#103
#103
車で送るというのを拒否した。では呼ぶから待ちたまえというのを振り切った。ここは郊外で、中心市街までは遠いと言ったのは君自身ではないか。最後はあのウィリーですら叫んで止めようとした。
しかしケイは、すべてをあとにして屋敷を出た。
体力には自信がある。いやあった。歩いていればいつかは夜が明ける。
とにかくおれを一人にして欲しいと。
ああそうさ、過去をみなさらけ出してしまえばいいと願ったのも確かに自分だ。
見えないところで何かが秘密裏に行われている、そんなことはもうたくさんだった。
しかし、引っ張り出した過去という名の物語は、ただケイ・ハミルトンというかつての少年を何度も切り裂く作業でしかなかった。
おのれの置かれた本当の立場を知ったケイ・H・パークスは、母親とともに家を出ると義兄に告げた。
一番動揺を見せたのは、当のウィリーだった。
「何故おまえが出て行く必要があるんだ!?ずっとこの家にいればいい!頼むからいてくれ!」と。
自力で立っているのさえ辛かったケイは、壁にもたれたままその芝居がかったショートフィルムを見せつけられていた。
おれは何を、ここで何をしているのだろう。
この女はおれに何を告げた?それが真実である可能性は?裏を取るべきではないのか。たった一人の、息子の為になら何でもしでかす歳を重ねた女の戯れ言に迷わされるのか、ケイ。
どんだけ勘が鈍っちまったんだ?おい。冷静でいろと自分自身の中の理性が騒ぐ。
その一方で、これこそが真実であるのだと確信している自分がいる。嘘をつく理由などない。彼女は先代の子爵が言った言葉の殆どを理解できずにいるだろうし、ただそれを機械的に記憶していただけだ。
おそらくその記憶こそが、息子を最後には守り抜くと信じて。
アマンダがいたから、先代の子爵は温かであったはずの家庭を壊したのではない。おれが生まれたから、あの家は崩壊していった。
愛すべき実子は、復讐の女神に呪われた子どもとして認識され、身代わりになるべき新たな子どもを求められた。
それがケイ・H・パークス。彼もまた被害者に過ぎない。
ニコラス・ハミルトン子爵の血を継ぐ者として、生母から引き離され、同じ名の子どもに取って代わられた。
ポーンを入れ替えるように、いとも簡単に。
黒のチェス・ピースは、真白きハミルトンの屋敷にはそぐわぬ。単なる黒でもないな。キメラのごとき、どちらにも属せぬ二面性をも併せ持つ黒きネメシス。
血を分けたはずの唯一の弟は、その日から白く輝く歩兵として磨かれ抜かれた象牙の駒になった。
おれたちが生まれてくる意味などあったのだろうか。いや違う。もしおれがオッド・アイでさえなかったら。
そこまで考えて、ケイは足をいったん止めた。いつしか川縁を歩いている。うっそうと茂る森を抜け、この橋の遙か向こうには微かな繁華街の灯りがちらつく。
おそらく、たとえ何の問題がなくとも…エマーソンは難癖をつけたことだろう。リチャードの学業は優秀だった。クインシーもその血を受け継いでいる。ニコラスは家柄もあるのだろうが、それだとてパブリックスクールのプリフェクトを務め上げるだけの人望も能力も持ち合わせていたはずだ。
しかし、彼らより確実に下に見られていたデリック・エマーソンには、それらを上回る智慧があった。悪魔のような…他人を陥れる才能が。
しかもそれは一日二日で終わるものではなく、幾年にもわたり周到に用意された彼なりの復讐計画だったのだろう。
何に対しての復讐だ。おのれの価値を認めようとはせぬ『親友』『戦友』『同志』に対する……。
彼は思ったのだろう。我こそが『ネメシス』を統率する者だと。その為に必要なものはニコラスの財力、そしてリチャードの頭脳。
どちらも持ち合わせぬおのれはしかし、彼らをただのピースとして見下すことで優位に立とうとした。
実際それは、成果を上げていた。おれたちはたった一人のプレイヤーに操られるだけの駒。
それぞれの過去も未来も生きた感情をも持つ、生身のチェス・ピース。
もし、エマーソンの計算が外れたとしたら原因はただ一つ。
……幼子は成長するというファクターを無視したこと……
幼子はいつまでも手元で操れる子どもではいないのだ。それは運命と偶発的事象により、複雑な人間関係を作りだし、決して先を読むことなど不可能になってゆくものなのだということ。想像もつかぬことだったのだろう、本物の神などではなく、神を騙る愚かな人間に過ぎぬ者には。
書斎の騒ぎのあと、今すぐにでも出て行くと言い張った義弟を、ウィリアムズ・パークスは必死に引き留めた。寂しげに振り返った碧きケイは、母親をかばいながら静かに言ったのだ。
「これまで庇護されてきたことには感謝してるよ、義兄さん。でも脚の悪い僕には…あなたの求めに一生、応じることができない」
あのウィリーが言葉を失う。義弟は、いや最愛の弟は知っていたというのか。兄がおのれを見る目にどんな感情が含まれていたかを。
ウィリアムズは同じ言葉を呟き続けた。違う、違う!そんなんじゃない!と。
決して逃げ出せぬ籠の中に閉じこめるように、慈しんで育ててきた愛する弟。そこにひそむよこしまな想いまで見抜かれていたのか。それともウィリー自身は気づかなかったというのか。
「嫌いなわけがない、義兄さんのことは愛している。純粋に弟として。もしそう呼ぶのを許してもらえるのならば」
魂を抜かれたように呆然と佇むウィリーは、その言葉にハッとしたように顔を上げた。
「おまえは私が、パークス家が守り抜く。ここにいてくれるだけでいい、何も望まない。どうか、どうかここから去らないでくれ。僕の前から消えないでくれ!」
生母が僕を愛していた訳じゃない。彼女は生粋の大貴族だ。家柄の為の結婚、それは契約であることなど重々承知している。それが破綻すれば別の契約を結ぶまで。父だとて僕はただの後継者としか見てはいなかった。
純粋に僕を慕ってくれたのは……ケイだけだ。
どうか世話をさせてくれ。おまえの脚となってどこへでも連れて行く。目となり耳となり、世の中のすべてをおまえに伝えてやる。見返りなど何も要らない。おまえがいてくれればそれでいい!!
ウィリーが気づかなかったのは、むしろこちらの感情の方だろう。
自らの性嗜好を向少年と決めつけ、悪ぶってみたものの…本当に欲しかったのは、ただ血のつながらぬ大切な弟からの無償の愛。
かつてのオッド・アイのケイは、そっとその部屋を出た。彼らは見つけたのだ、心から人間として愛する相手を。それは決して行為を意味するものではないと。ただただ想えばいい。大切に慈しめばいい。人はそれだけで、生きてゆける。
分厚い絨毯敷きの廊下は音を吸収してしまい、大勢いるはずの使用人の声もここまでは届かない。
静かだ。
ケイ・パークスとウィリーとの間に確かにある愛情。それは純粋なもの。血を分けた同じ顔を持つ、白と黒のピースとの間にはないもの。それでいい。名が同じであろうと生物学上の父親が同じであろうと、おれたちにつながりは何もない。
それでももし、パークス本人がハミルトンの爵位を欲しいというのなら黙って譲るさ。
おれには何も要らないのだから。
もう一人、足元をふらつかせながら廊下へと出てきたのは…アマンダ夫人だった。
この女とまともに話したこともないのだな。ふっと笑みさえこぼれる。
「貴女はまだ、憎んでらっしゃるのですか。ハミルトンの父とサラ夫人を」
大切な息子を奪い、あまつさえ殺そうとしかけた相手。財産と名誉があるのなら欲しがるのも無理はないだろう。ケイはそんなことすら考えた。
しかし、彼女は力なく首を振った。しばしの無言。
「サラ様はお優しい方だった。憎いはずの私の息子にさえ、辛く当たることはなかった。でもその一方で、手放してしまったあなたをずっと捜し続けていた。子爵様は誰に預けたのかも知らせずじまいだったし、ようやくキャリック=アンダーソンの家にいるとわかったときには、あの事件が起こってしまったあとだった。それまで一歩たりとも踏み入れたことのない下町にまで足を運んで、あなたを捜していたそうよ」
「おれが見つからなければ、弟であるケイはそのまま大切に育てられた」
なまじ見つかってしまったからこそ。言外にそんなニュアンスを込めた。しかしアマンダは、今度はきっぱりと言い切った。
「無理よ。あたしはあの子を取り戻したかった。サラ様があなたを捜し続けたのと同じように。それが……母親ではなくて?」
野良猫のように小汚いコックニーの浮浪児。抱きしめてくれた腕は、じゃあ、本来の母親の……想い?
あれは、誰からも愛される弟のケイへ向けられたものではなかったのか。あれこそ、本当の自分に対して広げられた愛情のこもった温かな腕だったというのか。
「あなたがオッド・アイだったから。碧き瞳と黒き神秘の瞳を併せ持つからこそ、この広いロンドンの中からサラ様はあなたを見つけ出せた…」
そこには憎しみの欠片も含まれてはいない。穏やかな声。
しかし、ケイの心に刺さった切ない想いは、彼を打ち砕いた。
「オッド・アイだから…サラ夫人は…母は…おれを…」
先代の子爵が生き続ける限り、ハミルトンの家におれを招き入れることはできない。もう一人のケイがフリーメイソンへの入会資格を持ち合わせている限り、自分の本当の息子をケイと認めさせることもできぬ。
それが、あの闇へ葬り去られてしまった事件へとつながったのか。サラ・ハミルトンは先代の子爵を殺害し…息子として育ててきたもう一人の少年の脚を撃ち抜いた。
すべては、このおれをもう一度抱きしめる為だけに……。
ケイは気づかなかった。おのれの頬に流れる涙に。いつ消えるかわからぬと怯えていた幻想のような愛は、現実に存在するものとしての…本物の母の愛。
「子どもの為になら、女は何でもするのよ。だからあたしはサラ様を憎むことなどできない。どんな形であれ、あたしの元へとケイを返してくださったあの方を…」
それきり、アマンダは口をつぐんだ。
知らぬうちに口元を押さえ、嗚咽をこらえるのに必死だったのは、ケイ。
優しかったハミルトン夫人。マダム・サラ・ハミルトン。違う、そんな名じゃない!!
ママン、ママ…ママ。おれの為だけに向けられた本当の温かさ。
涙は止まることなく、ケイの頬を濡らし続けた。
たった今、この生命が終わるのだとしたらどれほど幸せだろう。この温かさに包まれながら息絶えることができたら。
切なくも儚い夢。
川から吹く風は、湿った感傷さえも緩やかに乾かしてゆく。ケイの瞳にもはや光る涙はない。
やるべきことは残っている。わかっているさ。けれど今だけは。
あらゆる言葉の片鱗さえも頭の中から追い出すように、ケイは闇夜の中を歩き続けた。
(つづく)
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