハン…ド…」


動かない……?ケイの顔も青ざめる。まさか、まさか!?


「この車はハイブリッドじゃねえぞっ!?」


「HVじゃなくたって、自動車は元々精密電子機器の塊だ!!」


耀司は今度はブレーキを思い切り踏み込んだ。ケイはアンチロックの掛かる衝動に備えて身体を硬くした。



しかし。



黙って何度も足を思い切りペダルに押しつける。けれども、停止制御の気配すら感じられない。


「耀司!!」


「黙ってろっつったろ!!舌噛まねえように口は閉じとけっ!!」


耀司は護身用の銃を出すと、視線は前方に向けたままハンドル付近を撃ち抜いた。

ドウッという鈍い音とともに、狭い車内に銃煙が立ちこめる。すっきりとしたメーター類が並ぶ運転席に無惨な穴が開く。


その代わり、ハンドルの自由が僅かに利く!!


耀司は力を込めて、パワステの切れた重いステアリングホイールを切り続けた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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