#101
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それはハミルトンの質素な屋敷とは比べものにならぬほどの大きさがあった。重厚な門扉が開けられ、彼ら二人を乗せた車は吸い込まれてゆく。
「ここから街の中心までは、だいぶ掛かるんじゃねえの?」
不遜にも広々とした車内の後部座席で、足を組んだケイは口調を変えることはしなかった。それに、自らハンドルを握るウィリーが笑顔を浮かべる。
「ふだんはオフィスのすぐ近くに部屋を持っているからね。ここにはそうそう帰る訳じゃない」
金持ちは違うねえ…小バカにしたようなケイの戯れ言にも気にせぬような表情。ウィリーはこの状況を楽しんでいるのだろうか。
「親の会社で役員つう名前でふんぞり返ってるんじゃなかったのか?おれはそう聞いていたけどな」
「よく調べているんだね。そんなにも僕らのことが気になっていたのかい?心から光栄に思うよ」
名ばかりの役員ではつまらないと、在学中に取った資格で働いているのだとこともなげに軽く言う。どうせ、ゆくゆくこの家柄を管理するには法律に明るい方が何かと便利だ、くらいにしか思ってはいないのだろう。
一つ一つの訴訟に、どれほどの人生と想いが込められているかなと考えもせずに。
ケイはさすがに「おれはあら探しにここへと来たのか?」と、口には出さず苦笑した。
「先日は弟が世話になった。今日はそのお礼だよ。十分に寛いでいってくれたまえ」
何の屈託もなく言えるのは、彼のある種の才能だろう。
「随分、不貞な義理の弟君を可愛がっているんだな。だのに子爵位を押しつけて追い出そうとする。大いなる矛盾ってヤツか。どんなに好みの年下だろうと、金を譲る気は欠片もない、とね」
わざとあけすけにケイがうそぶく。その実、ウィリーの反応を注意深く見守る。
案の定、この言い方には本人もかなり気分を害したのだろう。仮面がほんの僅か、剥がれかけた。
「弟との仲を邪推するのは、いかな君でも許し難いね」
それは失礼。しれっとケイが鼻で笑う。ウィリアムズ・パークスが少年好みのゲイであることなど先刻承知だ。さりげなく揶揄すると、冷ややかな視線をかいま見せた。
「せめてLGBTとくらい言ってくれてもいいんじゃないのかい?性的志向は個々人の自由であり権利であるとね。君だってマイノリティに属する人間には違いない。僕の気持ちは十分理解できると思うけれど?」
通常の異性愛者に含まれない者らが、その主義主張を打ち出す為にまとまった概念としての用語「LGBT」を使用することは、主に米国を中心として広まってきた。個人の趣味になんぞ何の興味もなければ口を挟む気もないさ。被害者さえ存在しなければ、な。
苦い想いと過去の濁流にのまれそうな前兆に、ケイはサングラスを下げると車窓から屋敷全体を見廻すように視線を向けた。
玄関の車寄せにウィリーはさっと自車を滑り込ませる。まるで高級ホテルでもあるかのように、使用人が飛んできてそのまま運転を代わる。
無言で降りるように促されたケイは、その眩しさに足元を取られた。どうしても慣れることのできぬ違和感。視界の多くを奪われたことにか、それとも……オッド・アイではなくなった奇妙な安堵感へか。
右手で顔を覆うと、大きなエントランスの柱に寄りかかる。隙は見せたくない。口惜しさに唇を噛むが目眩で動くこともできぬ。
その様を、おそらくは冷たく見つめているであろうレプティレス。人の形をした冷血動物。
「手をお引きいたしましょうか、王女様。いや…黒き女神とでも呼んだ方がお似合いかな」
その言葉に、ケイは反応した。女神……こいつは別のルートであの組織を知っている。出どころは、もう一人のケイ…か。
「お帰り義兄さん、あれ?お客さ……」
涼やかな声が途切れる。ケイの姿を認めたのだろう、パークスの弟は。
二人のケイ・ハミルトン。ややこしくてたまらないね、ケイは精いっぱい自虐的に今の状況を嘲笑おうとして、上手くはいかなかった。
「ようこそ、ハミルトン子爵様。先日は失礼いたしました」
かすむ視界の端に彼を捉える。微笑む様は自分とよく似たプラチナブロンドに碧い瞳。しかし彼には穏やかな世界で育ってきた余裕と、なぜかウィリーと通ずる冷ややかさが備わっていた。
「今夜はラテン語の学習会だ。子爵殿はたいそう語学に堪能でね。おまえもしっかり教わるがいいよ、ケイ」
それは大変だ、と弟は屈託のない小さな笑い声を上げる。ようやく息を整えたこちらのケイは…真っ直ぐに彼を見据えた。口元を引き締めながら。
状況が飲み込めないのは、おそらくこの弟君一人。そのラテン語のテキストは到底まともな内容とも思えない。誰が書いたものか。それを思うだけでケイの心は重くなる。
「同じ名では混乱するので、今夜はハミルトン子爵と呼ばせていただくよ。不本意ながらね」
弟の前では、若干嫌味な口調も自重か。言っている言葉は酷いもんだがな。ケイは口を開かない。なぜかこの柔らかな雰囲気をまとうケイの前では、おのれの本来の姿を見せたくはなかった。だからと言って作り上げた気弱な子爵の仮面も被りたくない。
…おとう…と…。血縁関係にあるとすれば、こちらのケイが一番近いはず。その皮肉さに大声で笑い出したくなる。
ばかばかしい。彼はウィリアムズ・パークスの大切な観賞用愛玩動物と同等に過ぎぬのに。
「では僕のことはパークスとお呼びください。亡き義父と義兄の好意でパークス家に置かれている身分ではありますが」
あくまでも静かに彼は言った。身の程はわきまえる。そういう気遣いは忘れぬといったふうに。
「こちらこそわざわざ拙宅に足をお運びいただき、ありがとうございました。ミスター・パークス」
それだけを堅い口調で告げる。あの日のパークスがもたらした言葉が、どれだけケイにダメージを与えたことか。それを思うと、少しだとて心を許すという気にすらなれなかったのだ。
「じゃあ、客間にお茶を運ばせるよ。義兄さん」
「時間がないんだ、ケイ。あの日記帳を持ってきてはくれないか?書斎で読み解くことにしよう」
日記帳?ケイ・H・パークスが持っているとするのならば…ニコラス・ハミルトン子爵のもの、か。同じ父を持つ二人のケイ。彼らは同じように息を止めてウィリーを見つめた。
革の表紙に茶けたページ。全く細工なしのコピーだと言われ、渡された幾枚かの紙。ケイはリチャードとは違う、やや雑なその文字を丹念に追い始めた。
几帳面な備忘録ではなく、すべてをラテン語で書き記してある物語。そんな印象さえ与える日記帳に何度も現れる……ネメシスの文字。
冗長な文はだが、内容的にはリチャードが端的に示したものと相違はなかった。具体的な記述といえば、意外なほどの財産がハミルトン家にはあり、それを英国ではなく何故かフランスの銀行へ預けている事実。また名義人を巧妙に隠した領地を二カ国に分散して持っているということ。サラ夫人が亡くなった際、あれだけ揉めた遺産相続の争いの場でさえ明らかにされなかったことばかり。
これらの相続権はすべて…ハミルトン家の嫡男へ譲る予定であるという記述。これは、学生時代の日記ではない。それに追記のように書かれている。しかし、目的は変わらない。私利私欲ではなくあくまでもすべては、おのが中心に作り上げた組織の為。
そっと紙を目から離すと、ケイはこめかみを揉んだ。頭がずきずきと痛む。細かい字を読み続けたからだけではない。先代の子爵の執念と、ウィリアムズ・パークスの意図がイヤと言うほど伝わってきたからだ。
沈黙が流れる。
思いはさまざまだろう、そしてケイの胸中の複雑さもまた。
パークスの弟は黙ったまま、革の表紙を見つめていた。不自由な脚で学校へも通うことができずにいたという。ラテン語を巧みに読み進めるコックニー育ちの兄を見て、何を思うだろうか。
耐えきれず口を開いたのは、ウィリーだった。
「これが何を意味するか、聡明な君ならわかるだろう?」
氷のような冷え切った言葉と、舌なめずりの幻想さえ浮かぶ毒トカゲ。毒蛇とまでもゆかぬ小悪党。ケイは大きくため息をついた。
「つまり、こう言いたいのだろう?貧乏子爵とは名ばかり。ハミルトン家には隠された財産がある。となれば重要となるのが『嫡男』の定義。誰がそれを相続するのか、ということ。金持ちのくせに発想はみみっちいな、大物弁護士さんよ」
ふん。鼻で笑うとウィリーは言葉を続けた。定義も何も、君には何の権利もないだろう?と。
「残念だったな。逆に礼を言わなきゃならないのか。おれだって知りもしなかったんだからな。これは皆、遠慮なく相続させてもらえるって訳だな。今さら…ばかばかしい」
「この件に関しては、財産の多寡ではなく名誉をかけて義弟の為に訴訟を起こす。まあ、今抱えている案件が片付いてからということになるがね。弟のケイ・H・パークスこそが正統な嫡男であるということは明白だ」
なおも言いかけた兄を、パークスはさえぎった。そして寂しげな視線を向けた。
「義兄さんは、僕が嫌いなの?」
僕ら親子をここから追い出したくて、ハミルトンの継承権を争わせようとしているの?ここにれっきとした後継者がいらっしゃるのに。
パークスの声の後半は、ケイの耳には入ってはいなかった。
……僕が嫌いなの?……
君までそんな台詞を言わされなきゃならないのか。何故?なぜ!?
幼い僕がクインシー兄様にいじめ抜かれたように…。過去が錯綜する。
逆に、パークスの言葉に慌てたのはウィリーだった。
「おまえを追い出すなんて!パークス家の次男がハミルトン子爵を名乗って何が悪い!?そんな例などいくらでもあるだろう?」
「でも義兄様は、お母様とは一緒に暮らせないと」
「生活の保障はしてやる!十分すぎるほど十分にだ!!しかし、おまえとあの母親を一緒にしておく理由など何もない!!」
それもパークス家の金は一銭も遣わずに、か。徹底しているな大貴族ってヤツは。ようやくケイにいつもの皮肉げな笑みが浮かぶ。
「当てが外れて残念だな、大先輩。悪いがおれは正真正銘の跡継ぎだ」
ウィリーの鋭い視線がケイを捉える。でたらめも程ほどにしろ、似非子爵め!こっちが何も知らないと思っているのか。君がコックニーをうろついていた証拠はいくらでも集めてある!
ウィリーが激昂すればするほど、ケイの気持ちは醒めてゆく。厭になるほど冷静に。
「悪いな。あの守銭奴どもの集まりである親戚連中が、なぜ黙っておれに子爵位を譲ったと思ってるんだ?」
「うまみがないと思ったんだろう!?当時は隠し財産のことなど誰も知らない。この日記帳は大切な息子であるケイに託されたのだからな!!」
大切な息子の……ケイ。そう、おれは要らなかったんだ。先代の子爵が認めたのはケイ・パークスであり、おれじゃない。胸がずきりと痛む。悟られてはならない。
「そんな大人しいタマであるものか。おれには内緒でDNA鑑定まで行っていた。それさえ当事者のおれにも結果すら伝えず、ヤツらはさも施しと同情心だけでおれを屋敷に置いてやると言ったんだ。真実を知っていてもなお、おれを野良猫扱いし続けた」
「DNA…鑑定…!?」
ウィリーの動きが止まる。パークスは目を見開く。こいつらが知らぬのも無理ないさ。おれだって知りもしなかったんだから。ケイの自嘲気味な乾いた笑い。
「徹底したヤードの切れ者警部の追及に、今頃になって親戚どもが証拠を出してきたそうだ。正確に言えばヤツらのお抱え弁護士がな。当時、きちんとしたDNA鑑定は行われ、しかし結果は世に伏せられたと。グレーなニュアンスを残しながらおれは貧乏子爵家を背負わされ、後始末に追われた。恩着せがましく蔑まされながらね」
どういう、ことだ?ウィリアムズ・パークスの声も乾いていた。ケイ・パークスが子爵の血を継いでいることは確か。しかし相続権は…あくまでも嫡男。
「はっきり言わないとわからないのか?おれはニコラス・フリップ・ハミルトン子爵とサラ夫人との間に生まれた、れっきとした実子である。証拠もある。生後すぐキャリック=アンダーソンの元へと特別養子に出されたが、それは既に解消済みだ。これでいいか?隠し財産の情報は有り難く頂戴していくよ。いくらあんたが訴訟を起こそうと、恥をかくのはおたくさんたちの方じゃねえの?」
ウィリーの手がわなわなと震える。この事実を突き付け、旨そうな餌をちらつかせてから叩きのめそうとした彼の思惑は、まったく意味をなさなかったどころか…逆効果となってしまったのだから。
「き、君の言葉だけで信じられるものか!?じゃあなぜ、君がハミルトン家から出なくてはならなかったのだ!?もし君が言い張るように、ケイという嫡男がいればそれでよかったのだろう?」
それは…。歯を食いしばりながらも、自分を傷つける言葉を吐き出そうとしたケイは、物音にびくりと身体を震わせた。
突然開かれた書斎のドア。この女とは落ち着いて逢うことはできぬのか。
そこに立つのは、アマンダ・パークス夫人だった。
言いたいことはあるのに言葉にならぬ、そんな混乱の中にいたのは青年たちだけではなかったのだ。
「おれが…オッド・アイだったから。先天的に外見上目立つ障害を抱えていたから。であるならば嫡男であっても『ネメシス』にもその上部組織にも加入することはできない。だから手放した。そうでしょう?パークス夫人」
掠れたケイの声。
それを聞いたアマンダは首を思いきり振り続けた。すべてのケイの言葉を否定するかのように。
「違う!違うのさ!!あの方は騙されたんだよ!?ありもしない奥様の不貞を吹き込まれて!!」
「不貞?」
ケイの瞳が歪む。フリーメイソンになれぬから、おれはあの家を追い出されたのではないのか!?
「碧く澄んだ瞳は西洋の血。黒き瞳はそうではない。ネメシスの呪いだと。あの貞淑な奥様を疑わせるような呪詛を耳に入れた悪人がいるのさ!!」
誰が……。名など訊かぬともわかっている。聞きたくもない。おれはきっと最初から、すべてを知っていたに違いない。
ケイの足元が崩れ落ちてゆく。気力だけで踏みとどまる。
「仲睦まじかったご夫妻に、酷いでたらめを言い放ったのは…。ハミルトンの家をすべて変えてしまったのは……」
子爵様のご学友と名乗る男…エマーソン。
床に倒れたのはしかし、アマンダの方だった。
(つづく)
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