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#102

#102



「お母様!」


かつっ!と音を立ててクラッチが手から離れる。それにもかかわらずパークスは片脚を引きずりつつ彼女の元へと向かった。

ケイは…動けぬまま。

おれは、おれはチェス・ピースなんかじゃない!どこまでまとわりつく気だ、エマーソン!!


僅かに舌打ちをしながらウィリーが手を貸す。よほど嫌っているのか、この義理の母親を。

しかし細身の身体に不自由な脚では、義弟にはいかな女性でも支え上げるのは無理だ。結局はウィリーが抱えるようにして、書斎へと無造作に置かれたカウチに横たえる。

場違いなカジュアル過ぎる家具は、いっときの休息を取る為か。誰が。おそらくは以前はここの主が。今は……ウィリーが?


重厚なと言っていいほどの飴色がかった部屋にそぐわぬシンプルな生成りのカウチには、今は豊満な胸を上下させ、顔色を蒼くさせたアマンダがうずくまっている。

身体が小刻みに震え、何も話せそうな状態ではない。

それでも、慌てて飛んできたのだろう。おれがこの屋敷へと訪れた…と聞いてから。

派手な身なりで上品とは言えぬ似ても似つかぬ母親に、パークスは手を添え、背中をなで続けた。


ケイ・H・パークス。幼い頃の彼に惜しみない愛情を注ぎ続けたのは、信仰篤き聖母のようなサラ夫人ではなかったのか。

ケイの思考がさらに揺さぶられる。




「僕はあなた方を糾弾しにここへと来たのではありません」


ケイはゆっくりと、想いを押し込めつつ彼女へ告げる。そもそも拉致されるようにウィリーに連れてこられたのだ。彼女が自分を責める必要などない。

それとも、自らの息子を守りたいが一心か。これがハハオヤというものなのか。ケイの心の一部が確実に壊死してゆく、その様が感じ取れてぞくっとした。


「僕は真実を彼らに伝えたいし、逆に本当に起きたことを知りたい。願いはそれだけです」


おそらく彼の言葉はアマンダへの刃となり、彼女の積年の思いをズタズタに引き裂いていることだろう。これだけ穏やかに語りかけているというのに。

ケイはわかっていながら、敢えて話すのをやめなかった。




すべて引きずり出してしまえ。闇の中で腐ってゆく真実など、外気に触れさせて乾燥させてしまえばいい。

グズグズに溶けてしまう前に。腐り果て、皆が朽ち落ちてしまう前に。

どれだけ多くの人の心を傷つけようとも、天日に干してしまえばいいのだ。機密は何ら意味を持たなくなり、ただの過去となる。それでいい。

何かは確実に救われるだろう。少なくとも彼女自身は。抱えていたものが大きければ大きいほど、苦しさは消えるどころか膨れあがってゆく。それは腐敗して発酵してゆくだけのもの。

一介の平凡な女に、それは辛かろうよ。




おのれの真意に気づいているのかどうか。ケイはアマンダを促した。それが彼女への救済となるというのに。


アマンダは意を決したように顔を上げた。涙で化粧がはげ、薄汚れた顔を、一人息子は丁寧にハンカチで拭き取ってやる。

まともに血のつながった母と子どもとの交流を見せる者など、自分の周りにはいなかったんだな。カークランド警部の親子関係など見たいわけでもねえし。

不意について出るケイの苦笑い。微笑ましい視線とはほど遠い。




「あたしは、ハミルトンのお屋敷で働いていたんです。とても仲のよいご夫妻で、お生まれになるお子さんを楽しみにしてらっしゃって」


楽しみ…。生まれるまでは待ち望まれていたこの生命。


「しかし、待望の第一子はオッド・アイだった」


「奥様は何も気になんかしてなかった!!なんて美しい神秘の瞳かしらとだけ。ただ、別の要因や合併症をとても心配しておられたので、すぐにでもきちんとした専門医の診断をとお医者様を探されていたのです」


幸いにも視力低下も他の合併症も併発していなかった赤ん坊は、その愛くるしい瞳で母を見つめ続けた。いとおしそうに抱きしめる夫人。


その腕からかの息子を取り上げたのは……。


「おれは、ニコラス子爵の望む子どもではなかった…。彼が欲しかったのはあくまでも自分の意志を継ぐフリーメイソンの構成員たる長子」


ケイの呟きにさえ、アマンダは違うと言いたげに首を振り続けた。


「子爵様だって、治せるものならとロンドン中、いいえ英国中を探すおつもりだった。それでもダメなら虹彩異色症の治療が進んでいる国へと。治療と言ったって、可愛らしいお子様には何の不自由もなかった。ただ、あまりにもくっきりとした碧い瞳と黒い…」


黒い瞳…Ojos negros…どちらも黒ければ、どうと言うこともないエキゾチックな風貌で片が付いただろうに。


「それをあの悪人が」



…………



「これはネメシスの呪いだ。君は気づかなかったのか。二面性を持つかの女神が具現化されたのだ」


ニコラスは、その言葉を一笑に付した。確かに彼らは大英連合帝国の下部組織として、『ネメシス』の地下活動を行っていた。それもこれもふがいない祖国を救わんが為。いや、祖国に何の罪があろうか。他国からのいわれなき静かな侵略から我々が守らねばならぬとの強い使命感があればこそ。


しかし、生まれた子どもの障害は突然変異による偶発的なもの。治療の方法があるのならいくらでも探してやる。私にはその財力もある。あくまでもニコラスは言い張った。


「しかし、この子は『ネメシス』には参加できない」


執拗に責め立てる相手に、子爵はムキになって反論した。それならばそれでいい。この子は静かに暮らせばよいだろう。子どもはこれからでもまだ…。


言いかけたニコラスに、悪魔が囁く。



「君の血統に黒き瞳の遺伝子があるとでもいうのか。ドイツで過去に行われた壮大な実験を思い起こすまでもない。優れた人類学者のオイゲン・フィッシャー博士は述べているではないか」


その男はよどみなく、まるで古代の美しい詩を暗唱するかのようにフィッシャーの主張を再現してみせた。曰く──



『私たちは人種の混血についてまだあまり多くを知らないが、はっきりわかっているのは次の点である。すなわち、劣等種族の血を受け入れたヨーロッパ民族は──ある一部の民族は確実に劣等人種であり、このことを否定するのは空想家だけである──この劣等要素を受け入れたことによって精神的・文化的衰退をこうむった、ということである。こういう劣等種族の人間には保護を与えられてはならない。せいぜい彼らが我々の役に立つ間、与えられていいだけだ。さもないとここで自由競争が、つまり没落が始まるからだ』



バカな!それと息子と何の関係があるというのだ!?

抑えきれぬ親としての感情と、長年その男が言い続けてきた論理が交錯する。


「金髪碧眼の君のような英国人が、最も優れた人種である。それを無視するがごとく異民族を受け入れた結果がどうだ?英国の衰退など、許されるのか?」


リチャードの髪は金髪ではないよ。小声で反論を試みる子爵に容赦ない言葉が浴びせられる。


「彼がこの先、『ネメシス』の中枢を担えるとでも思っているのか。かの博士が言っているだろう?我々の役に立つ間、いてもらえばいい存在である、と」


では君は、友や私の息子を侮辱するのか!?いかな長年の親友と言えども、許せることと許せぬことがある!


子爵の荒げた声に、相手は冷笑を浴びせる。



「おめでたい男だな、君は。ご夫人を疑うこともせずにか」


「……!?」


男の呪詛は続く。闇色の瞳は暗黒の象徴。我々より劣るくせに、大きな顔で祖国を我が物顔で侵略しようとする人種がいることに気づかぬのか。


「侵略する人種?」


これは静かな精神的戦争だ。武器も持たず、武力も放棄したと口先だけで唱えておきながら、我が国の経済を乗っ取ろうとしている輩が、な。


彼が暗に指し示そうとしたのは、当時台頭著しかった…アジア人。特に日本人への風当たりは確かに一般的にも強かった。

ニコラスもすぐに思い至ったのであろう。黙って目を見開く。


黒い瞳を持つ日本人の血を持つ、とでもいうのか。我が息子が。



「誰の子どもか、知るのは母親だけだ。父親はどんなに科学的な検査をしようとも、消去法の可能性しか探ることはできない」


「妻の…不貞を……疑えと……」


呪詛は荒唐無稽であればあるほど、ふだん理知的な人間を陥れるだけの魔力を持つ。


「いいか。リチャードは今、どこの研究員だ?」


「老舗の自動車メーカーである、コンフィギュア……」


何かに操られるように、ニコラスは呟く。生粋の英国企業であるはずのコンフィギュアに日本人の取締役がいることを、君は知っているのか。どす黒い囁き。


「まさか!?」



……青木善治郎。彼を一目見るがいい。黒い髪に黒い瞳。背の低いのっぺりとした顔を持つ男だよ……



…………



「あとで話してくれたんだ。あたしにはね。あまりにもお優しいサラ様には、こんな話はとてもできないと。その反面、聖母のような顔をして私を裏切っていたのだと。子爵様はたいそう悩まれて悩まれて」


「オッド・アイは、異人種間で生まれる訳じゃない。それは、ニコラス・ハミルトンにも十分…わかって…いた…は、ず」


ケイの言葉は途切れた。こんなときに、あのサイラスの温かくも柔らかい声を思い出すだなんて。

何も知らぬ彼は、おれの瞳を見てこう言った。予備知識も科学的素養もなければ、そんな迷信をも信じてしまうものなのだろうか。



…………



そのサイラスの目が見開かれる。ハッとして右眼を隠そうとしたケイは、その腕をそっと押さえられた。

「綺麗だねえ。君はハーフなの?宝石みたいな瞳だ」

ハーフだからオッド・アイになる訳じゃない。発症率は低いがケイの場合はおそらく先天性のもの。幸い視力低下は併発していない。うっすらと青みを帯びる黒い瞳は多いが、ここまではっきり美しいブルーと漆黒の闇を持つのは確かに珍しいだろう。



…………



子爵とサイラスでは、その知識教養といったバックボーンが違いすぎる。それでもあの男は、どんな理由をつけてでもニコラスとリチャードとの間に溝を作りたかったのか。


…この赤ん坊はリチャードの元へ引き取らせた方がいい。拒否するようなら青木との関係を自白するようなものだし、隠したければ黙って引き取るだろう。どちらにせよ、コンフィギュアで何が起こっているのか。君はこれからも監視し続けるべきだ…


あらゆる言葉を巧みに操り、男はニコラスに信じ込ませた。全く根拠のない妄想話を。

心の弱っていた状態の子爵は、心ならずもそれを受け入れてしまったのだろう。泣き叫び、抵抗し続けるサラ夫人から息子を取り上げ、リチャードの元へと。偏屈で通っていた彼は虹彩異色症(こうさいいしょくしょう、heterochromia iridis)への純粋な興味から子どもを受け入れた。


次に取った子爵の行動とは。



「あたしに子どもを産ませた。何でもいい、私の血を継いでもらえる子ならばと。どうかしてたんだ、あの頃の子爵様は。それを望まれたと勘違いしてのぼせ上がったのは、愚かなあたしさ。生まれた息子はケイ様とうり二つ。違いは淡い蒼い双眸。さっさと取り上げられて、あたしの大事なケイはサラ様が育てられた」


一年の差、とはそれを意味するのか。必要のない息子の身代わりを生ませる為のタイムロス。バカげている。けれど子爵にとっては…それこそが何よりも重要だったのだろう。


「屋敷を追い出されたあたしは、いつかはこの子を引き取ろうと必死だった」


「その為に伯爵である父に取り入ったのか!?そんな下らぬ理由で!!」


「あたしはね!!この子を必ず迎えに行くつもりだったんだよ!!子爵様よりも位が高ければ、きっとあたしはこの子と暮らせる。それだけを心の支えに、何でもしようと死に物狂いだったんだよ!!」


パークスという名のケイが、黙ったままおのれの母親を見つめる。おそらくは初めて聞かされた物語なのだろう。



こちらのビショップを動かす為だけに、邪魔なポーンをどける。クイーンを守る為にはルークをも切り捨てる。

エマーソンにとっては、この世界はただのチェス・ボードにしか過ぎぬ。血の通った人間どもは、自分の思うがままに動けばいい。




何故?なぜ!?




ケイは、力なく言葉をこぼした。


「それでも…サラ夫人は…夫を殺害し、息子として受け入れたはずの彼を撃った…」


「そんな言い方はしないでおくれよ!!すべてはあんたを!……ケイ様を探し出してその腕に再び抱きしめる為にしたことだのに」


同じハハオヤという種族。ケイ・パークスは彼女を愛おしそうに抱き止めた。もうそれ以上は。

アマンダは、華奢な息子の胸に顔を埋め、泣き崩れた。話の飲み込めぬウィリーは呆然と立ちすくんだまま。



ケイは、激しい目眩の渦に飲み込まれようとしていた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

註)文中の優生学思想については、現在でははっきりと否定されていることを申し添えておきます。


  (文責 北川)

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